【冒頭部分読めます!】あまりの衝撃に担当編集者も打ち震えた、恐怖の限界会社員ミステリ『死んだら永遠に休めます』/続きはネットギャリーで全文公開!
\書店関係者、レビュアーの皆様!/
━━━━内容紹介━━━━
死んでほしいと思っていたパワハラ上司が死んだらしい。容疑者は――部下、全員。
無能なパワハラ上司に苦しめられながら毎日深夜まで働き詰めの生活を送る28歳の主人公・青瀬。突然失踪したパワハラ上司・前川から届いたメールの件名は「私は殺されました」。本文には容疑者候補として「総務経理本部」全員の名前があった。
限界会社員・青瀬と妙に頭の冴える派遣社員・仁菜は二人で真相解明に取り組むのだが……。
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『死んだら永遠に休めます』(遠坂八重・著)冒頭
プロローグ
第一章
毎日が帰り道から始まればいいのに。
そう思ったことはない?
私はある。毎日ある。今現在進行形でそう思っている。
今すぐ電車を飛び降りて、三十分前に出たばかりの家に帰りたい。
窮屈なパンプスを脱ぎ捨てて、首の詰まったブラウスもウエストのきついタイトスカートも丸ごと脱ぎ捨てて、オーバーサイズのTシャツとゆるいゴムのハーフパンツに着替える。ほどよく冷えた麦茶を一気飲みしたあと、何も考えずベッドにダイブする。冷房をがんがん効かせた部屋で、肌触りのよいタオルケットにくるまって、死んだように眠りたい。そのまま死んでもかまわない。
などと非生産的な妄想に憑かれている今、私のからだは上半身と下半身がちぐはぐな方向にねじまがっている。
ぎゅうぎゅう詰めの車内は、乗客たちの肉の壁に四方を囲まれて、少しも身動きがとれない。
汗が絶え間なく流れ出る。頭のいろんなところがかゆい。胸が圧迫されて、うまく呼吸ができない。むき出しの二の腕や首筋に、見知らぬ誰かの汗や皮膚や吐息がひっついて、じわりじわりと浸食されていく感覚がする。気持ち悪くて仕方がない。もちろんお互いさまだから、すました顔で我慢するほかない。
「川崎駅――。川崎駅――」
清明なアナウンスに促されて、肉の壁がうごめき出す。
扉が開いて、乗客たちが一斉に吐き出される。
人の波に揉まれ、足を踏まれたり肩を小突かれたりしながら、よろよろとコンコースを抜ける。手すりにすがりながら、北口西の階段を降りていく。
会社までは徒歩八分かかる。
仰げば憎らしいほど快晴の空。灼熱を背に受けてビル街の路地を進んでいく。
寂れた路地裏にひっそりと佇む、築四十年越えの雑居ビル。
『株式会社大溝ベアリング 川崎事業所』
どんなに嫌だ嫌だと嘆いても、歩を進めれば確実に会社に着いてしまう。
現在の時刻は八時二十分。
始業は九時だが朝清掃があるため、八時半には会社に着いている必要がある。
エントランスに入り、社員証をかざして従業員入口のドアを開く。
年季の入ったエレベーターに乗って、職場のある四階フロアに降り立つ。廊下の時点ですでに空気がよどんでいるのは、たぶん気のせいではない。
薄暗い室内、その最奥の一角だけ、ぽつんと明かりがついている。
総務経理統括本部――略して総経本部、私の所属する部署だ。
ここ四階フロアには、ワンフロアに営業部、サービス部、品質保証部、総務経理統括本部の四部署、計五十名弱が勤務している。うち総経本部のメンバーは休職者をのぞいて七人いる。
デスクに向かうと、すでに三人のすがたがあった。
「はよーございまーす」
掠れた私の声が、静寂の室内にむなしく響く。
「はよー」
「はよまーす」
返事もみんな覇気がない。誰も「おはようございます」がきちんと言えない。疲れている人間は、母音がうまく発音できない傾向にある。
通勤リュックを肩から下ろしてすぐ、自分のデスク横に立てかけてある『マイほうき』を握る。腰をかがめて床を掃きはじめる。
毎週水曜日は、『4S(整理、整頓、清掃、清潔)の日』である。始業前の三十分間、マイほうきやマイぞうきんを使って職場を綺麗にする。これは総経本部のみに課された義務である。『自己啓発活動』という名目のもと行われ、給料は発生しない。
中腰ってきついんだよな。
どうせ経費で買うのなら、もっと柄の長いほうきにしてほしかった。
「青瀬さんさ」
後ろからぼやけた声。
振り向くと、むくんだ顔の丸尾さんが、亡霊のように立っていた。丸尾さんは部の最年長。勤続三十年越えだが、役職にはついていない。
実はすでに死んでいると言われても驚かないくらい、恐ろしく生命力が感じられない。将来の自分を見ているようでたまに苦しくなる。
「そこ一帯は、ぼくもう掃除してあるからさ」
「あ、はい」
言われなくてもわかってしまう。濃灰色の絨毯に、白いふけが点々と落ちているから。
丸尾さんが床のほこりを掃うたび、その白髪交じりの頭から、白い粉がはらはら舞い落ちていく。
「丸尾さん、きのう泊まりですか」
「そうだよぉ。ちなみに二連泊」
「そうですか……」
かける言葉も見つからない。
「おはようございま~す」
どんよりとした室内に、明るい声が響いた。きちんと生命力のある声だ。
三井仁菜、二十二歳。部の最年少かつ唯一の派遣社員。
