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そういうものがどうしても 出てくるのでございます ― 創作の根っこ



1.なぜ、ブログを書くおじいさんがいないの?

17歳の高校生が書き込んでいました。珍しい・・。

小説を30万語以上書いている。書くのは苦ではないという。

でも、受験勉強しないといけない。勉強は好きだという。でも、ブログも好きだ。

とにかく時間が無いんだ、勉強時間をどうやって捻出しようか、というような話でした。

その女子にみんなが反応した。がんばれよって。


17歳の投稿ってなぜ稀なんだろうかと思った。

エネルギーありあまってる時期だから、友だちに会いたいし部活やりたいし、それこそ勉強もせねばということで、ブログ書く時間がそもそもない。

忙しいっ、眠いっ!SNSの方が簡単で直接的に友達とコネクトできる。

高校生なら関心は自分の”外”へと行きます。

いよいよこれから参戦するこの世界がどうなってるんだ?仲間はいる?

好奇心と不安がないまぜになる。大丈夫か、わたしっ!

大学生も終わる頃になると、ブログを書く人が徐々に増えて行く。

うまくいかないことばかり、失意、増す不安・・・。書くことですこしづつ内面を見つめ出すんでしょうか。


うん? そういえば、80歳、90歳の人の投稿って読んだこと無い。

老人の投稿が少ないのはなぜなんだろうって思った。

日本人の10人に1人は80歳以上だそうです。時間はうんとある。なのに書かれたブログを見たこと無い。

おじいさんはIT知らないんじゃない?って思うかもしれないけど、そんなことない。

会社ではMSのオフィスどころか、メールもさんざん使わされて来た人が多いはずです。

1990年頃からもう30年経ったのだから、あの頃50歳だったのなら、今80歳になってて、そういうオフィスワーカーなら今でも書ける。

スマホ画面は小さいし、操作が出来ないんじゃない?って思うでしょうが、年配者はパソコンで打つ。(大きな画面は必須です)

スマホは簡単なやり取りに留め、書きたければパソコンで打つ人も多いのです。

あたま、ボケてんじゃない?ってあなたは言うでしょうね。

ところが全員きっちり認知症になるわけではない。せいぜい、20%程度です。

村上春樹さん、75歳前後だと思うんだけど、第1線の作家を踏ん張ってる。


そもそも、わたしのような60代も実は稀、です。

年配者は悟り切ってる?そんなことないでしょう。ボケてる?そうね、すこしね。それが理由??



2.わたし、生きている限り、打ちたい


書いて文字にして見ないと、じぶんが見えてこないという感覚があります。

中のものを外に出して、それをじぶんの目で見てみるのです。

あたまの中にそのままである時より、言語化してみると客観化され掴みやすくなる。

と、同時に、うん?これがわたし?となります。

”書かれたわたし”と、”わたしそのもの”との間の乖離(かいり)が起こってる。

ちょっとした違和感が生じ、ほんとは何?というさらなる問い掛けが起こる。

言葉ではほんとのわたしは現わせられられないけど、そんな反復運動が続くと、ほんとのじぶんにすこし近づいた気がします。

書くということは、そんな地味作業でしょう。


やがて、「ああ、そうだよねっ」ていう所に落ち着く。これ以上はどうしようもないというところ。

「書かれたわたし」と、「わたしそのもの」との間がほぼ納得する。。と、わたしが嬉しい。

もちろん、書くことでいろんな人と繋がることもできます。

ますます知り合いが狭くなるから、年齢、性別を超えるブログはほんと助かります。(知り合いがどんどん逝く。仕事無くて社会から切り離されてる)

書きたがるわたしは、とても珍しいんでしょうか?


ケア施設に行くと分かるのですが、高齢者は非常に無気力になってます。(生きるシカバネみたいな、怖いところです)

職員に言われたとおりに、お絵かきし、エクササイズし、お風呂入れてもらい、ご飯食べさせてもらってる。

さあさあ、おばあちゃん、おやつの時間ですよと、子ども扱いが定番です。

あんまり人たちは話しません。

90歳前後になると、話していたかと思うと、もうコックリ寝だす。

体力、気力が減衰するというのは本当だし、耳も聞こえません。口もうまく回りません。

会話の無い空間です。(わたしは耐えられそうにない・・)


働いて家族を養うという義務がはずれ、手足・頭も劣化すると、生きる気力がなくなって行くようです。

認知症の発症は、ぜんいんではないものの、ある種、ボケたくてボケで行くという傾向もあります。

すべてが劣化する中で、諦める人たちも出てくるのです。

もう、いいよって。

いつまで生きていても家族にお金や心配かけるだけだし。もう、孫もいるんだし・・・。もう、相棒も逝ったんだし。。

もちろん、施設にお世話にならない老人も多くいます。

自宅で老老介護しあっていたり、お金が無いからと自力でなんとか生きているという人もいる。

施設ほどには自分を投げ出しは出来ない。


わたし、嫌だな。

せっかく来たんだもの。ほんとのじぶんに触れてみたいって思ってる。

書くという体験を通じてなら、なんだかすこしは分かるような気がするのです。

読む、書くは子どもの頃から苦手でもなかったのです。

暇が出来れば出来る程、書いてみたい。

50歳過ぎてから最初の3年間は毎日書いてみました。13年以上、ブログを書いています。

飽きるということはないし、悟ったなんてことも起こりません。(うまくもなりません)

今でも、あなたが反応してくれればとても嬉しいし、みんなが悩むのはじぶんとおなじなんだなぁと共振する。

中には感性豊かなひとや、若くても真実に迫る力を持ったひともいます。

やっぱり嬉しい。

わたしのこころが抱きかかえられて、すこし高みに昇る。。

いえ、わたし自身は、書いて「なにかに成る」とか「なにかをゲットする」という気はもう、ありません。

わたし、書くのが好きなのです。

書くのが好きで、かつ、年配者だという人がすごく少ない?

