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次は笑顔で乾杯しよう

今日、何度目の乾杯だろう。

いつものように、ご機嫌に乾杯の音頭をとる部長を、私は少し離れた席から冷めた感情で眺めていた。そしてそっと腕時計に目をやる。

そろそろお開きかな。

やっと長い1週間が終わる。そして仕事の延長の飲み会ももうすぐ終わる。やれやれ。隣の後輩に悟られないよう、私は小さくため息をついた。

会社の飲み会は嫌いなわけではない。それなりには楽しいし、仕事の上での潤滑油になるのも分かる。

でも。

いつも少し冷めた自分がいる。

元来の性格もある。ただ、年々後輩が増えて、中堅と呼ばれるようになり、ますます傍観者となっている自分に気づいていた。

みんなより一足先に店を出て、歩道のガードレールに寄りかかると、誰にも話しかけられないよう、おもむろにカバンからスマホを取り出した。もう、1週間のエネルギーを使い果たし、誰かと会話するのさえ億劫だった。Twitterの画面を機械的にスクロールしていると、

「どう、最近。」

えっ、この状況で話しかける?と不機嫌に顔を上げると、そこにはさっきまで、一番テンション高く場を盛り上げていた部長が、半分まだ酔いの残った表情のまま立っていた。

「あっ、お疲れ様です」

とっさにガードレールから立ち上がると、私は半オクターブ高い声で、とりあえず返答した。そして何と続けようかと、逡巡していると、

「いつでも話聞くよ」

何かに迷っていたわけではない。大きなトラブルを抱えていたわけでもない。なぜ突然そんな言葉をかけられたのか、戸惑っている私に部長が続けた。

「そのために僕たち管理職はいるんだよ」

酔っ払っているのか。いや、よく見ると部長のその眼だけは正気だった。さっきの宴会部長の面影はどこかに消え、いつもの冷静で穏やかな部長の眼差しがそこにはあった。

え、酔っていないの?…

私は唖然とした。いままでずっと部長は、ただの宴会好きのオジさんだと思っていた。酔っ払って大きな声で周囲に話しかけ、今日だって、何回も毎度お馴染みのセリフで、みんなを巻き込んで楽しそうに乾杯をして。

それは私がこの部署に異動する前から続いている、部長オリジナルの乾杯だという。特別面白おかしいわけではない。ただ普段の部長とは真逆の、陽気で賑やかな調子は、場の雰囲気を盛り上げるには充分だった。

しかし、本当は違ったのだ。普段の部長の穏やかだけれど、隙のないちょっと冷たい感じは、やはり若手から見れば、近寄りがたい。そんな私たちの想いを払拭すべく、敢えて宴会部長を演じ、親しみやすさをアピールしていたのだろう。彼もまた仕事で飲み会に参加していたのである。

もしかしたら、部長もかつての上司に同様の感情を抱いていたのだろうか。だからこそ、毎回乾杯の儀式は繰り返されているのだろうか。

2次会へ流れるグループと分かれ、私はひとり駅までの道を歩いていた。遠い存在だった部長が、少し近くに感じられた。何かあったら話しかけてもいいんだ、相談してもいいんだ、ちゃんと私たちのこと見てくれていたんだ、そんな思いがぐるぐると渦巻き、堅く重くなっていた私の心は、ゆっくりほどけていった。

垣根を作っていたのは私の方だったのだ。

新人と呼ばれた時代から年月が経つにつれて、ひとりで出来ることが増え、責任も大きくなってきた。評価されることが嬉しい反面、いつのまにかひとりで仕事を抱え込むようになっていたのだ。もう少し周りに頼ってもいいのだと、肩の力を抜いていいのだと、部長はそんなことに気づかせてくれたのだった。

冷たい夜風に吹かれながら、私は親鳥に護られている雛のように、大きな温かさに包まれていた。

今度飲み会の時は、部長の声に合わせて、一緒に大きな声で乾杯してみよう。不意にそんな思いが頭をよぎる。

「かんぱーい!」

みんなと笑顔で乾杯しよう。

きっと晴れやかな時間になるに違いない。

ひとりではなかった。見守ってくれている上司がいた。仲間がいた。そんな事実が私の心を軽くしていった。



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