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なぜわずか1世紀で人の寿命は54年も延びたのか?【スティーブン・ジョンソン著『EXTRA LIFE』】

 世界の中で日本は平均寿命が最も長く、84.3歳(2021年度版世界保健統計より)。なぜ、現在の私たちはこれほど長く生きられるようになったのか。その背景には「生命を守る」ことを追求してきた人たちがいた。この壮大なる歴史の物語を、米国の人気作家スティーブン・ジョンソンが紡いだのが、『EXTRA LIFE』だ。コロナの影響で世界の平均寿命が短くなったという報告が相次ぐ中、我々はこの「寿命の歴史」から何を学ぶべきなのか。本書を翻訳した、翻訳家の大田直子さんに「寿命の歴史物語」の重要性について解説してもらった。(タイトル写真/Getty Images)

スティーブン・ジョンソン著『EXTRA LIFE』(朝日新聞出版)

 2020年、新型コロナウイルスCOVID-19が世界をパンデミックに巻き込んだ。その混乱はいまだに収まっていない。

 ちょうど100年前にも、いわゆるスペイン風邪が世界中で猛威を振るい、死者は世界人口の5パーセント超に達したともいわれる。この狂暴なウイルスと世界大戦という人間の暴力が相まって、文明そのものが破滅するというシナリオもありえた。

 ところがそうした暗い予測とはうらはらに、この100年は長寿化の世紀となった。そもそもホモサピエンスの平均寿命は、石器時代からこのかた、35年という「天井」を突き破れないままだった。1920年生まれのイギリス人の赤ん坊でも、41年しか生きられないと予想されていたのだ。しかしその子孫の平均寿命は、現在80年を超えている。

 そしてこの2、30年、中国とインドを筆頭とする発展途上国も、急速な平均寿命の延びを経験している。いったいどうしてそうなったのか、さまざまな角度から探ったのがスティーブン・ジョンソン著『Extra Life:なぜ100年間で寿命が54年も延びたのか』である。

 スティーブン・ジョンソンは米国のノンフィクションライターで、世界史をユニークな切り口でとらえ、興味をそそる物語でわかりやすく伝える名人だ。『新・人類進化史』シリーズでは科学技術、娯楽と文化、そして決断プロセスといった観点から、世界史を読み解いている。

 それに対して『Extra Life』が語るのは数字の話、わずか1世紀で人びとにプラス2万日の人生がもたらされた話である。こうした歴史本は構成が難しい。ヒーローが1人ではなく1000人もいる。年代順に説明しようとしても、イノベーションが次々に出てきて直線的な時系列では収まらない。そのうえ、進歩を促したイノベーションそのものが、ほとんどつねにほかのイノベーションとの共生関係に巻き込まれている。

 結局、著者は物語を8つのカテゴリーに分け、新しいアイデアが生まれた経緯と、そのアイデアをイノベーションに結実させるべく奮闘した人びとの話を、生き生きとした語り口で綴っている。

 まずは「平均寿命」という概念そのものだ。現存するアフリカの狩猟採集民族を研究する人類学者が、歳を数える習慣のない彼らの平均寿命を推定するという難題に取り組む話から始まり、17世紀にロンドン市民の死亡記録を丹念に読むことで、初めて平均余命を計算した人物が紹介される。いまでは人口統計学で当たり前の平均寿命が、そもそも貴重な概念であることを思い知らされる。

 そして当然、医学の進歩は重要だ。ひとつは「ワクチン」。天然痘を予防する種痘といえばイギリス人医師のエドワード・ジェンナーの名が知られているが、じつは患者の膿を健康な子どもに植えつけるという野蛮ともいえる方法はずっと前から行なわれていて、それをイギリス社会に広めたのは聡明で勇敢な貴族階級の母親だった。しかもアメリカではジェファーソン大統領が空き時間にワクチンの治験をしていたという。

 感染症を治療する「抗生物質」についても、アレクサンダー・フレミングの発見が有名だが、大量生産するための方法を開発したのはほかの研究者の地道な努力であり、当時は第2次世界大戦中で、兵士の死を防ぐために大きなニーズがあったという状況もまた、イノベーションの実現に大きく寄与した。

