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シミセンの幸福論―――僕にとっての小確幸  


1 小確幸ってなんのこと


 まず、小確幸の説明から始めましょう。これは、作家村上春樹の造語です。たぶん。「小さいけれど確かな幸せ」と、とても分かりやすいことばだと思いませんか。これからしばらく、このことばから思い浮かべる幸せって何だろうと考えてみようと思います。
 幸せの形というのは人によってずいぶんと違います。たとえば、自動販売機に100円玉が残っているのを見つけてラッキーと思う人もいれば、株式市場で100万円の利益を得ても何とも思わない人もいるのではないでしょうか。人間の欲って留まることを知らなくって、もっともっともうけたいとか、もっともっと上に行きたいとか思う人がいます。いまの資本主義の社会というのは、そういう人間の欲望によって回っているのかもしれません。一方で、ほどほどでいい、そんな上は目指さない、あまりリスクは抱えたくない、責任も負いたくない、というような気分を持っている人も多くなったように思います。僕もどちらかというと後者の方だと思います。皆さんはどうでしょう。皆さんにとっての幸せってどんなものでしょう。
 人によって幸せの感じ方は違うので、いろんな人の幸福論を参考にしてみようとも思い、いくらか本も読んでみましたが、やっぱり自分にとっての幸せについて書く方が楽なので、僕は楽な道を選ぶことにしました。これから、11回にわたって僕にとっての小確幸を紹介していきたいと思います。皆さんの思う幸せと似ているか、違うか、いろいろ考えながら読んでみていただけるとうれしいです。
 今回は、今後のラインナップについて紹介します。
 1つめは、ドラマを見るということ。本当に安上がりな幸せなのですが、僕が一番幸せだなあと思う瞬間は、仕事が終わって帰宅し、夕飯を食べながら、録画しておいたドラマを見ることです。笑ったり、泣いたり、考えさせられたり、号泣したり、そうやって感情を表に出せることが幸せと感じる要因かもしれません。
 次は、レコードを聴くこと。父親が生前買いためていたクラシックのLPレコードをひっぱり出してきて少しずつ聴いています。自分で買ったCDもいろいろありますが、レコードのときどきプチッという音もなかなかいいものです。いまもモーツアルトを聴きながら書いています。
 そして、読書。僕にとっての読書は人生の半分くらいを占めているのかもしれません。だって、自分で考えていることの大半は誰かが書いていたものを読んで出来上がってきたわけですから。自分でオリジナルに考え出したことなんてほとんどないわけです。本を読みながら、なるほど!とか、へえ、すてきだなあ!とか思える時間って本当に幸せです。でも、ひょっとすると本を読むこと以上に幸せな時間は、本屋さんにいる時間かもしれません。しばらく行っていないと、読みたい本がいくつも見つかって、その中からどれを買おうかと迷います。思い切って1万円以上買って帰った日などは本当に幸せな気分になりますね。
 講演会。若いころからたくさんの講演会や公開講座に参加しています。最近はオンラインでも参加できてしまうので時間がいくらあっても足りません。古くは森毅先生や梅棹忠夫先生、最近では養老孟司先生のお話を聞いて、その場で買った本にサインもしてもらいました。それから高校のときの国語の先生がご自宅で源氏物語の解説をしてくださるということで、1年ほど通っていました。
 舞台。最近は年に1回がいいところですが、芝居を見に行くのも好きです。若いころは仕事が休みの日に、マチネとソワレ、1日に2本芝居を観ることもありました。ここでもやっぱり泣いたり笑ったり感情を出すのが良いのでしょうね。若いころには、刺激を求めて、暗黒舞踏を観に行ったり、舞台に立たせてもらったりもしました。
 外食。若いころは友人と、子どもが大きくなってからはもっぱら妻と、おいしいものを食べに行くというのも幸せな時間ですね。雑誌で調べたり、今ならネットで探したり、あるいは行き当たりばったりで嗅覚にまかせてお店を見つけることもあります。最近は冒険することは減ってしまって、気に入ったお店に繰り返し食べに行っていますが、いつ行っても安心して美味しいお料理を頂ける、なんて幸せなことでしょう。
