【文庫化記念】父・井上光晴と母・郁子、瀬戸内寂聴がモデルの問題作『あちらにいる鬼』井上荒野さんインタビュー
井上荒野氏の『あちらにいる鬼』がこの度、文庫化された。本作のモデルになったのは、井上氏の父である戦後派の作家・井上光晴と母の郁子。そして光晴の愛人だった瀬戸内晴美である。光晴と瀬戸内の愛人関係は隘路に入り、それを打開する手段として瀬戸内は出家。法名「寂聴」となった。瀬戸内は愛人関係にあった頃に何作か二人の関係を小説化し、出家したのちも『比叡』などの作品に結実させている。だが当時は愛人である男の職業を変えるなど配慮しており、文壇関係者以外にはあまり知られることはなかった。井上氏自身、父と寂聴がかつて恋人同士だったことは大人になってから知ったという。
『あちらにいる鬼』は母と寂聴をモデルとする二人の女性の視点から交互に描かれる。やがて一人は出家し、男は病に倒れ、女たちが残る。そこからまた二人の新たな関係が静かに育っていくようすを、細やかに描いた作品である。「小説トリッパー」での連載が2019年に単行本化された際の井上氏のインタビューを特別に公開する(初出 2019年3月18日)。
(インタビュー・構成:千葉望/写真:掛祥葉子)
■瀬戸内寂聴さんに読んでいただきたかった
――一気に読ませていただきました。『あちらにいる鬼』を書き終えて、今はどんなお気持ちですか。
井上:「小説トリッパー」は季刊だったので月刊誌へ連載するよりは時間的余裕がありましたけれど、それでもこの三人のことを書くことはとてもむずかしいことでした。本当に精魂込めて書いたので、書き上げた時はぐったりして寿命が縮まったような気がしたほど。構想から本にまとめる時間を含めると、四年半くらいかかっていると思います。
「ご両親と寂聴さんのことを描いてみませんか」という依頼を受けたときには、自分のなかに書くという選択肢はありませんでした。その時は母が亡くなって一年くらいしか経っていなかったし、もともと私はスキャンダラスな作品を書くタイプでもない。何より、両親はもういないけれど寂聴さんはお元気だったので、「そんな怖いことはイヤ」と言っていました(笑)。でもその提案はずっと心に残っていて、書くとしたらどういう風に書こうか、なんとなく考えていたんです。
その後、寂聴さんの体調があまり良くない時期があって、お電話をいただくことはあったものの、そろそろお目にかかっておかないといけないという気になりました。そこで、江國香織さんと角田光代さん、私の夫や編集者の方々とで寂庵にお邪魔したんです。幸い寂聴さんはとてもお元気で、半日ぐらいずっとお話しして、ご飯をご馳走になって、その後祇園のお茶屋さんにも連れていっていただいて(笑)。すごく楽しい時間でした。その間、寂聴さんはずっと父の話をしていたんですね。私に対するリップサービスもあったかもしれないけど、他の人がいても、「井上さんはこんなこと言ったのよ、あんなことをしたのよ」と父の話が多くて。それを聞いていると、「ああ、寂聴さんはほんとに父のことが好きだったんだ」と思いました。それで、すごくぐっときてしまったんです。「寂聴さんは父との恋愛をなかったことにはしたくないんだな、私が書かないといけないんだな」と思いました。
寂庵に伺う前は、内心「こんな風に書けるかな」とあれこれ考えていたものの、編集者には「それでも書くのは寂聴さんが亡くなったあとにします」と言ってました。でもお会いした後は、「ぜひ寂聴さんがお元気な時に読んでほしい」という気持ちに変わりましたね。書きたい、寂聴さんに読んでほしい。そんな気持ちに突き動かされて、本格的に準備を始めたんです。
――小説中ではお父様をモデルにした「白木篤郎」を核として、お母様をモデルとした「笙子」と寂聴さんをモデルとした作家の「長内みはる」の視点が交互に登場します。この手法は最初から決めていたのですか。
