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【江上剛『創世の日 巨大財閥解体と総帥の決断』】刊行記念エッセイ

 1月7日に発売された江上剛さんの『創世の日 巨大財閥解体と総帥の決断』は、敗戦直後を舞台にコロナ禍で苦しむ現代日本を逆照射する実録長編経済小説です。朝日新聞出版PR誌「一冊の本 2022年2月号」に掲載された江上さんによるエッセイを紹介します。

江上剛『創世の日』

 この二年ほど、コロナ禍で私たちは窮屈な暮らしを強いられている。またコロナに罹患して亡くなったり、事業が行き詰まったりした人もいる。これがいつまで続くか分からないだけに、「なぜ自分が苦しまねばならないのか」と、理不尽さに怒りを覚えていることだろう。私たちの人生には理不尽さが付きまとっている。災害や戦争で罪のない多くの人々が亡くなる。日常生活でも残忍な事件が発生し、罪のない人が殺される。例えば新幹線車内で、若い男がナタを振り回し、女性を襲った事件があった。その際、女性を助けようとした人が殺されてしまった。犯人は「刑務所に入りたい」という常人には理解不能な望みを抱いて犯行に及んだのだ。そして裁判で無期懲役の判決が下った時、望みが叶ったとして万歳を叫んだ。殺された人は優秀な会社員であり善良な家庭人だった。なぜ善良な人が殺され、殺人者が狂喜するのか。なぜこんな理不尽なことが起きるのか。こんな時、私たちは「神も仏もあるものか」と口にするが、まさにその通りで、本当に神がいるならこんな理不尽なことはしないはずだと思う。

 旧約聖書の中に、次々と理不尽な不幸に見舞われ、苦しむ人の物語がある。「ヨブ記」である。私は「ヨブ記」に魅せられ旧約聖書に興味を持った。

 ヨブは神を畏れ敬う善良な人で、裕福に暮らしていた。ところが神とサタンが相談して、ヨブの信仰の強さを試そうと試練を与える。子どもたちを殺し、財産を奪い、病気にしてしまうのだ。ヨブは自分だけを襲った理不尽さに「滅びよ、わたしが生まれた日」と嘆き、神に怒りをぶつける。神を讃える旧約聖書の中でヨブは私たちと同様に「神も仏もあるものか」と神の存在を疑うのだ。この人間らしさが「ヨブ記」の魅力なのだが、そこからヨブが如何にして立ち直るのか。三人の友人が登場し、ヨブを慰める。ところが慰めにも何にもなっていない。ありていに言えば、因果応報、罰が当たった、そのうちいいこともあるから的な、私たちが不幸な人を慰めてかえって怒りを買うようなことを言う。ついに神が登場し、その偉大な力をヨブに見せつける。そうでもしないとヨブが納得しないのではないかと神自身が心配になったのではないだろうか。その結果、最後にヨブは神に向かって「あなたは何事でもおできになる方」と偉大なる力を認め、「塵灰の中で悔改めます」と沈黙する。ヨブは唐突に怒りの矛を収めてしまい、その後に取ってつけたように幸せになりましたと、めでたしめでたしで終わるのだ。この結末はあり得ないだろうと思う。特に私たちが生きる現実で、愛する人を災害や戦争や犯罪などで理不尽に奪われた人の悲しみは、いつまでも癒されることはない。