 旅行。毎年のように旅行にも行きます。子どもが小さかった頃は家族旅行で、これも楽しかったのですが、子どもたちが独立してからは、妻と2人で、何の目的もなく、ただただのんびりと過ごす時間、こんな贅沢も他にありませんね。
 仕事をしている中でもたくさん幸せと感じられる時間がありました。特に僕のように子どもたちの成長に関わる仕事をしていますと、何度も何度も幸せだなあ、と思える瞬間がありました。そういう話も紹介してみます。
 そして、僕にとってこれは小確幸ではなく、大確幸と言えるものかもしれませんが、結婚。ちょっとお恥ずかしいことですが、僕の結婚生活についても書いてみたいと思っています。家庭が幸せでなければ、おいしいものを食べても、読書をしても、何をしていても幸せとは感じられないことでしょう。
 結婚の次は子育てです。こちらは中確幸くらいでしょうか。本当言うと幸せなことばかりではなかったのですが、でも、やはり2人の子どもたちを育てていく中で、何度も何度も幸せな気分を味わうことはありました。そんな思いをお伝えします。
 最後に、老後について。これは、未来のことであり、夢でもあるかもしれません。そして、自分の両親を看取ったこと、妻の両親のこと、などについてもお話しましょう。老いていく中にもきっと幸せな時間があるはずですから。
 それでは、これから1年間、僕の幸福論にお付き合いください。そんな中で、皆さんにとっての幸福って何だろうかと考えていただけるとうれしいです。

2 ドラマを見るという小確幸


 僕は多いときで1週間に10本くらいドラマを見ることがあります。「話が混乱したりしませんか?」と聞かれることもありますが、まずそういうことはないです。1週間後、すっとその世界にもどれます。だいたいは、仕事から帰るのが夜の11時過ぎで、それからご飯を食べながら録画しておいたドラマを見ます。ちょっとくらい仕事でつらいことがあったりしても、ドラマを見ているとすっかり忘れてしまいます。笑ったり、泣いたり、感情を出せるものがいいですね。ハラハラドキドキするものとか、ミステリーのように、いろいろな伏線からその先を予測するようなものも見ることはありますが、でもやっぱり、見ていて楽しいものがいいです。それと、勧善懲悪のスカッとするドラマも好きですね。もちろん、恋愛ドラマも大好きです。年相応のものもいいし、若い人向けのものも好きです。具体的にあげていきますね。
 自分が見たドラマの中でもっとも古く、よく覚えているのは「時間ですよ」でしょうか。銭湯を舞台にしたホームドラマです。いま調べてわかったのですが、橋田壽賀子とか向田邦子が脚本を書いていたのですね。それから何と言っても、百恵ちゃんの赤いシリーズ。最高傑作は「赤い疑惑」ですね。ただ、これは悲しいお話で、最後には主人公の幸子は亡くなってしまいます。そのころから、百恵ちゃんの出すLPレコードは全部買っていました。僕が好きなドラマの原型を成すのは青春ドラマですね。「飛び出せ青春」「われら青春」そして一番は「青春ド真中」。このあたりで中村雅俊が僕の中でのヒーローでした。そして、脚本は鎌田敏夫。これまた、いま初めて知りました。最終回くらいで、中村雅俊演じるバクダン先生が落とし穴を作って、それにはまったあべ静江演じるヒロイン萌子先生を引き上げるシーンがとても印象的でした。「自分のことだけでどうしようもないことってあるじゃないですか」というセリフがいまでも頭に残っています。
 このあたりの青春ドラマとは一線を画しますが、「3年B組金八先生」は等身大で見ることができて(マッチと僕は同い年)シリーズはすべて見ていましたね。原作は小山内美江子ですね。自分が大人になってからはいろいろと考えさせられました。しかし、何と言っても有名なのは、第二シリーズで校長室に立てこもった後、警察に連れて行かれるシーンですよね。流れているのは中島みゆきの「世情」。「シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく 変わらない夢を 流れに求めて・・・」「探偵!ナイトスクープ」でも使われていて、大笑いしました。