仁菜ちゃんは、私を見るなりほっとした顔になる。
「よかった~。青瀬さん、昨日はちゃんと帰れたんですね」
「昨日ってか、今日の朝三時だけどね」
シャワーを浴びるために帰宅したのに、あろうことか玄関で力尽きて寝落ちしてしまった。目覚めたときはもう、家を出なくちゃいけない時間の五分前だった。
シャワーは諦めて、とりあえず服だけ着替えて家を飛び出た。
予備の着替えなら更衣室に三日分用意してあるから、ただ無駄にエネルギーを消費しただけで終わってしまった。
「こんなことなら会社に泊まればよかったよ。満員電車エグすぎ」
「あれ、電車で来たんですか?」
「めまいひどくてさ。車だと事故りそうで怖かったから」
「事故ったら会社休めますよ~」
「たしかに。でも下手したら死んじゃうし」
「死んだら永遠に休めますよ~」
「たしかに」
「ふふ、冗談ですよ~」
仁菜ちゃんは屈託なく笑うと、バッグをデスク下に置き、後ろの小林さんの席に立てかけてあるほうきを手にとった。
小林さんは鬱でずっと休んでいる。前回は三か月で復帰したが、その後またすぐ来なくなって、今回はもう一年近く休職している。きっと彼はもうだめだろう。
仁菜ちゃんは、下ろしていた栗色の長い髪をひとつにくくって、熱心に掃き掃除をはじめた。
床を掃いているというか、地面を叩いている。そのせいで、丸尾さんのふけがせわしく舞い踊っている。
「仁菜ちゃん、派遣さんはこんなのやらなくていいんだよ」
「えー、私だけ掃除しないのってなんか肩幅が狭いですよ」
「肩身ね」
「肩身! 覚えました~」
「偉い偉い」
このやり取り、初めてじゃない気がする。人のこと言えたもんじゃないけど、仁菜ちゃんはあまり常識を知らない。
「ちょっと、燃えるごみにジャムのビン捨てたの誰よ」
扉付近のゴミ箱エリアから、保科さんの呆れたような声が聞こえてくる。
みんな一斉に仁菜ちゃんを見る。私も条件反射的に仁菜ちゃんを見る。
「あっ、私です~」
予想どおり、悪びれもせず仁菜ちゃんが手を挙げる。
「なんかまずかったですか」
保科さんは目をつぶり眉間に皺をよせ、無言で手招きしてみせた。まだ四十半ばのはずが、激務の雪崩でどっと老け込み、下手したら還暦間近の丸尾さんと同年代にも見える。
「あれ~?」
仁菜ちゃんはきょとんとした顔のまま、保科さんの元にいつもどおりのろのろと歩いていく。
〈やつ〉の姿はまだ見えないので、私も保護者気分でついていく。
保科さんは目に見えていらついていた。寝不足で黒ずんだ下まぶたがぴくぴくしている。
「ビンは不燃ごみなのわかる?」
「わかります」
「じゃあなんで燃えるごみに捨てたの?」
「中身が燃えるごみだからです」
保科さんがつまんでいる苺ジャムのビン。三分の一くらい残っている。
「そういうときは中身だけ燃えるごみに捨てるんだよ。ちゃんと分別しないと廃棄業者のひとが困るでしょ」
私の言葉に、彼女は視線を落として唸った。
「……そうなんですよね。ちゃんとわかってるんです、私。頭ではわかってるんですけど、つい『いいや、ぽーい』って。なんでですかね?」
「こっちが聞きたいわよ。責任持って自分で処理しなさいよ」
保科さんはひといきに言って、仁菜ちゃんの胸にビンを押し付けた。
ゴミ箱から掘り返したビン。それをまっさらなブラウスに……。
「はあい。すみませんでした~」
仁菜ちゃんは気にするそぶりもなく受け取って、ぺこりと頭を下げた。
「管理してよね、教育係なんだから」
去りぎわ、保科さんが私の肩をばしっと叩いて言い捨てた。
「すみません」
分別のおさらいもOJTに含まれるのだろうか。というか、当初は入社から二か月と聞かされていた教育係の肩書が、二年経ったいまも外れないのはどういうことだろう。
「あー、賞味期限これ来年の八月でした。今年だと思って捨てちゃったんですよ私。ミスった~」
「今年でも切れてないよ。いま七月だよ」
「あー、そうでした。二重でミスった~」
仁菜ちゃんは指先でビン底をはじきながら私を見上げた。
「青瀬さんだったらどうしますか~? 一度ごみ箱に入りましたが、しっかり蓋は閉じています」
「ウエットティッシュかなんかで拭けば大丈夫じゃない?」
まともに思考を働かせるのが億劫で、適当に返した。仁菜ちゃんは疑義を唱える様子もなく同意した。
「ですよね~。持って帰っちゃお……おっ!」
仁菜ちゃんの視線を追う。
あ。
〈やつ〉が来た。
総務経理統括本部部長、前川誠、四十六歳。
威圧感が服を着て歩いているような、ふてぶてしく厳めしい容貌。三白眼の鋭い吊り目が私を見下ろす。入社六年目ともなるとさすがに慣れたが、新人の頃は怖くて仕方がなかった。目が合うだけで縮みあがっていた。
「おはようざいま――」
「こんなとこで何してんだ。掃除しろ掃除」
私は右手に持っていたマイほうきをとっさに掲げた。
「してますしてます。ごみを捨てにきたところで」
「は? 掃除なんかしてる暇ねえだろ。とっとと旅費精算終わらせろよ。月またぐなって何回言わせんだよお前のせいで喉が筋肉痛だよ」
「すみません……」
前川に反論は不毛だ。頭を下げて自席に向かう。さすがの仁菜ちゃんも、空気を呼んでジャムを袖口に隠している。
