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【シリーズ最高傑作】北原亞以子さんの幻の名作長編が初の文庫化!『雪の夜のあと 慶次郎縁側日記』大矢博子氏による文庫解説を公開

 北原亞以子さん『雪の夜のあと 慶次郎縁側日記』(朝日文庫)が8月7日に刊行されました。「慶次郎縁側日記」は、元南町奉行所同心のご隠居・森口慶次郎が弱き者を情けで支える人気時代小説シリーズです。今回、長らく入手困難だった幻の長編作品が、初めて文庫化されます。ファン待望の復刊について、文芸評論家の大矢博子氏の文庫解説を公開いたします。

   <本書が原作>
    時代劇セレクション「慶次郎縁側日記2」(主演:高橋英樹)
    NHK総合 毎週水曜日 午後3時10分~ 2022年8月放送予定
    ※放送は変更になることがあります。

 朝日文庫による「慶次郎縁側日記」シリーズ復刊企画、第3弾である。
 ――と簡単に書いたが、実はこの『雪の夜のあと』の復刊は多くのファンが熱望していた、まさに快挙と言っていい出来事なのだ。私も復刊3作目が『雪の夜のあと』と聞いて思わず「ほんとうに?」と訊き返してしまったほどである。
 というのも、本書は新潮文庫のシリーズには入っておらず、これまで文庫化もされていなかった〈幻の一冊〉だったのだから。
 シリーズ第1作『傷』を読まれた際、違和感を覚えた読者もいたのではないだろうか。『傷』は短編集だが、第1話「その夜の雪」と、第2話「律儀者」以降に大きな隔たりがある。「その夜の雪」では娘を失って復讐の鬼と化した定町廻り同心・森口慶次郎が描かれるも、「律儀者」ではすでに慶次郎は隠居して根岸でのんびり寮番をしている。のみならず、描かれる世界観も厳しく切ない慟哭の物語から一転、江戸市井の人情ものへと変化していた。この間にいったい何があったのか――と、思った読者は少なくないはずだ。
 あるいは、新潮社版のシリーズをもっと先まで読み進むうち、登場人物の昔語りに「そんなエピソードあったっけ?」と首を傾げた方もいるかもしれない。
 この間にいったい何があったのか? そんなエピソードあったっけ? ――それを描いたのが、本書なのである。
 慶次郎初登場となる「その夜の雪」を表題作とする短編集が新潮社から刊行されたのは1994年。この時点ではノンシリーズの短編集だった。並行して同年に短編「傷」(原題「頬の傷」)を「小説宝石」に、翌95年に「饅頭の皮」を「週刊新潮」に掲載。ここでシリーズ化の提案を受け、97年までに雑誌発表した短編をまとめたのが1998年に刊行された第1作『傷』である。
 それらと並行して、北原亞以子は1996年の3月から11月まで、「週刊読売」で長編を連載していた。それがこの『雪の夜のあと』だ。タイトルが示唆する通り、「その夜の雪」の後日談である。あのあと何が起きたか。あの一件が関係者にどんな影響を与えたか。それがつぶさに本書で綴られる。「その夜の雪」はあの短編ですべて終わったわけではなく、その後再燃し、関係者が当時を振り返って苦しみ、過去に向き合う様子が描かれるのだ。ここでようやく「その夜の雪」は完結するのである。「その夜の雪」『雪の夜のあと』と「傷」以降では、慶次郎のビフォア・アフターと言ってもいい。
 本書の単行本が読売新聞社から刊行されたのが1997年。短編「その夜の雪」が1994年、短編集『傷』が1998年という並びを見てもわかるように、本書は本来、「その夜の雪」と、それを除く『傷』収録作の間に収まるべき作品なのである。「その夜の雪」と本書で一冊にまとめて第一巻としてもよかったくらいだ。
 もちろんこれまでも文庫化の話はあった。けれど北原さんはもう少し手を入れてからと、保留になっていたと聞いている。それゆえ復刊も文庫化もされず、いつしか単行本は入手が難しくなった。もともとの版元が違うということもあり、「慶次郎縁側日記」と銘打たれたシリーズにも本書は組み込まれていない。〈幻の一冊〉と言ったのがお分かりいただけるだろう。
 もちろん、北原さんが納得のいくまで手を入れ、送り出してくださるのが一番だ。けれど残念なことにそれはもう叶わない。そんな中、今回のシリーズ復刊入りを決めてくださったご遺族や関係者には心からの感謝を捧げたい。
 これでようやく「慶次郎縁側日記」の失われた環(ミッシングリンク)がつながったのである。