 さて、もう少し大人になってから見たドラマの最高傑作は「男女7人夏物語・秋物語」でしょう。こちらは脚本鎌田敏夫、演出生野慈朗の名コンビです。このあたりから演出家の名前も目にするようになります。もちろん、明石家さんまと大竹しのぶの大ヒットドラマです。でも、この中で最も印象深いのは、池上季実子演じる千秋に対し、片岡鶴太郎演じる貞九郎が壁ドンをして言った「あなたにとって僕は男じゃないかもしれないけど、僕にとってあなたは女なんだ」というセリフです。永久保存版でかさばるビデオテープは残っているのですが、ビデオデッキ自体長年使っていないのでどうしたものでしょうね。でも、こうやってちょっとスマホ片手に調べながら思い出していると楽しいですね。この時間がまた僕の小確幸です。
 続いて「東京ラブストーリー」これはもう衝撃的でした。柴門ふみ原作の漫画をドラマにしたもの。最近でこそ漫画原作のドラマは多いですが、当時は珍しかったのではないでしょうか。坂元裕二脚本、永山耕三演出、日向敏文音楽いいですね。鈴木保奈美と有森也実という性格が大きく異なる2人のコントラストがとっても良かった。優柔不断なカンチ役の織田裕二。その心のゆれがなんとも切なくていい。小田和正の主題歌もドラマをより引き立てていましたね。
 このあたりから僕はドラマを見まくるようになっているので、ものすごく印象に残っているドラマというのがなくなって来ます。1つ1つの作品が軽くなってしまったという感じでしょうか。ただ、次第に原作が既にヒットしているものをドラマ化するようになって、中身はわりと濃密なものが増えたようにも思います。東野圭吾原作の「ガリレオ」あたりはずいぶん楽しめました。
こちらは漫画が原作ですが「イチケイのカラス」も好きでした。黒木華と竹ノ内豊のかけ合いもいいし、気持ちよく見ることができました。池井戸潤原作の「下町ロケット」や「陸王」などは、最終的には見ていてスカッとするので、大好きな作品でした。ただ、タイトルを調べないとパッとは出てこないというところがちょっと弱めですね。
 ということで、最近のドラマで印象に残っているものをいくつか。「だが情熱はある」良かったですね。成長物語というのはいつの時代もいいものです。いろんな葛藤がありながらも、なんとか成長していく姿はすてきです。何ともならなくて埋もれていった人もごまんといるのでしょうが。毎週大笑いしながらも、本当の幸せって何だろうかと、いろいろと考えさせられました。そして「いちばん好きな花」。こちらは、どんどん好きになるドラマでしたね。「おそろ、いろち」ってなんかいいですね。多部未華子と仲野太雅のかけ合いがむちゃくちゃ良かったです。松下洸平のおっとりした感じも好きでした。今田美桜の切ない気持ちもよく伝わりました。そして、主題歌藤井風の「花」イントロが印象的でした。「さよならマエストロ」はなぜか毎週ボロボロ泣きながら見ていましたが、「リバーサルオーケストラ」の方も僕は好きでした。門脇麦がマエストロの田中圭に見せる笑顔がとってもかわいかったですね。「春になったら」「ドンマイドンマイ、僕は好きだよ」いいセリフですよね。僕もどこかで使ってみたいなあ。「不適切にもほどがある」は考えさせられましたね。あっ、「VIVANT」は家族そろってリアルタイムで見ていました。
 これは、小説を読むのも同じですが、ドラマを見ることで、いろんな人物に自己を投影することができますよね。いろんな体験ができます。医者にもなれるし、裁判官にもなれる。三角関係の1人にもなれますしね。あったかい気持ちにも、切ない気持ちにもなれる。大笑いしたり、号泣したり、だいたい僕は感情の起伏が大きい方かもしれませんが、それがストレス解消になっているのでしょうね。だからこそ、ドラマを見ることは僕の小確幸です。

3 レコードを聴くという小確幸