 そして「薬の安全性」に関しては、かなり衝撃的である。18世紀初め、医療を利用できた貴族のほうが庶民より寿命が短かったのは、当時の医療が百害あって一利なしだったからだ。ところが20世紀に入ってもなお、百害あって一利なしの薬が市場に出回り、大きな薬害を引き起こしていた。薬の効果を証明することが義務づけられていなかったからだ。効果の試験方法が確立され、政府による監視制度が整ってようやく、薬が平均寿命の延びに大きく貢献するようになった。

 そうした医療の進歩がまだ庶民まで到達していなかった19世紀、その平均寿命を初めて延ばしたのは「疫学のデータ革命」だった。ロンドンでコレラが集団発生していたとき、その空間的・時間的分布のデータを集め、分析して、流行を抑制し、発生を最小限にとどめる方法を体系的に考えた先駆者のおかげだ。

 そうした貢献者の働きは地味で、大きな銅像は建てられていないが、伝染病が日常の現実だった時代に、大勢の人びとの命を救った勝利はもっと祝われるべきだ。現在のコロナ禍において、今日は何人が重症化したか、入院患者の増加率はどうか、といった最新の数字が利用できるのも、彼らが構築した枠組みがあってこそなのだ。

 さらに話は人びとが口にするものにおよぶ。まずは「牛乳と水の殺菌」。19世紀半ばのニューヨークで、ウイスキーのかすを餌にして育てた牛の乳に石灰を混ぜた牛乳が売られていたという衝撃的な話に始まり、パス・ツールの開発した低温殺菌法を施した牛乳を庶民に広めた百貨店オーナーまで話題が広がる。飲料水を塩素で殺菌するなど、当初は狂気の沙汰に思われたが、それを大胆に敢行した医師のおかげで、乳児死亡率が大きく下がったという。

 そして「食料生産と栄養」の向上がある。皮肉なことに、第1次世界大戦に備えて爆弾製造量を増やすために開発された人工アンモニアが、化学肥料という新しい概念を生み出し、農業生産を飛躍的に伸ばして、大規模飢饉を撲滅した。1920年代にヒヨコの発注ミスをきっかけに始まったブロイラー養鶏場もまた、生産方式に対する批判はあるものの、人びとの食生活を変え、栄養状態改善にひと役買ったことは確かだ。

 そして平均寿命を延ばした比較的新しい要因は「機械の安全性」だ。鉄道機関車、飛行機、自動車など、生活向上を目的としたテクノロジーが人の命を奪うようになった。とくに自動車は20世紀の発明のなかでもマシンガンに匹敵する数の人を死なせた。メーカーがそれは物理的に仕方がないことと消極的だったのに対し、衝撃を和らげることはできるはずだと、屋上から卵を落として割らない装備の実験をしたり、時速100キロのスピードを生身で体験したりして、安全策を研究した人たちのことが語られている。そして最終的にメーカーの態度を変えさせたのは、メディアの力を使ってその重要性を訴えたジャーナリストや、事故で娘を失って活動家になった母親たちだったという。

 こうして平均寿命は飛躍的に延びた。これをすばらしいニュースだ。幼くして死んでいた子どもたちが、大人になって充実した人生を送っている。しかし、人びとが考え出したすばらしい解決策が、新たなレベルの脅威を生み出した。それは人間自身である。

 人類がいま直面している問題の多くは、死亡率減少の二次的影響といえる。気候変動は一般に産業革命の影響だと理解されているが、もし私たちが化石燃料に頼るライフスタイルを採用しながらも、死亡率が下がっていなかったら、気候変動は問題になっていなかっただろう。しかし現実には、世界中の平均寿命が延び、増えた人口が環境に影響をおよぼしている。そして温室効果ガスを削減する意志の力も制度も、人類にはまだないようだ。

 人間の寿命をこんなに延ばすことは、ひとりの天才の発明や発見だけではかなわなかった。そのひらめきを具体的な商品にしたり、広く普及させたり、別のアイデアや知識と結びつけたりすることが必要だった。あるいは普通の人が身のまわりの疑問を突き詰めて考えたり、平凡なことを積み重ねたり、新しいことにチャレンジして試行錯誤を繰り返したりすることが必要だった。さらには多くの視点から状況を見きわめることが必要だった。

『Extra Life』にはその事例がたくさん詰まっていて、人間のすばらしさも愚かさもあらためて知ることができる。そこから学べることが、私たち人間自身というこれからの脅威と対決するのに役立つはずだ。

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