何人かはすでに、掃除を終えて業務を開始していた。前川はそのパターンも許さない。
「お前ら何勝手に仕事はじめてんだ。毎週水曜きっかり三十分、4Sの時間だコラ!」
若手の飯野創介が、パソコンの画面からのそっと顔をあげる。目元一帯が黒ずみ、頬は遠目でもわかるほどこけている。
「……わかってるんすけど、予算会議のパワポが……」
「昨日のうちに済ませとけよ」
「俺の昨日は今日なんですけど……帰れてないから……」
「はあ? 喋ってないで手動かせよ、手。そういうとこだぞ、お前」
「…………」
誰も何も言い返さない。
総経本部は前川誠の帝国だ。彼が主権を持つ絶対王政が敷かれており、反論したところで気力と体力を浪費するだけ。
時刻は八時五十六分。始業開始まであと四分。他部署の人たちが続々とやってくる。
席に着いてから五分以上経過しているのに、私はまだパソコンを開けずにいた。
画面を開けば地獄がはじまる。
電源に指先だけ触れたまま、身体がどうにも動かない。
右隣の仁菜ちゃんを見る。ぼうっとスマホを眺めているけど、パソコンはもう開いている。左隣の丸尾さんを見る。白い画面に照らされた顔は死相が出ているのに、キーボードを叩く手は止まらない。脳を破壊されても心臓を撃ち抜かれても叩き続けるであろう、そんな凄みさえ感じさせる。
私も覚悟を決めなくてはならない。
パソコンを開く。社員コード、パスワード入力、エンター。
すべらかな動作、その先の底なし沼。
新規メール二十八通。チャット未読三十六件。
まだ始業前なのに、昨日の深夜からさらに増えている。
「おかしい……絶対おかしい……」
私のぼやきは始業のチャイムとともにかき消された。
大溝ベアリング株式会社は、全国に七つのベアリング製造工場と、十五の事業所を持つ上場企業だ。
九時始業の事務所と違って、工場は八時始業である。そして、総経本部の仕事は工場とのやり取りが大半である。だから、始業前にこうしてたくさんのメールやチャットが届いていたっておかしくはないのだ。おかしくは……。
始業十秒足らずで、社用スマホが鳴った。
「はい、総経本部の青瀬です」
「青瀬?」
キレ気味のしゃがれ声。名乗らなくてもわかる、名古屋工場製造四課の橋本チーム長だ。
「安全靴のサイズ、間違ってるけど?」
「えっ、おととい発注したやつですよね」
「そう派遣の分。届いたの二十五センチなんだけど? 俺二十七と二十八っつったよね? わざわざチャットにも書いたんだけど」
「すっすみません……ちょっと待ってください。確認します」
各工場の備品、消耗品の発注手配は、総経本部が一括で担っている。頼まれたサイズ、数量の安全靴を通販サイトで購入する。たったそれだけ。
それだけなんだけど、それが他のいろんな業務に交じって日に何十回もあると……。
ちらと仁菜ちゃんを見る。彼女はすでに察したような顔をしている。
「私なんかやっちゃいました~?」
「名古屋四課の安全靴、サイズ間違ってるって」
「え~」
「念のため発注履歴見てくれる?」
「わかりました~」
通販サイトのようにマニュアルに沿って購入できるものは、ほとんど仁菜ちゃんに任せている。この件も、橋本チーム長のチャットをスクショして依頼済みだ。
「あ~、ほんとだ! デフォが二十五だったから、二つとも二十五で発注しちゃってます。ごめんなさ~い」
「……了解」
起きてしまったことに対して、これ以外の返答が見つからない。
「私から謝ったほうがいいですよね~?」
「大丈夫」
というか特急品の誤発注なんて、謝ってどうにかなる問題ではない。
保留し忘れていたようで、電話越しに橋本チーム長のため息が聞こえてくる。
「ぜんぜん大丈夫じゃないよ困るんだけど。今日の午後から現場入ってもらうのに」
「そうですよね、本当に申し訳ないです」
謝るしかない。
だが、彼は思い出したように声のトーンを少し和らげて言った。
「あー、でも届けてもらったの昨日だっけかー」
「はい。あの……本当にこちら側のミスで申し訳ないんですけど、たらればなんですけど、もし昨日の時点で中身確認してもらってたら、今日AM着で正しいサイズ入れられたんですけど……」
「あっそう。まあいいや、とりあえず三課に余ってんのないか確認してみるわ」
ほっと胸を撫で下ろす。正直、現場内でやりくりしてもらうのが一番助かる。
「こちらのミスでお手間とらせて申し訳ありません、助かります。ありがとうご――」
肩を叩かれた。その強度と角度と感触で、誰だか瞬時にわかってしまう。
――前川。
「貸せ」
拒否権はない。
「すみません、ちょっと部長に代わります……」
前川は私からスマホをぶんどると、途端に声をワンオクターブあげてしゃべりはじめた。
「橋本さん、ゴメンねー。うちの馬鹿がまたやらかしたんだって? ……なになに、詳しく教えてー」
しゃしゃり出てくるな。解決した問題を蒸し返すんじゃない。
その間にもチャットの通知が立て続けに入る。
「やば」
自然と口をついて出る。
どちらも先週から依頼されていた件だ。完全に頭から抜け落ちていた。冷や汗をかくその後ろから、前川の薄ら笑いが聞こえてくる。