 前回にも書いたように、僕が自分で買った最初のLPレコードは山口百恵だったと思います。小3だったでしょうか。ドラマを見て好きになったのがきっかけでした。その後は、しばらく映画音楽にはまっていました。「ベンジーのテーマ」が一番好きでした。吹奏楽の曲にもなっていますね。中学生になるとロックを聴くようになりました。UFOとかエアロスミスとか。レッド・ツェッペリン「天国への階段」は最高傑作ですね。中3の誕生日には複数の友だちからお祝いにとセックス・ピストルズのLPをもらって、聴きまくりました。受験前なのにね。もちろんビートルズも聴きましたよ。僕は、ジョン・レノンが好きでソロになってからのアルバムも何枚か買いました。初めて「GOD」を聴いたときは思わず涙があふれました。僕が高1のときジョンが凶弾に倒れました。その後、「ダブル・ファンタジー」を買って聴いたのですが、新品なのに針が飛ぶのです。驚きました。これはジョンの嘆きなのではないかと本気で信じていました。父親が買いためていたクラシックは、大学生のころ、実家にもどったときに初めて聴いたのだと思います。チャイコフスキーの交響曲第4番第2楽章がすぐ好きになりました。その後も、ずっと僕の一番好きな曲です。そのころ、もうすでにCDを聴き始めていましたので、レコードはほとんど聴かなくなっていました。結婚してからも、レコードプレーヤーがなかったので、これらのレコードたちはずっと実家に眠っていました。
 僕が50歳を過ぎて、両親が亡くなり、実家を引き払うことになりました。それで300枚近くあったレコードをすべて我が家に持ち帰りました。そして新たにプレーヤーやスピーカーを購入し聴き始めたのです。まずは百恵ちゃんを全部聴き直したのですが、いやあいいですね、どれもこれも。当時の思いがよみがえるのです。初めて同級生から告白された後に浮かれた気分で繰り返し聴いていたLP(L.A.BLUE)は、今聴いてもウキウキしますね。ハード・ロックとかパンク・ロックとかはちょっと自分の心拍数に合わなくなったためか聴いていると疲れます。ということで、もっぱら聴いているのは父親が買いためていたクラシックレコードです。一部SPレコードも残っているのですが、それはどうすることもできず今もベッドの下に眠っています。ベートーベン、ブルックナー、マーラーなどの交響曲は全曲そろっています。ブルックナーに0番があることも初めて知りました。ベートーベン、ブラームス、シューベルト、シューマン、チャイコフスキーなどの交響曲はCDでもずっと聴いてきました。もちろん、バッハやモーツアルト、ショパンのピアノ曲なども。でも、父親のコレクションで初めて聴いたのがブルックナーでした。まだ何番が特に好きというところまで聴き込んでいないのですが、こちらもいい曲がありますね。シベリウスとかフランクとかスクリャービンとかいろいろ聴いたことのなかった作品も聴くことができました。そして、新たに好きになったのがプロコフィエフとラベルです。まあ、「蜜蜂と遠雷」とか「のだめ」の影響もあるのですが、特にラベルのピアノ協奏曲第2楽章が素敵すぎます。美しい。第1楽章の明るく楽しい雰囲気もいいのですが、しっとりした第2楽章がいい。ピアノ協奏曲だけれど、オーボエ(たぶん)の奏でる旋律がまたいい。何度でも聴いていたい。よく見るとレコードは2枚ありました。それにCDもちゃんとありました。妻が買っていたもので僕の記憶にはありませんでした。最近、これらの別の演奏者の同じ曲を聴き比べたりしています。たいしてその差は分からないのですけどね。
 これはちょっと残念なことなのですが、我が家のレコードコレクションの中にジャズは含まれていません。ジャズは大人になってから村上春樹の影響もあって聴くようになりました。ですので、CDばかりでLPレコードは1枚も持っていません。クラシック音楽はピアノを専門にしていた妻の影響でよく聴くようになりましたが、自分で買ったもの、あるいは妻が買いためているものもすべてCDです。CDの方が音の質も良いし、途中で裏返す必要もなく最後まで聴けるので良いようにも思うのですが、レコードにはまたレコードの良さがあるのですよね。僕は、村上春樹のように、マニアックにレコードを収集したりしているわけでもないし、細かい音の違いなど分からないのですが、でも何か雰囲気の違いはあります。ときどき傷があってプチプチという音がすることもありますが、その音自体もいっしょに記憶していて、ちょっとノスタルジーに浸ることもあります。A面が終わって針が上がる音もいいし、レコードを裏返すひと手間もまたいいものですね。ちょっと休憩をしてコーヒーを一杯いただくとか。昼下がりのひととき、いいですね。だいたいの場合、僕は音楽に専念しているわけではなく、本を読みながらだったり、こうして何かを書きながらだったり(いまはマーラーの2番「復活」を聴いています。バーンシュタイン指揮、ロンドンフィルの演奏です。)ということが多いのですが、それでもちょっと気になる旋律が聞こえてくると、手を止めて聴き入ることもあります。だから、逆に本の内容が頭に入っていなかったりすることもあるわけですが。