井上:この作品が書けるかなと思った時、最初に「父と母と彼女」という言葉が出てきました。まずは、父と寂聴さんとの関係を知った後の自分の視点から書いてみたんだけど、やっぱりおもしろくならない。どうしてもエッセイみたいになってしまいますから。どんなに想像してみても、結局は「私の想像では……」という書き方しかできないじゃないですか。父と寂聴さんが一緒にいる場面とか、子供抜きで父と母が一緒にいるところが広がらない。だんだんつまらなくなってきちゃったんです。
三人の関係をずっと考えていると、一番不思議なのは母のことだと思い当たりました。私はやっぱり母のことが知りたかった。我が家はずっと穏やかで、私は父に寂聴さんという恋人がいるとは知らないで成長してきました。母はいつもニコニコしていたし、おいしい食事を作って、父とも仲が良くて。平和な家庭だったんです。父に何人もの女性がいることを知りながらそういう家庭を作っていた母は、一体どういう気持ちだったんだろう。
それなら、母と寂聴さんの視点で一つの同じスパンを書こうと思いつきました。最初は、大変なことを思いついてしまったと怖かったですよ。「無理無理、絶対無理!」って。でもどんどんやりたくなってきて、「それぞれの視点から書いた章を交互に展開していったらどうだろう」と編集者にも相談してみました。やり始めたらやっぱり正しい方向でしたね。本当に大変でしたけど。
――寂聴さんはどの段階で原稿を読まれたんでしょうか? もちろん、ご自分でもお父様をモデルにした作品をいろいろ書いてきた方ですから、覚悟はあったと思いますが。
井上:小説にしたいと話しに行ったら「書きなさい、書きなさい!」ってすごく応援してくださったんです。「こんなふうに書いて」とか、「ここからここまでは書かれるのは嫌だ」とかもいっさいおっしゃらない。「なんでも話すから、聞いてちょうだい」と。実際に連載中も何回か、寂庵にお話を聞きに行ったんです。連載の一回目が掲載された時にはすぐ電話があり、「とってもよかった」と励ましていただきました。あとで、「もっと聞いてくれれば、もっといろいろ話すことがあったのに」と言われました。自分としては遠慮会釈なく聞いたつもりだったんですけど(笑)。ただ、これはあくまでも小説なので、私が想像して書く部分を大切にしたかったということもあります。
――連載中はどれくらいの枚数で書いていらしたのですか?
井上:最低五十枚ですね。長い時は七十枚くらいとか。その時々で変わっていきました。「みはる」の章が長いこともあったし、「笙子」のほうが長いこともありましたね。最初は「笙子」のパートがむずかしいだろうと思っていたけど、実際に書いてみると「みはる」のほうがむずかしくて。なぜかというと、資料として寂聴さんの小説をたくさん読んだから。寂聴さんは『草筏』や『比叡』などで父とのことをたくさん書いていらっしゃるので、どうしてもそちらに引きずられてしまうんです。当事者の文章を読んでしまうとそれ以上のことがなかなか書きづらい。そこに自分の想像力をプラスするというのが、大変でした。
出家の直前、「篤郎」と「みはる」が一緒にお風呂に入って、「みはる」の長い髪を洗ってやる場面があります。この場面はまったくの創作なのですが、そういう場合はディテールをひとつずつ想像しなければならない。「みはる」がどんな家に住んでいるか、どんな着物を着ているか、どんなお風呂場だったのか。けっこう時間がかかってしまって、「次に母のパートを書くなんて大変」と思ったけど、こちらのほうは「あれあれあれ」という感じでどんどん書けたし、書きたいことも出てくる。やっぱり自分が育った家の中が背景なので、ディテールが揃っていて、そこから想像が広がっていきやすかったのだと思います。
――寂聴さんの感想は気になりましたか?