「そ、そ。あいつのミスだからさ、きっちりあいつにケツ拭かせるから。うん、はーい」
上機嫌で勝手に通話を終わらせた前川は、私のデスクにスマホを放り投げるなり、急に真顔になった。
「お前のミスだろ、相手に尻ぬぐいさせんなよ」
「すみません……。でも、現場で探してもらったほうが効率が……」
「そういう問題じゃねえよ。己のクソの始末を人になすりつけようとするその姿勢が気にくわねえっつってんだよ」
「すみません……」
「っつーか野郎しかいねえ現場なんだから、二十五センチはありえねえってわかんだろ。なんで気づかねえんだよ馬鹿じゃねえの」
いやいや……発注承認出したのは、私じゃなくて部長のあんただろうが。あんたが気づけよ。
「申し訳ありません」
「あの~」
横から仁菜ちゃんの緊張感のない声。「間違えたの私です。ごめんなさい」
前川は右手で軽く払うようなぞんざいな仕草をしながら言った。
「あー、三井さんは派遣だからいいの。教育係のこいつが全面的に悪だから」
「えっと」
さすがの仁菜ちゃんの顔も引きつる。
険悪な空気に息が詰まりそうになったが、運よくスマホが鳴ってくれた。救いを求めるように、すばやく出る。
「お疲れさまです。青瀬です。はい――」
前川が渋々といった感じで自席に戻っていく。あいつのせいで仕事が増えた。
他部署の人には気持ち悪いほど愛想がいいから、余計に腹が立つ。
通話を終えると、仁菜ちゃんが両手を合わせて私をのぞきこんでいた。
「すみませんでした~」
「さすがにケアレスミス多すぎ。これからは本当に気をつけようね」
「了解で~す。絶対めっちゃ気をつけま~す」
このやり取り、数えきれないくらいしている。
「予備の靴が現場に転がってないか、めんどうだけどサービスの……あの、めがねの女性なんだっけ」
「大門さんですか?」
「ああ、そうそう。確認してね」
「了解で~す。ちなみにめがねかけてないですよ」
「そうだっけ」
人の名前も顔もすんなり出てこないほど記憶力が低下し、思考の輪郭は常にぼやけている。
ずっとこの状態で、思考が正常に研ぎ澄まされていた頃の感覚は忘れてしまった。
「青瀬さーん、二課四名ドイツ出張の旅費申請まだですか?」
振り向くと営業事務の矢野さんがいた。声のトーンは明るいが、苛立ちを隠しきれていない。
「すみません、今日中に」
「昨日も同じこと言ってましたけど?」
「すみません」
「絶対今日中にお願いしますね。本社経理からも督促きてるんで」
「すみません」
すみませんしか言えない。
「青瀬さん青瀬さん」
名前を思い出せない誰かが私を呼んでいる。
「何回もチャットしてるんですけど、丸型12号で再注文できてます?」
「えっと、あ。すみません、まだです……たぶん」
「明日着でほしいんで忘れずにお願いします。終わったらチャット入れてください」
「はい、すみません」
誰だっけ。
誰の何の依頼かもわからないまま、彼女の背中を見送った。呼び止めて聞けば済む話なのに、頭も口も麻痺したように動かない。
またスマホが鳴る。新規のチャットが雪崩を起こす。メールがどんどん膨れあがる。五分後にはビデオ会議が始まる。前川の理不尽な怒号が響く。タスクが無限に積もっていく。
何から手をつければいいのかわからなくなってくる。
もう何も見たくないし何も聞きたくない。
消えてほしいこの世界全部。
*
休憩はない。
十二時。昼休みのチャイムが鳴ると、他部署の人たちは続々と職場を後にする。あるいは弁当箱とスマホを取り出して休憩に入る。
総経本部は違う。部長の前川と唯一の派遣社員である仁菜ちゃん以外の面々は、パソコンにとり憑いた妖怪のように画面から目を離さない。そのまま画面に吸い込まれて電子の海の藻屑にでもなったほうが幸福なんじゃないかとさえ思う。
私はからだが痛い。
目も腰も頭も額も首すじも尻もかかともぜんぶ痛い。
まだ二十代なのに、最後に健康体だった日がいつかもう思い出せない。
でも日に二百件近いメールと五十件越えのチャットと、加えて会議と電話対応と……一つでも多くこなそうと思ったら、休憩時間なんて確保できるわけがないのだ。
総務経理統括本部とは、立派なのは名ばかりで、端的に言うと全社の雑用係だ。
東京本社に『総務部』も『経理部』も独立して存在している。ここは彼らの下請け業者みたいなものだ。総務経理だけでなく、『製造部』『企画管理部』『品証部』『調達部』など――すべての部署の雑務を一挙に引き受ける混沌の魔境。それが総経本部。
任されるのは、おおかた専門性のない、単純で付加価値の低い事務処理全般。
だからできて当たり前だと思われるし、感謝されることもないし、スキルが身につくこともない。
ワークライフバランスが整った環境ならば、別にそれでもかまわない。
最悪なのは、全社の全部門から、鬼のように雑務が舞い込んでくることだ。
やってもやっても永遠に終わらない。休めないから頭が回らずミスが増える。ミスの回収でいっそう苦しむという、負のループ。
明らかにキャパオーバーなのに、みんな死線をさまよってるのに、ここ十年で十三人が退職し、一人が自死し、四人が休職中なのに、トップの前川は何もしない。しないどころか余計に仕事を増やすばかり。
