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さあ、恋を始めよう

 憧れという感情は、とても恋に近い、と思う。

 春休みがそろそろ終わる、3月末。チェロのケースを背負った私が大学に着いたのは、朝の9時を過ぎた頃だった。まっすぐ部室に向かって部屋に入ろうとしたところで、ドアの向こう側から聞こえてきた音に、ドアノブを掴んだまま動きを止める。

 いる。彼が、部室でチェロを弾いている。

 こんなに深くて柔らかい、美しい響きを出せるのは、彼しかいない。

 深く息を吐き出して、吸った。もう一度深呼吸をして、私はドアを開ける。

「お疲れ様ですー」

 私の挨拶に、彼はチェロを弾く手を止めて「あ、おつー」と気の抜けた挨拶を返した。寝ぐせなんだかセットなんだかよくわからない柔らかな茶髪の下で、へにゃっという効果音が聞こえてきそうな笑顔を見せる。

 20歳の彼は大学2年生で、私のひとつ上の先輩で、憧れの人だ。

 部室にいるのは彼だけだった。本当にこの人、朝から晩まで練習してるな、と思いながら私も楽器をケースから出す。

「先輩、今日も朝早いですね」
「なんかね、年々朝早くに目覚めるようになってきてんの」
「おじいちゃんじゃないですか」
「俺、20歳よ? ようやくお酒が飲めるようになった若者だからな?」

 不満そうな彼に「はいはい」と返して椅子に座る。彼は何やら文句がありそうな目をしていたが、気にせず音出しを始めた。すると彼も練習を再開して、私の向かいでチェロを鳴らす。

 知らず知らずのうちに、意識が彼の音に引き寄せられる。自分だって楽器を弾いているのに耳が拾うのは彼の音だ。

 柔らかくて、深い。そこには喜びも、悲しみもある。理屈とか思考とか言葉とか、そんなものを軽く超えて人間の心の奥深くを揺さぶる音。

 憧れている。彼の音が欲しいと思う。彼みたいに楽器を鳴らしたい。私のチェロだって、彼のチェロみたいに響かせたい。どうしようもなく憧れて、欲して、近づきたいと願っている。

 彼の弓が動く。左手が弦に触れる。チェロを弾く姿は、他のどんなときよりも格好良い。

 私が彼に対して、限りなく恋に近い感情を抱いていることは知っている。憧れがいつの間にか恋に変わってしまうことがあることも、私はよく知っている。

 でも、憧れは憧れのままでいたほうがいいのだ。恋なんて感情は熱くて、重くて、時に痛い。相手の言動に一喜一憂して、翻弄され、温かくて柔らかな幸せだけではいられない。

 そんなものに振り回されるくらいなら、一心不乱にチェロを弾いていたほうがいい。

 チェロは好きだ。音楽が、好きだ。言葉にならない何かを音で表現できるから。無心で楽器を鳴らす瞬間の、世界のすべてが音に染まる感覚が、私は好きだ。恋なんてものより、よっぽど。

 だから、憧れのままでいさせてほしい。

「ん? どした? 俺のことじっと見て」

 彼が楽譜から顔を上げる。無意識のうちに彼を凝視していたらしい。恥ずかしくなった私は「なんでもないです」と目を伏せる。

「そうかそうかー、そんなに俺に憧れているのかー、君は。弟子にしてやろっか?」
「うっぜぇ」

 もはや先輩ということも忘れて素直な言葉が飛び出した。でも、まあいいか。彼だし。彼は「ひどい! 俺、先輩なのに!」と大袈裟にわめいている。うるさい。

「……ずいぶん、楽しそうに弾くなって思ってただけです」
「ああ、まあ、楽しいというか……恋の曲だからね」

 恋、という言葉に、心の奥が跳ねる。

「相手のことが好きで、好きで、大好きって曲。あったかくて柔らかくて、幸せでいっぱいなんだ。純粋に、真摯に、相手のことを想う曲だよ、これは」

 そう言って、彼は少しだけ笑った。私が大好きな笑顔だった。

 飛び跳ねた心が、どこかに走っていきそうになる。私が望まない方向へ。感情が加速していく。憧れとは違う意味を持つ感情へ変化しそうになる。

 あったかくて柔らかくて、幸せでいっぱいな感情を、私は知っている。

「でも俺は同時に思う。恋は、ドロドロ」
「はあ? さっきの発言を台無しにしないでくださいよ。何ですか、それ」
「だって人間の感情だもん。ドロドロでしょ? 楽しいばかりじゃいられない。不安になったり、悲しくなったり、切なくなったり。好きになんかならなきゃよかったって思うのも、恋の一部分。恋はすごく疲れるよね。自分以外の他人に、自分の感情の手綱を預けているようなもんだから」