 レコードを聴く幸せ。音楽を聴くということだったらCDでもスマホでもいいのかもしれませんが、特にレコードというときの幸せ、これは何でしょうか。ちょっと贅沢な感じがするのですね。贅沢な時間の過ごし方なのです。できれば、何かをしながらではなく、お茶やお菓子をいただきながらくらいだったらいいのですが、音楽にしっかり耳を傾ける。よく考えるとそれってとても幸せな時間なのですね。他のいろいろなこと、日常の些末な事柄、仕事のこと、人間関係、家族のことなどなど、それらを忘れて音楽に聴きほれる。今日はGW休暇の2日目。まだ5日間休みがある。ゆっくりじっくり音楽が聴ける。幸せですね。レコードを聴くこと、これもまた僕にとっての小確幸です。欲を言うとですね、妻の仕事がもう少し忙しくなくて、いっしょにゆっくり聴くことができるとさらに幸せを感じられると思うのですが、それはまだ数年先のことになりそうです。好きな人と、好きな音楽をいっしょに聴く時間、何とも幸福な時間の過ごし方だと思いませんか。次回は1人でする楽しみ、読書です。

4 読書をするという小確幸


 前回の最後に読書は1人でする楽しみと書いたのですが、読書会で、みんなでいっしょに同じ本を読んで、ああでもない、こうでもないと話し合うのも楽しいですね。他の人の読み取り方と自分との違いを発見し、考え直すこともあります。でも、やはり読書は1人で本の世界にひたりきるのがいいと思います。僕の読書の楽しみ方、そして、本屋の楽しみ方についてお話しします。
 まず、もともと僕は幼いころはほとんど本を読みませんでした。中学生くらいで少しSFの短編を読むくらいでした。もっと児童文学に触れておくべきだったと後悔したのは、30歳を過ぎたくらいでしょうか。河合隼雄なんかの本を読んでからですね。高校2年生の夏、京大前のナカニシヤ書店で、フリーマン・ダイソン著「宇宙をかき乱すべきか」を見つけて読みました。そこから、物理学者の伝記を数多く読みました。大学の合格祝いには朝永振一郎著作集全巻12冊(当時)を買ってもらい、それに読みひたったものです。それと並行してですが、高校3年生のとき、倫理社会担当だった庭田茂吉先生(当時大学院生)の「1人の作家の本を通して読むと、その人の世界が広がっておもしろいよ」ということばに導かれて、僕は安部公房の世界にひたるようになりました。最近も、初期の短編集を読みましたが、そこにはのちの作品の萌芽のようなものが垣間見えました。そして、もう1人、こちらは友人から紹介してもらった森毅です。「数学受験術指南」を最初に読みました。ここから10年くらいは出る本、出る本、買って読んでいました。森毅の授業をもぐりで聞きに行ったり、後には自分たちでやっていた勉強会に先生をお呼びして講演をしていただき、打ち上げで目の前でお話させていただいたりしたこともありました。
 大学生になると、生協の書店に顔を出すのが日課になりました。新しい本を見逃してはいけないという強迫観念があって通い続けたという感じです。そして、夏期休暇の前などに文庫本バンドセールと銘打って、5冊以上買うと5%引き(10%引き?)というのがありました。それでまとめ買いしたのが、村上龍と村上春樹と橋本治でした。それが40年ほど前の話です。その後、僕は村上春樹を読み続けることになります。小説だけではなく、ノンフィクションやエッセイも文庫になったものはすべて読み通しています。音楽やファッションをはじめ、僕の生活スタイル全般に大きな影響を受けています。トライアスロンとかオープンカーとかにはまったく興味はないのですが。