井上:気にしなかったです。腹をくくった、というのもありますし、くくれたのは寂聴さんのおかげもあります。その都度、ゲラを渡していたと思うんですけど、全部終わってから書評用見本が届いた後に寂聴さんから留守電が入っていたんです。「すごいわね、すごいすごい!」と(笑)。改めてお電話したら、「連載中はいろいろ言いたくなるからあまり読まないようにしていたけど、改めて読んだらこれは大変な傑作よ!」と褒めてくださった。この言葉は信じることにしています(笑)。
――寂聴さんには、「作家なのだから自分も書いてきたし、書かれてもよい」という「作家魂」みたいなものを感じます。
井上:本当にフェアな方なんだと思います。素晴らしいことですよね。私自身、今回は自分で納得のいくものが書けたと思う。でも、たとえ大したものが書けなかったとしても、寂聴さんは私が全部書き終えるまでは「よくないわね」とはおっしゃらなかったんじゃないかと思います。
■生き方を自分で決めた人たち
――寂聴さんと井上光晴のことは作品を通じていろいろ知っていますが、なんといっても不思議なのは「笙子」という女性です。夫と「みはる」の関係を知っていながら何も言わず、静かに受け入れ、平穏な日常生活を営んでいく。そこに怨恨のような感情もなくて、最後には出家して「寂光」となった「みはる」と友情とも言える関係を築いていきます。はたから見れば理解しがたい関係ですが、『あちらにいる鬼』を読むと、それが不思議に思えなくなりますね。
井上:世間的に見れば、言葉にしづらい関係かもしれません。実際のところは想像するしかありませんが、母には母の考えがあったはずで、もちろん寂聴さんにも同じことが言えると思います。誰しも、誰にも言わないでおくことってあるはずですから、二人の関係について言えば、はっきり名指すことは難しいですけれども、現時点で私が考えられることすべてを作品に書き切ったつもりではいます。
人が物事に対処するにはいろんな方法があるでしょう。夫がよそに女を作ると奥さんは不幸だとか、妻が泣き狂うのが「ふつう」だと思われているけど、実際にはそういう人が幾分多いというだけであって、百人いたら百通りの行動がある。それが私の小説家としての基本的な考え方です。
――この小説の中では誰も他人を裁かない。現代はネット社会の発達とともに、安易に他人を白か黒かで裁くようになりました。そういう風潮とは遠く離れたところで生きた人たちという気がします。
井上:そういう人たちなんです。私は今回この小説を書いたこととは無関係に、寂聴さんを裁こうという気持ちはもとよりまったくなかった。それは当事者の問題ですから。私が母の立場だったなら怒りはするけど、裁かなかったと思います。
――ここには、裁かないことによって生まれる空気感というものがあります。ただ、それを味わうには、ある程度の人生経験が読者にも必要かもしれません。
井上:そうかもしれないですね。不倫に対して固定的なイメージや考えを持っている人は、嫌悪感を抱くかもしれない。それでもチラッとでも、「こんな人たちもいるんだ」と思ってくれたらいいなと思います。
そういう人たちに言いたいことがあるとすれば、一口に不倫すると言ったって、百人いたら百通りの関係がある。自分が知っていると思っているのは一部の関係にすぎないということですね。私は自分の小説で誰かを啓蒙するつもりはないけれど、そこはゆずれないです。
――小説中で、娘が文学賞をとった記念パーティに行く「笙子」が、かつて「みはる」からもらった着物を着ていく場面があります。それは「みはる」の家でその着物を目にした「篤郎」が、「その着物をうちの嫁さんが着るときっとよく似合う」というようなことをしつこく言うものだから、根負けしてあげてしまったものですね。
井上:実際、私が直木賞をいただいた時のパーティで母が着た着物は、寂聴さんにいただいた色留袖でした。もちろんそこには寂聴さんもお招きしていました。アテンドの方がなぜか寂聴さんを親戚のテーブルにご案内したらしいんですが(笑)、そこには夫と母、さらには父の担当だった編集者がいっぱい座っていて、父と寂聴さんの関係を知っている人たちばかりなんです。おそらく母は、そこでどういうふうに寂聴さんにお目にかかるべきか考えていたと思います。「ああ、これはいただいた着物を着て行こう!」と決めたんでしょうね。そして、寂聴さんがいらした時に、ぱっと袖を広げて見せた。これは想像でしかありませんが、母の防衛本能、先制攻撃だったのかもしれませんね。
