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言葉の無力さにもういちど向かいあうしかない…東浩紀『忘却にあらがう』刊行記念エッセイを特別公開

東浩紀さんによる「AERA」連載中のコラム5年分が一冊の本になりました。タイトルは『忘却にあらがう』です。
2017年から5年にわたる連載から見えてくるのは、コロナウイルスの感染拡大、無観客の東京五輪、そしてロシアによるウクライナ侵攻と、平成から令和に入って、時代が大きく動いたということです。奇しくも、連載の第1回で著者は、こう記しています。
「いま必要なのは短期的な動員ではなく、むしろ忘却に抗う力だ。言い換えれば『意味』を探る力である。(略)意味の理解がなければ、社会は同じ過ちを繰り返す。本コラムではそんな意味を探り続けたいと思う」
 SNSが急速に普及したことで、私たちは目まぐるしい情報の洪水を浴びながら生活することがデフォルトになりました。世界規模の変化にとどまらず、著者の知性と探求心は、ジャーナルな事象の「意味」を次世代に語り継ぐべき記憶へと書き換えていくことで、読者を立ち止まらせる力を持っています。
朝日新聞出版のPR誌「一冊の本」9月号に掲載された、東浩紀さんによるエッセイを特別に公開します。

東浩紀著『忘却にあらがう』(朝日新聞出版)

 時評集を出した。『忘却にあらがう』というタイトルである。『AERA』誌に5年にわたって寄せ続けた隔週コラムをまとめた本だ。

  タイトルはコラムの初回で使った言葉から採った。5年前の言葉だ。とはいえ、最近のぼくは「抗う」という言葉はあまり使わない。抗う、抵抗するといった瞬間に、当の抵抗対象の論理に搦め捕られるような気がするからだ。

 コラムは2017年の1月に始まっている。アメリカでトランプ大統領が誕生した月だ。必然的に内容はポピュリズム批判が多くなった。ポピュリズムはつねに瞬間風速を目指す。「いまここ」の動員の最大化を目指し、次から次へ依代になる話題を乗り換えていく。忘却に抗うとは、そんなポピュリズムの論理に抗うことを意味している。

 訴えは機能しただろうか。率直に記すと、ぼくはいま強い無力感に襲われている。ぼくは有名ではないし、売れる書き手でもない。そんなぼくの短い文章が世の中を動かすはずもなく、だからその点で失望しているわけではない。そもそも批判なんてたいていが無力なものだ。無力を恐れていては批判はできない。

 それはそうだ。しかしそこで、批判する側が、その批判対象と同じように視野が狭くなり、愚かで醜い発言ばかりを繰り出すようになったらどうか。忘却への抵抗、まさにそれが大事ですねと頷いてくれる読者が、現実にはSNSで政治家や芸能人を口汚く罵り、次から次へハッシュタグを切り替えるだけで自己満足するようになってしまったらどうか。訴えそのものが虚しくなる。自民党には問題がある。権力は忘却を推進している。モリカケサクラも公文書改竄もなにもかも解決されていない。ぼくもコラムで何度も批判した。しかし批判する側もどれほどの記憶力をもっているだろう。この原稿を書いているのは2022年の8月で、世間は統一教会の話題で持ちきりだ。昨年のいまごろは東京五輪と小山田圭吾で持ちきりだった。名のある識者が、五輪は即時中止しろ、小山田は追放だと大合唱していた。彼らはいま当時の発言をどれほど覚えているだろう。そして来年のいまごろ、現在の発言をどれほど覚えているだろうか。

 権力はポピュリズムだ。けれどもいまや権力への抵抗もポピュリズム頼みになっている。忘却の合わせ鏡は五年前も明らかだったが、ますます悪化している。とくにSNSがひどい。ぼくは先日ツイッターをついに止めてしまった。たまたまだが、アカウントを削除した翌日に、安倍元首相の銃撃事件が起きた。

 計算社会科学者の鳥海不二夫氏は、SNSの炎上やデマ拡散のメカニズムをわかりやすく分析する記事で知られている。

 そんな彼の話題になった記事のひとつに、「なぜリベラルの声は中間層に届かないのか?」と題されたものがある。安倍元首相に関する1億件以上のツイートを分析した結果、リベラルのツイートは仲間うちで増幅される傾向が強く、保守の声のほうがまだしも中間層に届いているとの結論が得られたという内容だ。記事は昨年10月に公開され、案の定強い反発を買った。衆院選直前というタイミングもあり、政治的な意図を疑う声もあった。けれどもその分析はぼくの肌感覚と合っている。いまから10年ほどまえ、震災のころまでは、SNSでスクラムを組み、特定のアカウントに押し寄せ罵詈雑言を浴びせかけるといった行動は、いわゆる「ネトウヨ」の専売特許だと考えられていた。いまではリベラルも同じことをやっている。むしろリベラルのほうが、結束が固いぶん暴力的に見えることすらある。

 なぜこんなことになってしまったのか。保守はポピュリズムだ、ならばリベラルもポピュリズムで対抗しようという発想に、そもそものボタンの掛け違いがあったのではないか。その発想は思想的には「左派ポピュリズム」と呼ばれ、必ずしも日本だけのものではない。けれども国内では2010年代半ばのSEALDsブームあたりから力をもつようになった。保守が感情で大衆を動員するのであれば、リベラルも感情を利用する。いっけんもっともらしく聞こえるが、それはいってみればエンタメに純文学が売上で闘いを挑もうとするようなものだ。保守とリベラルを数で比べれば、保守のほうが強いに決まっている。人間は保守的な生きものだし、歳をとればますます保守的になる。そこに気づきを与え、立ち止まらせるのがリベラルの役割であり、また知的で批判的な言説の使命だ。リベラルの力の源泉は数にあったのではない。それなのに数で対抗しようとした結果、リベラルは自分たちの勢力を大きく見せることばかり考えるようになってしまった。

 忘却への抵抗は、かくして忘却に呑み込まれた。コロナ、戦争、暗殺。激動の時代だ。論争も批判も溢れている。議論が必要だ、忘れてはならないとだれもがいう。でもその全体があっというまに忘れ去られ、また同じような光景が反復される。権力も反権力も足踏みを続けている。

 平成から令和へ。2017年から2022年の5年で、日本社会はますます殺伐とし、人々はますます忘れっぽくなり、言葉はますます力を失った。この国はどう考えてもうまく行っていない。意識調査の国際比較を見ると、日本の若い世代では未来に期待しないという回答がたいへん多い。没落はだれもが肌で感じている。権力も反権力もどこにも進まない。批判が現れてもすべて掛け声で終わる。国全体がダメになるとは、きっとこのようなことなのだろうと思う。

 ではどうしたらよいのか。わかるわけがない。威勢のいい回答が欲しいひとは、いわゆるインフルエンサーの動画でも見ればよい。

 ただ、ぼく個人はといえば、言葉の無力さにもういちど向かいあうしかないのだろうと考えている。いま言葉はとても無力だ。長い文章なんてだれも読まない。いまの大学人や言論人はその無力から逃げ出そうとしている。言葉に性急に力をもたせようとして、逆に力を失っている。忘却への抵抗が忘却に呑み込まれるとは、要はそういうことだ。

 でもほんとうは、さきほども記したように、そもそも批判なんてたいていが無力なものなのだ。無力を恐れていてはそもそもなにもできない。言葉は届かない。だれにも理解されない。世界をなにも良くしない。それでもそこから出発するしかない。ツイッターで22万人のフォロワーに囲まれていたぼくは、その厳しさを忘れかけていたように思う。


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