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【垣根涼介著『涅槃』(上・下)書評】負けないための「弱者の戦略」

 2021年に発売された、小説界の革命児・垣根涼介さんの『涅槃』は、斎藤道三・松永久秀と並び「戦国三大悪人」のひとりと称される備前の戦国大名・宇喜多直家の生涯を描いた上下巻の大作です。悪名高き武将・宇喜多直家の生涯を、まったく新しい解釈のもと浮き彫りにした本作について、「小説トリッパー2021年冬号」に掲載された読売新聞記者・川村律文さんによる書評をお届けします。

垣根涼介著『涅槃』(上下巻)

 宇喜多直家という戦国武将の名前に聞き覚えがある人は、なかなかの歴史通だろう。備前国でのし上がり、裏切りを辞さない奸雄として語られてきた。

『涅槃』は、その武将に新たな光を当てる長編だ。宇喜多家の嫡男として生まれ、幼くして居城から追われた八郎(後の直家)は、備前の豪商の家で暮らし、その後は仇敵の元に出仕するまで尼寺で過ごした。人格形成の時期に特異な環境に身を置いたことで、直家は「利を求める」という、武将らしくない感性を育んでいく。

 武門の家に生まれた以上、武士であることから逃れることはできない。それでも直家は、独自のやり方で頭角を現していく。戦に勝つために周到な準備は怠らないものの、合戦で、己が血なまぐさい戦に向いていないことに気づくと、戦場の最前線には立たなくなる。一方で、外交や取引の際には様々な条件を付けて粘り強く交渉し、相手を説得して好条件を引き出していく。己の武名にはこだわらずに、実を取って勢力を拡大していくのだ。領地を広げ、家臣を増やすという、戦国武将の多くが求めることは、直家にとっては宇喜多家を簡単に滅ぼされないための生き残り策でもある。

 印象深いのは、家臣に対する接し方だ。能力がある者は、かつての敵であっても積極的に取り立てる。「赤心を疑うことは断じてない」「わしからは、絶対におぬしらを裏切らぬ」と宣言し、家老の息子を助けるために危ない橋を渡りさえする。その姿勢は、裏切りをいとわないという従来のイメージとは程遠い。

 備前を徐々に掌握していく直家の前に、二つの巨人勢力が立ちはだかる。東から進出してくる織田家と、西に構える毛利家だ。どちらかに付けば、その尖兵としてもう一方と敵対せざるを得ない。織田信長と接見しても自らの立場を臆せず述べ、毛利方にも簡単に屈しない。老獪な駆け引きが、下巻のポイントになる。

 それはアメリカと中国という二つの大国の間で、難しいかじ取りを強いられる現代の日本の姿を連想させる。かつてのような成長は望むべくもない中で、存在感を保つ道を模索していく。そんな時代に必要とされるのは、状況を打破するために乾坤一擲の勝負に打って出る猛将ではない。したたかに負けないための戦いを続けていく、「弱者の戦略」をとる人物だ。この小説は、低成長の時代の新たなリーダー像を示しているのだ。

 直家は状況を俯瞰的に捉え、時代の潮目を読んでしなやかに行動する。そして、他人から受けた恩を、別の人間に返すことで、新たな縁をつないでいく。読み進めるにつれて、物語の冒頭に置かれたパレスチナ出身の思想家エドワード・サイードの言葉が利いてくる。

 振り返ってみると、しなやかで、変化を恐れない姿勢は、著者自身の歩みにも重なると言えるかもしれない。

 ベトナムを舞台にしたハードボイルド『午前三時のルースター』でサントリーミステリー大賞と読者賞を受けて2000年にデビューすると、04年には南米移民の子孫たちが日本で華麗な復讐劇を展開する『ワイルド・ソウル』で、大藪春彦賞、吉川英治文学新人賞、日本推理作家協会賞の「三冠」を獲得。翌年に山本周五郎賞を受けた『君たちに明日はない』は一転、リストラ請負人の若者を主人公に「働く」ことの意味を問いかける小説だった。冒険活劇からハートウォーミングな小説まで、その作品のジャンルは幅広い。

 そして人気作家となった時点で、著者はさらに先を見据えていた。歴史小説への挑戦だ。単に、現代人の感覚を歴史に投影した作品を書くのではつまらない。当時の武士を描くベースを作るために、十年以上にわたって歴史書や仏教関連の書籍を読み漁って、武士の精神構造や時代背景を把握することに努めたのだ。驚くことに、『ワイルド・ソウル』でも、歴史小説の書き方を試していたという。著者はかつて、「犯罪小説はパターンが限られている。書き尽くす時機が意外と早く来るのはわかっていた」と語ったことがあった。ヒット作を量産している時期であっても、自分の将来像をイメージして、水面下で準備を進めていく。並の作家にできることではない。

 13年の『光秀の定理』から、満を持して歴史小説に取り組むようになっても、挑戦を続ける姿勢は変わらない。単に歴史を書くだけではなく、効果的に登場人物の本質に迫り、物語に深く没入させるためのスパイスを加えるのだ。『光秀』であれば確率論に基づいた博打を作中に登場させる。『室町無頼』では、室町時代中期の土一揆前後の時期にあえて焦点を絞った。『信長の原理』では働きアリの法則を用いて、効率化を追い求める組織のひずみが悲劇へとつながっていく姿を活写した。

 ただ著者は今回、あえてこうした制約を課さなかったという。多面的な人物である直家が、現代人の姿に重なったからだ。仕掛けを取り去ったことで、ともすれば理に落ちる面が見られたこれまでの歴史物に比べて、登場人物たちがのびのびと動くようになった。

 作品ごとに進化と深化を続けてきた著者が、原稿用紙約千八百枚をかけて書いた「武将らしくない男」。その実像を、この本で確かめていただきたい。


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