「その夜の雪」では、慶次郎の愛娘・三千代が、祝言を前に男に凌辱されたのを苦に自害。その男、常蔵を慶次郎はどうしても許すことができず、復讐にのめりこんでいく様子が描かれた。常蔵に刀を向ける慶次郎を必死に止めたのは、常蔵の幼い娘・おとし。そして、かつて妻を殺された復讐を慶次郎に止められ、今は慶次郎の手下となっている辰吉と、自らの行動が原因で妻に逃げられた岡っ引の吉次だった。
 人を恨むということ、殺すということ、生き直すということを壮絶なまでの筆致で綴った珠玉の短編である。
 本書はそれから5年後が舞台だ。慶次郎は三千代の許婚だった晃之助を養子にして定町廻り同心の職を譲った。晃之助が妻を娶り、結果として夫婦養子の形になったところで慶次郎は根岸にある酒問屋の寮番(別荘の管理人)として、飯炊きの佐七と二人暮らしを始める。同心時代とは打って変わって穏やかな日々を送っていた。
 ところが、とある偶然から慶次郎は、喜平次・おぶんと名を変えた常蔵・おとし父娘と再会する。喜平次はまったく変わっておらず、女を騙し、惚れさせ、貢がせながら生きていた。おぶんはそんな父親が大嫌いで、けれど完全に見捨てることもできない。
 三千代を死なせただけでは飽き足らず、今もなお、複数の女とその家族を不幸にし続ける喜平次。5年前に復讐を思いとどまりさえしなければ、あのとき殺しておけば、後に続く不幸もなかったのではないか――。
 物語は、慶次郎と彼の手下の辰吉、岡っ引の吉次、喜平次、彼に惚れているおたきとおりょう、娘のおぶん、そしてやはり過去に罪を犯して逃げている夫婦へと視点を移動させながら、群像劇のように進んでいく。
 注目すべきは、「その夜の雪」で描かれることのなかった喜平次とおぶんの内面だ。5年前に、お父つぁんなんか死んじまえと泣き叫びながら、それでも慶次郎を必死に止めていた幼いおとしの胸の内。情けない父親を更生させられないことで自分を責め、かといって見捨てることもできないジレンマ。
 喜平次が、決して今のままでいいとは思っていないことにも驚かされた。歳も38になり、いつまでも女にたかる生活が続けられるわけではない。娘にぶらさがって生きるのも嫌だ。ひとりになるのは怖い。だが、働くのはもっと嫌だ。慶次郎に殺されかかったときも、おぶんに頬を張られて「死んじまえ」と言われたときも、その時は身に染みてやり直そうと思うが、続かない。すぐに同じことを繰り返してしまう。自分は働くのに向いてない、女に惚れられるのも才能だ――。
 どこかで、わかる、と思ってしまう自分がいる。喜平次のような生き方を認めるわけではないが、それでも、自分に言い訳をして、自分に都合のいい解釈をして、自分を甘やかして、うまくいかないのは人のせいにする、そんなメンタリティは確実に自分の中にもあるということに気付かされるのだ。断ち切ることもできずにかかわってしまうおぶんの切なさも然り、である。
「その夜の雪」では、ただ憎たらしいだけだった常蔵が、ただ健気なだけだったおとしが、ぐっと肉厚に、リアルに迫ってくる。これが長編の魅力だ。
 他の登場人物も然り。幸せに暮らしている人をどうしても斜めに見てしまう吉次も、慶次郎に罪を犯させてはならないと奔走する辰吉も、逃亡中の夫婦も、そしてもちろん慶次郎も、みんながそれぞれ過去を抱え、傷を抱え、それを宥めながら生きている。それぞれの考えと経験で事件に向き合い、自分の内面に向き合うのである。
 あのとき、ああしていたら――。
 それが本書を読み解く鍵だ。誰もが後悔を抱えている。喜平次にさえ会わなければ。ちゃんと彼を断ち切っておけば。あのとき、逃げなければ。5年前、喜平次を殺してさえおけば。三千代の死因を明らかにすれば喜平次は捕縛され、慶次郎が殺すことができなくなる。だから敢えて事件にしなかったのだが、あのとき、ちゃんと喜平次を罪人として捕まえ、罰しておけば――。
 その時はそれがベストだと思って選んだ。けれどそうではなかったかもしれないと思い知らされたときの絶望。だが過去に戻ってやり直すことはできない。本書の登場人物はみな一様に、その思いに囚われている。正解のない問いの前で、彼らは迷い、悩み、悔やむ。
 だからこそ――それを乗り越えたときには強くなるのだ。やり直せない過去を受け入れ、選び直せない選択を認め、その上で前を向く人々の、なんと清々しいことだろう。ひとりひとりの、未来へ向けた選択をどうかじっくりと噛み締めていただきたい。過去は選べない。けれど未来は選ぶことができるのだと、本書は告げているのである。

 未来が選べることの一例として、シリーズ番外編『脇役 慶次郎覚書』(新潮文庫)所収の「辰吉」を挙げておこう。辰吉とおぶんの、本書の後日談が描かれている。いずれ朝日文庫にも入ると思われるが、ぜひ合わせてお読みいただきたい。
 シリーズはここから、江戸情緒と人情に満ちた、生活感溢れる市井小説へと展開していく。吉次や辰吉、佐七、慶次郎行きつけの料理屋の女将といったレギュラーメンバーたちもさらに魅力を増し、各収録作も捕物帳から家族もの、恋愛もの、職業もの、ユーモラスなものから泣けるものまでと幅が広がっていく。だが物語のタイプは違っても、どれも底には人が誰しも抱える傷や後悔がある。それが物語を優しく、強くしていることに気付かれるに違いない。
 本書はまさに、その第一歩であり、すべての始まりなのである。すでに「慶次郎縁側日記」を読破した人も、本書を読めば物語の世界がより深まるはずだ。


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