「ああ、クッソ! やっぱり来たな」
斜め向かいの飯野が、突然声をあげた。
「蛍でしょ?」
保科さんの応答に、私は思わず「げ」と声を漏らした。隣の丸尾さんも「ひっ」とうめく。
「いつのメールですか?」
二児の父・大盛さんが慌てたように問いかける。
「今日の十一時二十三分っす」
私もまだ目を通せていなかった。昨日のメールの対応だけで、午前中は終わってしまった。延々と連なる未読分をスクロールしていくと、その忌々しきメールは、圧倒的な存在感を放ちながら、私の目に飛び込んできた。
去年と寸分たがわぬメールの文面。
あたかも我々に選択権があるように書かれているが、実質強制参加のイベントだ。休んだらその分、他の出席メンバーに負担がのしかかる。
『蛍を見る会』なんて風流な名前を冠しているが、実際は夜間に山を無言で練り歩くだけの地獄みたいなイベントだ。そして蛍はいない。探せばいるにはいるらしいが、私は一度も見たことがない。メンバーは年々高齢化しているし、そろそろ死人が出るんじゃないかと本気で心配している。
「これっていつからやってるんでしたっけ」
私の問いかけに、丸尾さんは虚ろな目でしみだらけの天井を仰いだ。
「えー、彼がうちに転属してからずっとだから……もう十二、三回目じゃないかなぁ」
「最初からずっと『ゆきね』ですか?」
「そそ」
「春代さん?」
「まちがいないねぇ」
旅館ゆきねは、小田原市西部の山間に位置する、老舗の大型旅館だ。総経本部から発注を出して、うちの小田原工場にほぼ毎日仕出し弁当を提供してもらっている。
ゆきねの女将、春代さん。色白でこまやかな顔立ちの美しい未亡人。
前川の目当ては彼女である。
春代さんに『部下に旅行をプレゼントする気立てのいい俺』を見せつけたいがために、開催されるイベント。これは決してひねくれた見方ではない。春代さんと対面する前川のだらしない顔を見れば、火を見るより明らかだ。
「黒瀬さんいないけど、どうするのかしらね」
保科さんが疑問を呈する。
言われてみれば。現地までは車移動で、去年までは前川のベンツと黒瀬さんのハイエースで移動していた。だが彼は、去年の旅行直後に突然会社に来なくなり、そのまま逃げるように退職してしまった。
飯野が投げやりな口調で声をあげた。
「あー、俺っす。『今年からお前が出せ』ってチャット入ってました」
「ご愁傷様です……」
丸尾さんの消え入りそうな声。
「飯野ちゃんペーパーでしょ。大丈夫なの。僕代わろうか」
大盛さんがプロテインバーをかじりながら、問いかける。
もう何本目かのレッドブルのプルタブをひねりながら、飯野が薄ら笑いを浮かべる。蒼い空き缶の群れが、城壁のようにデスクトップ横に聳え立っている。
「大盛さんBMじゃないすか。なんであいつが俺を指名したかって、俺がいちばん安物の車乗ってるからっすよ。ベンツ乗ってる自分の引き立て役にしたいんすよ」
「本当しょうもない男ね」
保科さんがぼやく。そういう意味じゃ、中古のムーヴが愛車の私も可能性があったわけだ。休日に社員を乗せて地獄へドライブなんて、考えただけで身の毛がよだつ。魔が差してアクセル全開で前川の車に突っ込むかもしれない。冗談ではなく、本気で。
「セーフ……」
「あのね、青瀬さんはどうしたって大丈夫だよ。春代さんの手前、女の子に運転させてたら恰好がつかないもの」
たしかに。
前川は本当に外面がいい。良く思われたい相手には徹底的に媚びる。早くメッキが剥がれないかと祈り続けて、もう五年以上が経ってしまった。
「春代さんを殺せば、このクソイベントなくなるかな」
冗談とも本音ともつかぬ飯野の問いに、私は即座に頷いた。
「だろうね。でもどうせ殺すなら前川がいい」
「だな」
続々と他部署の社員が戻ってきたので、物騒な会話はそこで打ち切られた。
昼休憩残り十分。予算会議の議事録をチェックしつつ、そろそろ昼食を摂らないと。食事を楽しむ余裕はない。ガソリンを補給するような、機械的行為。
ラップにくるんだ白米をリュックから取り出す。ここ数か月は握る気力もなくて、休日に小分けで冷凍した白米を、ただレンチンしただけだ。きまって塩味。梅干しはパックの蓋を開けるのがめんどう。昆布はビンの蓋を開けるのがめんどう。ふりかけは味を選ぶのがめんどう。ツナマヨやシャケなんてもってのほか。ふりかけるだけの塩がいちばんいい。外食に出る時間はないし、コンビニは選択肢が多すぎて途方に暮れる。
ラップをほどきかけたとき、スマホが鳴った。
前川だ。条件反射で出てしまう自分にも嫌気がさす。
「青瀬です」
「パソコン持って来い」
「はい?」
「会議室B」
「……はい」
ほどきかけたラップを直してやけくそ気味にリュックに戻す。どうせ食欲はなかった。
パソコンを持って会議室のある三階に降りると、踊り場で日干しの深海魚づらした前川が待ちかまえていた。
前川は私と目が合うなりぽーんと言葉を投げた。
「十三時から十五時半、開発会議、会議室B」
「はい?」
「俺の代理で参加して。順番きたら発表して。緊急で別の会議呼ばれたから」
開発会議なんて出たことない。名前しか知らない。
「は? えっ? 急すぎません? 四分前ですけど」
「どーうどーう」