でも、80歳以上の1200万人、その1割が書きたがるとしたら、120万人はいるはずなんだけど・・。



3.再度、なぜ老人はブログを書かないんだろ?


あなたが、「老人は無気力に成り、手足・頭がダメになるからだろうね」というのなら、それはちょっと寂しい。

いや、「老人が何しているかなんかまったく興味が無い」と断言するなら、とんでもなく寂しい。

だって、そこはあなたが必ず行くところなんだもの。

いいえ、あなたが予想するより、ずっと早くに。かれらは、もうすぐのあなた。

もし、「老人に(つまり他者)に興味が無い」というのなら、きっとそういう人は高齢期になったら、ブログは書かないでしょう。

手足・頭が劣化する中で、周囲に対する興味をいっそう失い、無気力になるでしょうから。

相手が老人だから興味が無い、のではないのです。

目先のものに誘導され易いだけかもしれません。オンナ(オトコ)、カネ、チイ、ハヤリ。。。

ひどいこと言っている?そうかもしれません。


いいえ、あなたが全方位に好奇心が無いことを非難したいのではないのです。

老人は明日のあなたであり、かれらをカガミにして今の自分を見直すチャンスだといいたいのです。

ほとんどの老人がブログに参画してこない現実を繰り返して欲しくないのです。

ボケたらボケたなりに、手が動かないのなら動かないなりに、やがてのあなたに発信して欲しい。

わたしは、わたし自身に対してそう生きることを願ってます。



4.まどみちおさん


ご存じでしょう。

ぞうさん♪、ぞうさん♪というあの歌詞を作った詩人です。

『ふしぎなポケット』は、たたくたびに中のビスケットが増える魔法のポケットがほしいと歌う作品でした。

『一ねんせいになったら』、『やぎさん ゆうびん』もかれでした。

まどさんは、『ぞうさん』について次のように語りました。

「『鼻が長い』と言われれば からかわれたと思うのが普通ですが、子ゾウは『お母さんだってそうよ』、『お母さん大好き』と言える。素晴らしい。」

優しい、ユーモアを愛したひと。そして、二度と従軍は嫌だと言うひと。


2011年、NHKスペシャルでドキュメンタリー「ふしぎがり〜まど・みちお百歳の詩」が放送され、わたしもこれをみました。

100歳超えてました。いろいろ不便そうでした。かなりつらい。

でも、かれは淡々と詩を作り続けてた。

エンピツ握って、絵(抽象画)もひたすら描いてました。

「人間は なぜ詩を書くか。私は 詩を書かないと死んでしまうほどでは ございませんけども、息の次に大事なものがあります。

 「言葉」でございます。そういうものがどうしても 出てくるのでございます。」

ふしぎがりさん。独自の感性で「生きること」、「存在すること」の不思議と尊さを詩にしていきました。

85歳で児童文学のノーベル賞と言われる国際アンデルセン賞を日本人初の受賞をしています(明治生まれのまどさんが受賞した背景には、かれの詩集『どうぶつたち』が美智子皇后により英訳出版されたことがありました)。

100歳を超えても著作刊行が続いたひと。やさしく深い言葉に込められた、まっすぐな思いが語られて行きました。

 「言葉」でございます。という。

ああ、、なんて自由で、そして戦う人でもあるんでしょう。



5.わたしの好きなまどさんの詩


あさがくると  
       まど みちお

朝がくると とび起きて
ぼくが作ったものでもない
水道で 顔をあらうと
ぼくが作ったものでもない
洋服を きて
ぼくが作ったものでもない
ごはんを むしゃむしゃたべる
それから ぼくが作ったものでもない
本やノートを
ぼくが作ったものでもない
ランドセルに つめて
せなかに しょって

さて ぼくが作ったものでもない
靴を はくと
たったか たったか でかけていく
ぼくが作ったものでもない
道路を

ぼくが作ったものでもない
学校へと
ああ なんのために

いまに おとなになったら
ぼくだって ぼくたって
なにかを 作ることが
できるように なるために

大人になっても、老人になっても「なんのために」という問いからは逃れられません。

青年が中年にそして老人になっても貫通する”問い”というものがあって、

手足・あたまがいかれようが、問い続けないといけないものがある。

だから、いくつになっても、迷うのです。

けれど、与えられたものに感謝しながら、今度は、自分が誰かになにかを与えられるようになりたいのです。

それが何かはずっと分かりません。なんのためにか、も分かりません。

でも、 「息の次に大事な言葉」がどうしても湧き出して来る。

いくら年とっても、生の泉は枯れないものがあると言っていると思います。

肉体の衰え、醜さ、不自由さを言い訳にして、枯らしてはいけないものがあるんだと。

それをにんげんは投げ出さずに守らねばならない。

わたしは、大切な言の葉をずっと発信し続ければ、いつか”ほんとのわたし”、そして”あなた”に触れれるようになると思う。

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