 そうだ。それを私は知っている。憧れになくて、恋にあるもの。抱えているのはつらくてしんどい感情。

「でも、人間は恋をする」

 彼の言葉が、震える心の奥に静かに届く。

「理屈じゃ説明できないものがある。それが人間なわけ。頭と心は似ているようで別物かもしれない。好きになんてなりたくないのに、心が引き寄せられて止まらない」

 やめてほしかった。その先の言葉を聞きたくなかった。恋を、してしまいそうだった。

 心が揺れる。感情が走り出す。加速していく。

 彼の手が、譜面台の上に置かれた楽譜に伸びる。長い指が楽譜をめくる。

「100年以上前にこの曲を作った人はさ、全部知ってたんじゃないかと思うんだ」
「全部、知ってた?」
「うん。恋が幸せなばかりじゃいられないこと。裏側にドロドロしたものがあること」

 でも、と彼は続けた。

「だからこそ、この恋の曲はこんなにもあったかくて、優しくて、幸せでいっぱいなのかもしれないね」

 何かが、心の底に落ちた気がした。

 この曲を作った人は、幸せな感情も、熱くて重くて時に痛い感情も、全部まとめて抱え込んで、誰かに恋をしたんだ。怖さも不安も背負い込んで、一心不乱に、感情の渦に身を投げて、言葉が意味をなさない膨大なエネルギーを持ったものの中に飛び込んだ。

「……先輩」
「うん?」
「どこからが恋で、どこまでが恋じゃないと思います?」

 彼は少し考える素振りを見せて、笑った。

「好きだなって思ったら、恋なのかなって考えたら、それはもう恋じゃない?」

 敵わないな、と思った。もう降参だ。とっくに憧れの範疇を超えていた感情から手を放す。感情の赴くままに任せて走り出すような気分で。それはどこか晴れやかだった。

「誰かに恋をした瞬間を明確に説明できる人は少ないと思うよ。好きになっていたことに、後から気づくだけ」

 恋を、していた。いつの間にか、知らない間に。

 そのことに、今日、気づいたんだ。

 部室のドアを開けるとき、一瞬だけ躊躇したのは、もう彼に恋していたことをどこかで知っていたからかもしれない。

 好きです、と、その言葉を心の中で唱える。言葉が隙間にぴったりと埋まる感覚がした。しょうがないな、と思う。あったかくて柔らかい感情と、熱くて重くて時に痛い感情を一緒に抱えていく覚悟をしよう。

 好きになっていたんだから、仕方がない。

「あー、なんかすごく恥ずかしい話をしてしまった気がする。忘れて」
「嫌です。SNSにあげていいですか? 先輩の今日の名言」
「やめろよマジで! やめてください! 泣くよ!」

 スマホを取り出したら、彼がこの世の終わりみたいな顔で懇願した。本当にSNSにあげるつもりはない。笑いながらスマホをしまうと、彼は安心したように深く息を吐き出した。

「先輩」
「なんですかー……」
「恋、してるんですか?」

 平静を装って尋ねた。どうせまた、いつもみたいに、ふざけた調子で誤魔化されるんだろうな、と思いながら。

 だが彼は、意表をつかれたように固まって押し黙った。

 たっぷりの間を開けて、ようやく彼の口から言葉が飛び出す。

「……内緒」

 目をそらした彼は、楽譜に視線を落としてチェロを弾き始めた。私がいくら視線を注いでも、もう彼は目線を上げなかった。その顔が少し恥ずかしそうに見えたのは、気のせいか、それともただの願望か。

 なんだその顔、可愛いな、おい。

 慌てて顔を伏せた。彼に対して可愛いなんて思った自分に驚いて、その瞬間に顔が熱くなる。暴れる心臓の鼓動が頭の中に響く。同時に、彼の音が容赦なく心に刺さる。

 やっぱり、恋なんてものは厄介だ。

 でも、好きになってしまっていたんだから、仕方がない。

 好きになっていたことに気づいてしまったから、仕方がないんだ。

 大好きな彼の音が響く中で、私もまた、チェロを弾く。

 さあ、恋を始めよう。

→②


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ありがとうございます!!!
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文章を書く人。小説家を目指しています。写真も好き。映画も漫画も好き。おふとんと紅茶は大好き。
コメント (14)
しんきろうさん、コメントありがとうございます!
悶えましたと言っていただけて感無量です…!ありがとうございます😊
初めまして、ちくわさんです。とても胸キュンです(*´ω`*)こんな気持ちの時もあったよななんて、懐かしくもあり・・・「クリエイターへのお問合せ」をさせていただいております。お読みください<(_ _)>
ちくわさんさん、コメントありがとうございます!
胸キュンと言っていただけて嬉しいです😊
メールを返信致しましたので、よろしくお願い致します。
早速、あげさせていただきました<(_ _)>
https://note.com/kfumi9/n/n75052e9ee030
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