「いや、なんもわかんないですけど」
「どーうどーうどーう! わかんなくていいの。さっきパワポ送っといただろ。それ読みあげるだけでいいから。猿でもできるから。それとも何お前は猿以下なの?」
「……いえ。でも内容わからないですし、質問あがっても答えられないと思います」
「なんでやる前から決めつけるの?」
「えっと……」
前川は周囲に人がいないことを確認すると、平手で壁を思いきり叩いた。
「答えられねえ質問が来たらよォ、『確認して後報します』でいっさいがっさい済む話じゃねえか! 耳クソサイズの脳味噌じゃそんなことすらわかんねぇか?」
「……すみません、わかりました」
ひどく侮辱されているのに、頭が麻痺して何も響かない。ただ騒音として煩わしい。こいつの声帯を捻りつぶして黙らせたい。考えるだけで身体は動かない。
昼休憩の終わりを告げるチャイムが鳴った。
「ああクソ、お前のせいで遅刻だよ!」
前川は吐き捨てて足早に去って行った。
私は廊下の突き当たりの窓から飛び降りるか会議室Bに入るか迷ったけど、会議室のほうが近いからそっちを選んだ。
ロの字の机に管理職の面々が並んでいる。冷房ががんがん効いている。
視界に入った手前の空席に座る。
「そこ品証の席。きみ品証じゃないよね」
隣の知らないおじさんがぶっきらぼうに言う。
「あ、すみません。前川部長の代理で来たんですけど」
「ハッ。総経本部はあっちね」
気のせいか鼻で笑われたような。どうでもいいか。
指さされた席に移動する。
総経本部はオールラウンダー、全社の統括サポーター、マルチタスクのゼネラリストあるいは後方支援のスペシャリスト。そう言えば聞こえはいいけれど、かなしいかな名実ともに『ノースキルの雑用係』でしかない。地方の工場に配属が決定した同期から、口々に都会の事務所勤務で羨ましいと言われていた入社時を思い出す。地獄行きの片道切符を握り棺桶に片足突っ込みながら、そうとは知らず悦に入っていた自分がただただ虚しい。
総経本部の指定席に座る。後ろに巨大な観葉植物が鎮座していてすごく圧迫感がある。真上で古い冷房がごうごう唸って寒いしうるさい。故意に劣悪な席をあてがわれているのはまちがいない。
席が埋まると、いちばん偉そうなおじさんが咳払いをして話し始めた。
「それでは全員揃いましたので始めます。中計2023ローリングプランに基づく京阪工場ユニット部生産ポートフォリオの見直しとそれに伴う――」
ちっとも理解できない。理解する気力もない。右耳から左耳へ抜けていく感覚すらなくて、難語の羅列が頭上を素通りしていくだけ。
何もわからないけど、たぶん総経本部の発表は最後だろう。というか、単なる雑用係に開発会議で報告することなんてあるのだろうか。
怨敵前川から送られてきたパワポを仕方なく開く。
スライドはたったの四枚。
ユニット部の貯蔵品購買リストとQCDの比較表、消耗品の電子帳票アップロード作業工数リストとその改善マトリックス。
これなら私にもわかる。というか私にまとめさせた表をそのまま切り貼りしてるだけじゃないか。散々『見づらい』『使えない』『クソほどの価値もない』とけなしてきたくせに。
まあいい。自分の仕事をこなしながら適当に聞き流そう。今日期限の業務が両腕からこぼれ落ちるほどある。
全社共通の旅費精算システムを起動させたとほぼ同時に、前川からチャットが入った。
文面だと敬語なのが腹立つ。
部下の仕事を増やすのがこの人の仕事なのだろうか。
デリート。指が勝手に動いていた。
苛立ちが抑えられないまま、チャット画面を閉じる。不毛なやり取りで余計に疲れてしまった。
考えない。考えない。もう何も考えない。私はロボット。からっぽのロボット。
二時間半、各々の発言に耳をすませ議事録をとりつつ内職をした。私のすかすかの発表は三分で終わった。誰からも質問はあがらなかった。
*
定時の十八時間近になって、午後はじめてトイレに行けた。手を洗っているさなか、そう言えば出社してから飲まず食わずで働いていたことを思い出した。
さすがに絶飲はよくないよな……。自販機でなんか買っとこう。
入社して一か月は本社での全体研修だった。あの頃は毎日定時で帰れたし、毎日水筒を持って行っていた。麦茶を煮出したり水筒を洗ったりする余裕のある、ささやかだが幸福な日々だった。
給湯室の向かいにある自販機スペースにふらふらと歩いて行く。
誰もいない。窓から茜色の夕陽が射し込んで、埃がきらきら舞っている。最後に陽が沈まぬうちに帰れた日はいつだったか、もう思い出せない。
長いため息をひとつ。
選ぶという行為自体がストレスなので、きまって一段目の一番右の麦茶にしている。
……出てこない。
何回ボタンを押しても出てこない。故障かと思い、隣の自販機で試してみる。やっぱり何も出てこない。こんなしょうもないことで、無性に悔しさがこみあげてくる。目頭が熱くなってくる。
「なんで出てこないんだよぉ。お前たちまで私をこけにするのかよぉ」
ボタンに額をなすりつけながら、うめき声をあげる。
「お茶くれよ、お茶~。ううぅ」
情けなくて泣けてくる。
なんでこんなことしてるんだろう? なんでこんなことで涙が出てくるんだろう? 早く戻って仕事しなきゃいけないのに。ほんとうに自分がわからない。