「ヨブ記」の作者は、こんな結末で本当に解決したと考えているのだろうか。人間なんて取るに足らないものだ、理不尽な不幸に遭遇しても我慢しろ、と言われているようなものではないか。少なくとも私は納得しない。やはりこの結末に関しては多くの議論があるようだ。東京神学大学教授であった故北森嘉蔵氏は著書『ヨブ記講話』の中で、「ヨブ記」の作者が本当に言いたいのは十六章二十節「わが眼は神を仰いで涙を注ぐ」なのだと言う。ヨブはどんな苦しみの中でも生きる希望を見出す。その見つめる先にあるのが神なのである。ヨブに耐えがたい試練を与えるのも神であれば、その苦しみに寄り添い癒し希望を抱かせ、前進させるのも神なのである。神がいなければ、神を信じなければ、苦しみに沈むだけでヨブは前進できない。まるで試練を与える神と救う神の二つの神がいて、「この神と神とが同一の神であるというところに、秘義がある」(同書)と故北森氏は言う。正しい人になぜ理不尽な不幸が襲うのか。この問いに対する答えはないのだろう。それを探し続けても意味はない。より悲しみ、怒り、憤怒に沈むだけだ。ユダヤ教のラビであるH・S・クシュナーは『なぜ私だけが苦しむのか――現代のヨブ記』(斎藤武訳・岩波現代文庫)の中で次のように言う。「どうして正しい人に不幸がおそいかかるのか、という問いはそれ自体、まったく異なる問いにかたちを変えてしまいました。どうして起こったのか、ではなくなり、どのように応答すればよいのか、こうなってしまった今、なにをするのか、を問うことになったのです」と。私たちは、理不尽な不幸を乗り越え、理不尽な社会を良くしようと戦う人たちを知っている。彼らの生き方こそが「ヨブ記」の本当の読み方なのだろう。

 私にも容赦なく理不尽ともいえる試練が与えられた時があった。私には信仰がない。神を信じているわけではない。しかし試練を乗り越え、生きなければならない。なぜ苦しみを抱いたまま生きねばならないのか、という問いに対する答えは見つからない。生きることはないのだという答えになれば、自死が待っているだけだ。私は、日常生活の中にささやかな喜びや美を発見することで、前を向いて歩くことが出来た。その足取りは徐々に強くなっていった。この作用を促しているのは「神の力」であると信仰のある人なら言うのだろう。

 私は『創世の日』で三菱財閥の岩崎久彌をモデルにして、花浦家の戦後の没落から新しい出発を描いた。久彌は、三菱創業者岩崎彌太郎の長男であり、三代目の財閥当主である。私は「東京人」という雑誌で岩崎家の残した所縁の地を歩き、エッセイを書いた。その際、久彌に強くひかれた。久彌は三菱財閥の創業から戦後の財閥解体による終焉までを見届けた人なのである。彌太郎や、二代目彌之助、四代目小彌太は多くの書き物を残しているが、久彌は一切何も残していない。まるで存在そのものを消したかったかのようにさえ思える。それにまた多くの岩崎家の資産を公的団体に寄付している。例えば清澄庭園、東洋文庫などだ。その事実を知った時、私は「神のものは神に返しなさい」という聖書の言葉を思い浮かべた。全てのこの世の私的資産は預かり物であるから、返すべき時に相応しい場所に返すのだとでもいうべき久彌の潔さに感動を覚えた。久彌は、終戦時の小彌太の死によって結果として三菱財閥の終焉を見届ける役目を担わされたのだが、この理不尽な不幸を、どのように受け止めたのだろうか。恨んだのだろうか。嘆いたのだろうか。他の三人と違い、自分の心中を書き物に残していないためその思いを推し量ることはできない。

 私は旧約聖書の「創世記」の中に「ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない」という言葉を見つけた。これはアダムとイブが、神の戒めを破り、知恵の実を食べたためエデンの園(楽園)から追放される場面に登場する言葉だ。人間の「原罪」について考察する場面である。私はこの言葉こそ久彌の心中を表していると思った。

 私たちには永遠の命はない。誰もがやがては「土に帰る」「ちりに帰る」のだ。この世の栄華も何もかもその時、「無」になってしまう。土やちりに帰ることが定められているから、私たちはその日が来るまで精一杯生きなければならない。土やちりに帰ることは決して不幸ではない。もし永遠の命があったなら私たちは何の努力もしなければ、愛も喜びもない。私たちに土やちりに帰るという「終わり」があることで世代が交代し、そこから新しい命が生まれ、世界が良き方向に変わっていく。まさに私たちの「終わり」が「創世」なのである。これこそが久彌の思いであり、それはコロナ禍などの不幸に見舞われている現在の私たちへのメッセージなのだ。現在の不幸を嘆いてばかりではいけない。今こそ「創世の日」なのだという思いにつき動かされて、私は『創世の日』を執筆した。これは終戦直後が舞台ではあるが、現在の物語でもあるのだ。


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