――お父様は実際、最初から寂聴さんにお母様のことを「美人で、料理がうまくて」とのろけていらしたとか。
井上:初めて父と寂聴さんが講演旅行で出会った時、寂聴さんの部屋に押しかけて帰らなかったそうなんですが、何を言ったかというと母ののろけで(笑)、それで口説いていたんだろうけれど、父は寂聴さんに「妻と別れて結婚しよう」とか、「俺の子供を産んでくれ」とかの言葉は口にしなかった。そもそも、母と別れる気は毛ほどもなかった。母が作ってくれる料理や穏やかな生活を捨てられなかったんです。それは寂聴さんも最初からわかっていたし、自分と結婚してほしいとはまったく思わなかった、とおっしゃっていました。
――今の女性は、いくら自分を必要としてくれていても、他の複数の女性と関係を続ける夫をなかなか許せないかもしれません。でもお母様は黙って家庭を営むことを選ばれた。それはなぜでしょうね。
井上:父に絶望したり頭にきたりしたことはたくさんあったと思う。でも、やっぱり父のことを好きだったんだと思いますよ。子どものために我慢していたというふうには思えないんです。自分で父と一緒にいようと決めて、そのために自分自身のこともある意味で騙していたのじゃないでしょうか。
また、父には確かに文学的な志がありました。全国各地に「文学伝習所」を作って、作家志望者を熱心に指導していましたし。母は根っこのところでは父の生き方を尊敬していたと思う。認めていたんです。たとえば弱い人のために本気で怒るところとか。それは子供の私でもわかることでしたね。それと同じように、女性関係にだらしない困った父も存在していたということです。
私がまだ高校生か大学生だった頃、母はとにかく一番父が好きなんだって思っていたことがあります。崖の上に父と私と妹の三人がいたとして、転落しそうになったときに母が誰か一人助けるとしたら、経済的なこととは無関係に迷いなく父を助けるだろうなと思っていた。母はいつも私や妹のことを考えてくれているけど、究極の三択だったら母は父を選ぶのだろうなと。寂しいとかひどいとかいう気持ちではなく、自明のこととして納得していたんです。
母ってどこかで怠惰な人だったと思うんですよ。決して悪い意味じゃなくて、ここから先に踏み込んだり、心の中を考えたりすると、ものすごくつらいからやめておこう、みたいなところのある人。そうすることが彼女なりの生きていく方法だったんじゃないかなと思うんですよね。まあ、この小説を書き上げた今でも母はちょっと計り知れない人ですね。どんなことを考えていたんだろう。私は今の時点では、父をそれだけ好きだったんだろう、最後まで父を好きでいることに決めたんだろうと思っています。
寂聴さんも自分で出家することを決め、父とのことを長い間、公にしてこなかった。そういうふうに生きると決めてきた。だから『あちらにいる鬼』は、自分で決めた人たちの話なんです。
■小説家が三人いた家庭
――驚くのは、井上光晴名で発表されている小説のうち何作かはお母様が書かれていたということです。
井上:締め切りに苦しんだ父が書かせて自分の作として発表したらしいのです。母は自分の名で書きたかったのか、父の名前でならという条件を母がつけたのか。小説では後者にしたけれど、私にはまだわからない。寂聴さんにも聞いたんですが、「誰だってそんなの自分の名前で出したいと言ったに決まってる。お父様が止めたのよ。自分より才能があるからヤキモチを焼いたのよ」とおっしゃっていましたね。
もし私に小説家の資質が人よりもあるとすれば、父というよりもこの家庭に育ったからだと思います。不倫はとにかくダメとか、不倫されたら不幸だとか、幸せってこういうことだとか、そういう世間的な尺度とは無縁の家に育った。自分で考えた結果じゃなくて、性質としてそういうことが染み付いている。それがまずひとつあって。
言葉という点では、父よりも母の資質を受け継いでいるのではないかと思うことがありますね。父の死後、母が私に「自分が書いた短編が作品集に収められている」と言ったとき、「あれだ!」とわかるものがありました。「眼の皮膚」や「象のいないサーカス」ですね。寂聴さんもわかったそうです。母は私の作風を父に似ていると言っていましたが、私は自分の性根の部分は母に似てると思うんです。情景を小説にする時の道筋とか、世界を見るやり方、言葉にしていくやり方。これは母の血。母が本格的に創作に取り組んだら、よい小説を書いたと思います。
――そうしなかったのは、世代的なもの、夫よりも控えめに振舞うのが当たり前という考え方があったからでしょうか?