背後で空気がふっと動く気配とともに、視界の端で陽射しが途切れた。
「お金入れた?」
落ち着いた低音がすっと耳を撫でた。
振り向くとなんだか懐かしい顔があった。薄墨で一筆書きしたような儚い面差し。だいぶ後退ぎみの前髪と青白い肌。
「……誰だっけ」
知らずにぽつりとこぼしていた。相手はぎょっとした表情になる。
「営業二課の佐伯正司ですけど」
「あっ」
元カレだ。
すっかり忘れていた。入社一年目か二年目の頃、何か月か交際していた。あの頃はまだ恋愛という甘ったるい娯楽にうつつを抜かす余裕があったのだ。ほんの数年前のことが、もう隔世の感がある。
「あの、お金入れてないから出てこないんじゃない?」
「え」
言われてはたと思い至る。「あ……、そうでした。入れてませんでした、お金」
ほんの数日前にも同じことをやらかしていた。そのときは隣に仁菜ちゃんがいて、「うちらボケすぎ~」なんてふたりで大爆笑した。
短期間に二度目となると、さすがに笑えない。
フリーズ状態の私を一瞥すると、佐伯は首に提げていたパスケースをパネルにタッチした。
「ダイドーの麦茶でいいの?」
「はい……」
佐伯の骨ばった指がボタンを押す。がこん、とボトルが落ちてくる。むだのない動作でそれを取り出して私に寄越してみせた。
「すみません、お金、机に……」
「このくらいおごるよ」
「すみません、ありがとうございます」
手のひらに冷たい感触が心地よい。
佐伯は憐憫とも侮蔑とも慈愛ともとれる、形容しがたい表情で私を見下ろした。
「なんか……大丈夫?」
「はい」
「適度に在宅でもしたら?」
「できないんです、うちは」
パソコンを社外に持ち出す場合は、必ず上長の許可承認がいる。部下を常に監視下に置きたい前川は、 テレワークを親の仇のように憎んでいる。だから絶対に許可してくれない。
ということを、佐伯に説明する気力はない。
佐伯はおおむね汲み取ったように、「あぁ、そうか」と小さく頷いた。
「無理しないでね」
「ありがとうございます。……佐伯さんはお元気そうで」
「元気ではないよ」
佐伯は明らかに苦い顔をして、足早に去って行った。彼には彼の苦労があるのだろうが、背筋が伸びていて、まっすぐ歩けている。それだけで十分元気に見えてしまう。
私もそろそろ戦地に戻らねばならない。窓越しに沈みゆく夕陽と降りてくる闇が、私の心の写し絵のよう。
職場の扉を開けたところで、帰りがけの仁菜ちゃんとすれ違った。
「青瀬さんおひさしぶりです」
「ほんとだね」
午後ほぼ会議で出ずっぱりだったから、午前以来の再会だ。
いまは十八時すぎ。仁菜ちゃんはいつも定時ぴったりにパソコンを閉じて、颯爽と退勤していく。
「おつかれさまー」
「あ、はい。……えっとぉ、青瀬さんごめんなさ~い。私またやらかしちゃいました」
「ん?」
「顧客調査アンケートみたいなの、間違えてシュレッダーかけちゃいました」
「えっ」
サアッと血の気が引く。
「廃棄書類と間違えちゃって~」
「えー……」
年二回実施する、法人顧客満足度調査のアンケート。大半の会社はインターネットフォームから回答しているが、未だに紙で回答する会社もある。そして紙のフォーマットの場合は、総経本部で集約して営業部に渡すきまりとなっている。なぜかはわからない。とにかく紙ベースの雑務は総経本部に押し付けられるきらいがある。
「電子データとってない?」
「とってないです」
「全部シュレッダーかけちゃったの?」
「はい、二十社分ぜんぶ……あっ。ごめんなさい電車乗り遅れちゃうんで帰りま~す。明日また相談させてくださ~い」
返事を待たずに小走りで去って行った。手入れの行き届いた淡い茶髪が、ふわりと揺れている。
私は呆然とそのすがたを見送った。
「え……どうすんの。まずいじゃんそれ……」
*
午前二時二十八分、タクシーにて帰宅。
静まり返ったアパートの廊下に、私の靴音だけが響く。
扉を開ける。むわっとした熱気とともに、生ごみの腐臭が鼻につく。玄関に45リットルごみ袋が七つある。最後にごみを出したのはいつだったか。
数か月くらい前から分別ができなくなって、燃えるごみもプラスチックも一緒くたにして燃えるごみに出した。何回か繰り返して、向かいの一軒家に住むおばさんに注意されるようになった。たぶんそのときからずっとごみを溜めている。仁菜ちゃんと同じことをやらかしている。
頭ではわかっているのに、行動に移せない。
パンプスを脱いで、埃の舞う廊下を進む。手探りで電気をつける。
八畳一間の居室。
脱ぎ散らかした衣類と山積みの段ボールのせいで、ほとんど足の踏み場がない。段ボールの大半は、新潟の実家からの仕送りだ。あとはAmazonか楽天か。どれもいつの荷物か思い出せない。段ボールの封を切るのがめんどうくさくて開けられないのだ。積み重なった箱の表面には、うっすら埃が積もっている。
「とりあえず風呂……風呂……」
うわごとのように繰り返しながら、足を引き摺るようにして洗面所へ向かう。シャツのボタンに手をかけたところで、動けなくなる。
どうしてただ服を脱いでシャワーを浴びるという行為がこんなにも億劫なのだろう。
