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高山羽根子著・単行本『如何様』大澤聡氏による書評「ポスト・トゥルースの彼岸」を特別掲載!

 単行本『オブジェクタム』と『如何様』を合本した贅沢な一冊、高山羽根子さんの文庫『オブジェクタム/如何様』が刊行されました。単行本刊行時に「小説トリッパー」2019年冬季号でご執筆くださった批評家・大澤聡さんの『如何様』書評を特別掲載いたします。

 1947年12月29日、1人の男が死んだ。ハン・ファン・メーヘレン、画家である。のち世界的にその名を知られることになる。ただし、フェルメールの精巧な贋作の制作者として。遡ること2年半前、ナチスの高官ヘルマン・ゲーリングらにオランダの名画を売り渡した罪で起訴され、世間はこのナチス協力者にバッシングを浴びせた。しかし、拘留中の本人の告白と法廷での長期におよぶ実演とによって、売却したのはじつは自身の手になる贋作だったことが判明。すると、憎きナチスに偽物を掴ませた男として、一転、英雄視されるようになる。

 いずれにしても有罪となりはしたものの、世間の心情的な評価はがらりと反転したのだからいかにも物語的だ。この20世紀最大の贋作事件が教えるとおり、善悪の判定は真偽とはまた別の基準に由来する。環境や条件にたやすく依存してしまう。そして、真偽の境界もまたしばしば融解するから厄介だ。いくつかの戦時から戦後への移行にともなう価値の大転換はそのことを浮きぼりにしてはきたけれど、近年フェイクニュースの脅威に直面し、いっそう意識させられるのはかつて以上に分散化した真偽の基準にほかならない。真偽の判定など可能なのか。そもそも真とは何か。偽とは何か。

 表題作にも贋作者が登場する。年代の明記こそないが、敗戦直後の東京が舞台だから(第2次大戦後と素直にとるなら)、遠くアムステルダムでメーヘレンが死んだ時期と近い。ただしフィクションだ。記者の「私」は知人から依頼され、ある謎を追って周辺人物たちへの聴き取りを行なう。謎とは以下のようなもの。

 それなりに名の知れた画家だった平泉貫一は戦争末期に出征、戦後は捕虜として抑留された。出征直前に見合い婚をしたタエ、それと貫一の両親の3人は空襲で家財を失い仮住まいをしている。そこへ貫一が復員。ところが、書類は本人と証明しているのに似ても似つかぬ完全な別人なのだ。家族は戸惑いながら迎える。そんな(偽?)貫一はしばらく絵を描いて過ごしたかと思うと忽然と姿を消す。あれは本人だったのか、その点だけ調べてほしいというのが依頼だった。証言を集めて回るうち、戦前の貫一は巧みな贋作の作り手でもあり、きな臭い話に応じていくつも手がけたこと、戦地ではその能力を買われて各国の報道資料や文書、書簡、名画などを偽造する任務に従事していたことが浮かびあがる……。

 かくして、復員後の貫一の真偽に贋作という別の真偽が折り重なる。そのほか大小複数の真偽や、真偽をめぐる言説が追加される。そして、戦後の作品を本物の貫一によるものと太鼓判を押す画廊主が「戦争の前の彼とは別人の偽物であろうが、同一人物であろうが、そこはあまり大きな問題ではなく、今の彼の仕事ぶりは、ないより在ったほうがいくらかでも世の中がましになりうる」、つまり機能的に等価であればそれはもう本物と見るべきではないかという第3の見解を提供するにおよんで、本物か偽物かをめぐる難題はぬるりと相対化されてしまう。

 貨幣のごとき「空虚な中心」(ロラン・バルト)である貫一は作中一度も姿を現わさない。藪の中だ。様々な角度からの証言だけがひたすら外縁を埋め続け、それを巡礼する「私」の関心は真偽に留まらぬ別のものへと組み替わってゆく。

 戦局攪乱のために贋作を大量に作らされている最中、貫一の意識は使い途には向かっていなかったと「私」は想像する。「右にあるものをそっくり左にかき写せと言われ、その指令に夢中になって従っていただけなのだろう」。芸術家としての純粋な興味が先行し、粛々と仕事をこなす。ユダヤ人大量殺害を指揮したアドルフ・アイヒマンのように。大罪を犯す者が生来の極悪人かといえば必ずしもそうではなく、むしろごく凡庸な人間だったという例の問題がここに加わると、真偽とともに善悪という見かけの単純な二項対立も瓦解する。「わかりやすく善と悪に収束しない」という「私」の気づきは示唆的である。

 貫一を診た軍医の「記録は私の元には残っておりませんから、記憶だけで」との発言に象徴されるとおり「記録」/「記憶」の二重性も作品の基調となり、聴き取りという形式がそれをさらに二重化する。貫一の判別資料からして画集に掲載された自画像を上からカメラで撮ったもので、模造の転写の複写なのだ。二重性が何重にも攪拌される。まさに現代のポスト・トゥルース問題の構造的要因そのものじゃないか。

 一方に、本物か偽物か決めなければ収拾がつかない世界。他方に、貫一の親のように偽物とわかっていながら本物と信じたい世界。そして、どちらでもよく機能が全てという世界。無数の基準が棲み分けつつ、激しく抗争している点が現代の世界情勢の難所だとすれば、“真実とは何か”をめぐるその渦中に小説からアプローチしたのが本作だといえる。ただし結論は急がない。宙づりのまま差し出す。結論を確定させるや、真偽の対立構図へと丸ごと巻きこまれてしまうのだから。

 なお、表題作の戦略を異文化間における真偽や善悪の相対化として応用すると、併録作「ラピード・レチェ」になる。


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