見出し画像

【朝比奈秋著『私の盲端』書評】現役医師によるデビュー作

 第7回林芙美子文学賞で大賞を受賞した朝比奈秋さんのデビュー作『私の盲端』が刊行され、話題となっております(受賞作の「塩の道」も同時収録)。病気で突然人工肛門になってしまった女子大生の涼子の苦悩とそれからの日常を通して、普段考えもしなかった自分の内臓感覚、オストメイトや対応トイレの在り方など、新しい視点を投げかけてくれる小説です。文筆家・評論家の仲俣暁生さんが「小説トリッパー」22年春季号で書評を執筆してくださいました。

朝比奈秋『私の盲端』
朝比奈秋『私の盲端』

「食」と「熱」の祝祭

 就活を控えた21歳の大学生・比奈本涼子は、自分の身体にこもる熱をもてあまし気味だ。大学で女友だちと過ごす退屈な時間より、長くアルバイトをしている料理店「橙」で過ごす時間にどうやら充実したものを感じている。

 そんな涼子を、突然の病が見舞う。アルバイト先での勤務中に突然、大量下血して倒れたのだ。幸い命はとりとめたが、大腸の一部を切除したので、再手術までのあいだ人工肛門で暮らすことになる。腸壁を裏返して医師が丁寧に縫い付けてくれた、薔薇のような人工肛門を。

 人工肛門による排便は、自分でコントロールできない。ある程度の決まったインターバルはあるものの、気づかぬうちにビニールパウチのなかに排泄される。授業中でも、食事中でも、たとえ性交の途中であっても。人工肛門とともに生きるということは、身体の不如意をとことん知ることなのだ。第七回林芙美子文学賞を「塩の道」で受賞してデビューした、この作者の第二作『私の盲端』は、そんな奇抜な設定で語られる青春小説だ。

 涼子はまだ男との性体験をもたないが、「橙」の正社員である華子に性的に惹かれている。しかし人工肛門をもつ不如意な体では飲食店での勤務を続けることはできない。涼子はそう思いつめ、先行き真っ暗な気持ちになる。

 自分と同じく人工肛門をもつ者(「オストメイト」と呼ばれる)の京平との出会いが、そんな涼子の身体感覚を変容させていく。タイトルの「盲端」とは、大腸から切り離され、行き場を失った涼子の直腸のことだ。でも涼子には、そして彼女の腸には、いまなお熱がたぎっている。

 涼子はオストメイトが集う匿名チャットルーム「秘密の穴」に、“涼しい顔の女”というハンドルネームで参加している。だが同じ悩みをもつ者同士が率直に感情を吐露しあうこの仮想空間も涼子の帰属先にはならない。幸運な者にとって人工肛門はあくまでも一時的な措置であり、再手術により大腸と肛門がつながった者はこのチャットルームを晴れやかに卒業し、普通の生活に戻る。だが他方で、人知れず静かにここを「退出」する者もおり、涼子もそのようにこの場を去る。

 でもこの物語の読後感は爽やかだ。涼子は、お互いの体の秘密をオモテもウラも知るようになった京平との関係を深めるなかで、たとえ一生、人工肛門のままでも生きていける自信を得る――本作のそうした「青春小説」としての筋書きを素直に追ってもよいだろう。

 ただし、この小説は、涼子という主人公に読者の感情移入を誘うようには書かれていないことにも注意したい。オストメイトにとって「天使」的な存在ともいえる京平がこの物語におけるトリックスターなのは明らかだが、涼子自身もまた一種のトリックスターではないだろうか(二人の名前が似ているのはそのためだ)。この小説の真の魅力は、若く美しく、しかし少しばかり不運だった涼子の視点を借りつつ、彼女をとりまく社会を構成するあらゆる立場や階層の人々を祝祭的に描いたところにある。それはバフチンがラブレーについて論じた際にもちいた「グロテスク・リアリズム」という言葉を想起させるほどだ。

 本作の祝祭的な特徴がもっとも現れているのは、「橙」の労働現場の描写だろう。人工肛門の生活に慣れてきた涼子は、手術のことは黙ったままアルバイト先に戻る。復帰最初の日、店のオーナー夫人がちょうど視察に訪れている。この店は独特の濃い味付けで人気があり、コックが料理に精液を混ぜているとも噂される。味で評判の店ゆえ、職場の権力関係のなかでコックはフロア係のみならず、雇われ店長以上の地位にある。新メニューに取り入れようとコック長が試食をもとめた新作チャーハンをオーナー夫人が口いっぱいに頬張る横で、突っ立ったまま排便する涼子――そんなスラップスティックな展開が不思議な哄笑を誘う。

 心臓に電子機器を入れた小柄な女、ユンの存在も象徴的だ。ユンはたびたび発作を起こし、大皿を天井に向けて投げ上げて卒倒するが、「橙」の社員はその程度では動じない。大学生アルバイトと高卒社員との、そして社員間にもある階層を描きながらも、それらはたんなる分断としては描かれていない。身体の障碍を隠してでも雇用継続に死活的な関心をもたざるを得ない労働現場の容赦ない実相は、自分の居場所がそこにはないことを涼子に突きつけるが、この場のもつ祝祭性は彼女を勇気づけるに十分なのだ。

 併録作「塩の道」には(人工肛門のような)トリッキーな仕掛けのないぶん、この作者のモチーフが素直に出ている。

 主人公の男性医師は、九州の小さな医院で老人の最期を看取るばかりの無気力な生活を続けている。人生にあらかたの希望を失った彼は、請われてさらに小さな青森の診療所へと移るが、この地で彼が出会う者たちは、老いや病による極限状況にあっても内なる熱を最期まで手放さない。医師自身もやがて内なる熱を見出すことが示唆されて、物語は終わる。

 若さと老い、生と死を描いた対照的な二作は、食と酒、筋肉と熱という祝祭的モチーフによって結ばれている。


みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!