休み休みスマホをいじりながら、二十分くらいかけて服を脱ぎ、二日ぶりに風呂に入った。すべて洗い流してさっぱりすると、ほんの少しだけ心が晴れた。
一段落すると、途端におなかが空いてきた。
冷蔵庫を開ける。
納豆、豆腐、ちくわ……それだけ。ぜんぶ賞味期限がとうに過ぎていた。食べる気はしないけど、数歩先のゴミ箱に捨てる気力もない。
チューハイを手に取って、またすぐに戻す。明日――というか今日は車通勤がいい。満員電車の惨状を思い出すだけで気が滅入るから。
甘いものが食べたいけど、コンビニに行く元気はない。仕送りの段ボールを適当に開けて、床の上に勢いよくぶちまける。三箱めでチョコパイの大袋が見つかった。昼の残りの白米と、チョコパイと、佐伯にもらった麦茶。床に並べてあぐらをかいて、一日半ぶりのまとまった食事をとる。
……生ごみの臭いがする。
身体を引きずるようにして立ち上がり、居間の扉を閉める。
扉一枚隔てたのに消えない……。ゴミ袋からじゃなくて、もっと近くから……。
「あ」
仕送りの段ボールの山。手前の二段目。
「ああぁ~」
重い腰をあげて手をかける。なんとなく予想していたとおり、開いた途端に饐えた酸っぱい臭いと黴のこもった臭いが鼻腔をついた。
敷き詰められたみかんの、半数以上が灰色の化石みたいなかびに包まれている。
「やっちゃった」
うなだれたままスマホを手に取り、母とのLINEを見返す。
思い出した。情けない。去年の冬もそうだった。送ってもらって、結局放置して腐らせて、捨てる気力もなくて、化石化を待って新潟にそのまま返送したんだった。
送信。
情けないが、腐ったみかんをビニール袋に移し替えてごみに出す気力は、今の私にはない。自分で自分がクズだとわかっている。もっと大変な思いをしている人がたくさんいることもわかっている。でもこれ以上何もがんばれない。こういうふうにしか生きられない。
「人間が、終わってるな……」
食欲も失せて、床に寝転ぶ。天井の明かりがやけにまぶしい。消そうとして寝たまま周囲に手を這わせたが、リモコンが見つからない。立ち上がって壁のスイッチを消す力は残されていない。
仕方ないので横向きになり、しょぼついた目でスマホを眺める。
今日――というか昨日の二十二時過ぎ、佐伯からもLINEが入っていた。
返信しようとして、手が止まる。ちょうどいい文言が思い浮かばない。
『大丈夫じゃないけど、あなたに相談してどうにかなる問題ではないので、話を聞いてもらう必要はない。でも気にかけてくれてありがとう』
角が立たぬよういい感じに伝える方法を、模索するガッツが私にはない。
ベッド脇に置いてある、埃をかぶったガラスの写真立てに視線をやる。
飯野創介とのツーショット。
飯野とは、佐伯と別れたあとすぐに付き合った。というか、飯野と付き合うために佐伯と別れたというほうが正しいかもしれない。その飯野とも、結局数か月足らずで別れた気がする。なんで付き合ってなんで別れたのか、もう思い出せない。たぶん、同じように過重労働で苦しんで愚痴を言い合える飯野への仲間意識を、恋情にスライドさせたのだと思う。
飯野との仲に、なんの未練も思い入れもない。写真を飾ったままなのは、単に片づけるのがめんどうだからだ。
ふと思う。
あのまま佐伯と付き合って、結婚して家庭でもつくっていれば、今頃は働かずに済んだのだろうか……。
っていうか別に佐伯云々じゃなくても、今から死に物狂いで婚活なり転職活動なりすれば、この地獄から抜け出せるのかもしれない。
でも、できない。
おにぎりに梅干しを入れる気力もないのに、十メートル先のごみ捨て場にごみを出す気力もないのに、生き方そのものを変える気力なんて残っているわけがない。
『このまま生きる』か『死ぬか』。
私にはこの二者択一しか存在しない。
きっと他にもたくさんの道があるのだろうが、私の目には見えない。
ここまで追い詰められたのは、前川のせいとしか思えない。ただ忙しいだけでは、ここまで心が追い詰められるわけがない。毎日理不尽な要求をされて、罵声を浴びせられて、揚げ足とられて、文字どおり心身ともに壊れてしまった。
前川さえいなければ、もっとちゃんと人間でいられたはずだった。
人のせいにするなと言われても、やつを恨まずにはいられない。
その顔が脳裏に思い浮かぶだけで、無限の憎悪が沸き立ってくる。
仰向けに寝転んだまま、ペットボトルを剣に見立てて天高くかかげてみる。
「覚悟しとけよ暴虐悪鬼。絶対にいつか、ぶっ殺してやる……」
気づいたら涙をぼろぼろ流しながら、馬鹿みたいな台詞を吐いていた。
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◇2025年2月20日発売予定
◇著者 遠坂八重(とおさか・やえ)
神奈川県出身。早稲田大学文学部卒業。『ドールハウスの惨劇』(https://www.shodensha.co.jp/dollhouse/)で第二十五回ボイルドエッグズ新人賞を受賞し、デビュー。受賞作はシリーズ化され現在第2作まで刊行、第3作まで刊行を予定。
◇ジャンル 小説/ミステリ
◇判型 四六判/352ページ(予定)