井上:そこがわからないんですよ。自分の名前で自分の中身を明らかにすることが嫌だったとか怖かったのか。フィクションはどうしても自分が出てしまうものだから、自分が書いたものから人にあれこれ推測されることを避けたんじゃないかとも思うんです。
父も母が自分の名前で創作をすることは好まなかったでしょうね。結局母は、父の妻でいることのほうを選んだのかもしれません。父の「妻業」だけでも大変だから。でもそれだけが書かなかった理由なら、父が死んだ後に書けますよね。その時はもう私が小説家になりかけていたので、私に遠慮したというのか、私を小説家にしたいという気持ちが強かったんじゃないか。「自分が書いたら、この娘は自信を喪失して書けなくなるかも」と思ったかも。あまりそれは考えたくないですけど(笑)。
■いま現在起きていることへの関心
――井上家ではあまりお墓にこだわりがなかったと伺っています。それなのに墓地に定めたのは、寂聴さんが住職を務めていた岩手県二戸市の天台寺で、寂聴さんが自分のために買ってあったお墓のそばでした。よく「夫と同じ墓には入りたくない」という妻が多いのに、お母様は違いましたね。
井上:結局、それも母が決めたんですよね。父のお骨をしばらくの間クローゼットに入れていたくらい、お墓にはこだわりがなかった。でも寂聴さんから「天台寺の墓地はどう?」とお話があって、「そうするから」と、もう自分で決めたこととして私たちに言ったので、「母がいいなら」と受け入れました。
お墓参りに一回だけ一緒に行ったんですけど、そのときは新幹線が盛岡駅までしか通っていなくて、天台寺まですごく遠かった。ローカル線にも乗ってさらに車に乗り継いで行くんです。寒い日で「なんでこんな遠いところにお墓作ったのかしら」って母が愚痴るんですよ。自分で決めたのにね(笑)。今は新幹線が延伸したから近くなりましたけど。
――かつての愛人のお寺のお墓に夫婦揃って入る。またお母様は寂聴さんの小説をよく読んで、ハガキなども送られていたと伺っています。井上光晴という男を仲介として、お互い理解者というのか、不思議な関係を構築していかれた。二人とも長い間沈黙を守り、あたかもお互いを守り合ってきたかのようです。そもそも、寂聴さんが平泉の中尊寺で出家された時、「行ってやれ」とお父様を促したのもお母様でしたよね。
井上:そうなんです。寂聴さんがなぜ出家したのかということについては、ご本人も完全に説明できない時期が長かったですよね。最近になって、「井上光晴との関係を清算するためだった」と公におっしゃるようになったけど、それまではぼかしていた。私が『あちらにいる鬼』を書き始めてからは、はっきりおっしゃるようになりましたね。私が書いた時から「もう話してもいい」と判断されたのかもしれません。
父が亡くなった時に寂聴さんに弔辞を読んでいただいたんですが、その時はまだ関係を隠していらした。弔辞の中で、「私とあなたはセックス抜きの、深い友情で結ばれていました」というようなことをおっしゃいましたが、今回確認してみたら、「あれは嘘!」とばっさり(笑)。あの時はまだ母も生きていたし私たちもいたから、本当のことは言えなかったと思うんですけど、ああいう場で「セックス抜き」とあえて言ったのは何故なんだろう? とずっと考えていました。その考察は小説にも反映しています。
寂聴さんは私がデビューした頃からずっと励ましてくださっていました。それでも最初の頃は父のことと関係なく煙たかった。怖かったですね。いつも気圧されて、圧倒されてしまうので会うのは気が重くって。でも、何かの機会にお話しすると「あの小説、おもしろかったわよ」とか「荒野ちゃんは大丈夫よ」と父に成り代わって力づけてくださっているみたいなんです。「井上さんも安心してるわよ」と。父は私が作家としてやっていけるかどうか、ずっと心配していましたからね。寂聴さんは今回、単行本の帯にも言葉を寄せてくださっています。
――執筆では絞り尽くすように考えられたのだろうと思います。書き終えて、今、ご自分なりの納得感はおありですか。
井上:すごくありましたね。達成感があったし、書いてよかったなと。勧めてくれた編集者に感謝しています。みんないろんな気持ちで読んでほしいと思うし、何よりもたくさんの人に読んでほしいです。
――この作品をお書きになって、これから書きたいものに変化はありましたか。
井上:これまでは男と女とか、いろいろな人間関係を描いていたんだけど、いまは、この時代とか、いま現在起きていることを書くということに少し興味が向いてきました。そういう小説はたくさん出ていますけど、「私だったらこういう風に書く」という気持ちが出てきたんです。もちろん、いわゆる「社会派」と言われる作家の方々とは違った書き方になってくると思います。
世の中では絶対的に間違っていることはありますよね。最近の例で言えばハラスメントとか。それをテーマに書くとしても、世界を外側から見て「こっちが善でこっちが悪」と書くのではなく、内側から世界を描写できたらいいなと思いますね。もともと小説にメッセージを込めるタイプの作家ではないので。
――ありがとうございました。