 さて、森毅から広がっていったのが、河合隼雄、河合雅雄、村上陽一郎(集中講義を受けました)、岡田節人、中村桂子などでしょうか。木村敏とか柄谷行人とか岩井克人とかもこのころから読んでいたように思います。生体物理学の講義を受けて、イリヤ・プリゴジンも何冊か読みました。1人の作家を読み通すのもおもしろいけれど、読書の数珠つなぎのように、好きな人の好きな人を好きになるとか、そうやって興味の幅が広がっていくのがまた魅力的なのです。
 20歳代はまだ独身で、好きな本を好きなだけ買って読んでいましたが、30歳代になって結婚すると、場所とお金と時間の問題があり、もっぱら新書専門の読者となっていきます。養老孟司の「バカの壁」以降、新書の種類が増えすぎてしまって、毎月毎月読みたい本が次々に出て来るので困ったものです。新書はどちらかというと雑誌に近い感じで、生もの、旬のものと言ってもいいかも知れません。ですので、やはり出たらすぐに読んでみたいわけです。村上春樹の小説は文庫になってから読めばいいのです。全然古くならないので。ということで、新書があふれかえります。そのため、最近ではなるべく普遍的なもの、時代を経ても価値のあるものを読むようにと心がけています。40歳を越えたくらいからひたすら読んできたのが梅棹忠夫です。もともと50年くらい先のことが書かれているから50年前の本を読むとちょうど今にあっているのです。そして、石牟礼道子。熊本弁にひたるのがまた気持ちいいのです。
 テレビ番組などの影響もあり、古典的な文学も読むようになりました。夏目漱石や谷崎潤一郎、三島由紀夫。これらは古本屋で見つけては買いためて、読む本がたまたまなくなったときとか、発作的に読みたくなったときとかに手を出します。電子書籍なども活用しながらドストエフスキーとかトルストイとかも読んでみました。「カラマーゾフの兄弟」が一番どっぷりつかって読んだ記憶があります。それと「細雪」でしょうか。たいがい、通勤途中に読んでいるのですが、本を閉じて10時間ほど仕事をして、帰りの電車で再び本を開く。するとすっと元の世界に戻れるのです。快感ですね。そして、特に長編小説では、終わりに近づくほど、最後が知りたいけれど、終わってしまわないでほしいという感情をもつようになります。そういうときに小さいけれど確かな幸せを感じますね。
 書店で目的の本を探していて見つかったときも幸せを感じますが、単に好みの棚を端から端まで見て回るというのもすてきな時間です。目利きの書店員がいる書店の棚というのは、ときに感動を生み出すことがあります。おお、こんなものが出ていたのか、見逃していた、となりますね。行きつけの書店がいくつかあって、そこには大好きな棚が必ずあります。そこに行けば、絶対読みたい本が見つかる。実はここ10年くらいの間にそういう棚が減ってきたのです。というか、自分の書店通いが減ってしまったのが原因かもしれません。新聞広告やSNSでの本の紹介記事を見て、手に取らずにネットで注文する。1,2日でほしいものが届きますからね。書店に足を運ばなくても。僕の小確幸が削られていくようで少しさみしいです。
 ということで、ときどき書店巡りをして楽しんでいます。何軒か見て回って、最後に読みたいと思える本に出合ったときは本当に幸せですね。本は読むときも幸せ、出合いも幸せ、そして本棚に寝かせておいても、その奥には幸せな世界があると思っただけでも幸せですね。カズオ・イシグロの未読長編があと1冊残っている。いつ読めるかウキウキしますね。村上春樹のエッセイがきっともうじき文庫になる。ワクワクしますよね。
 読書だけでなく生のお話を聞けるのも幸せです。次回は講演会についてお話します。 

5 講演会に参加するという小確幸


 僕は大学生になったころからいろいろと講演会、公開講座などに参加してきました。入学当初あまりにも頻繁に顔を出すので、ある政治団体の人たちに目をつけられ、部屋に連れて行かれてかなり勧誘されましたが、なんとかサインをせずに逃げ帰ったという経験があります。いまだに残念なのは僕が大学1年生のとき、人文学部にいらした渡辺正雄先生の最終講義があったのに気づかず、聴きに行けなかったことです。その後、僕は理学部物理学科に在籍していながら人文学部で科学思想史・科学哲学の授業やセミナーによく参加するようになりました。
 卒業後しばらくは東京で働いていたのですが、そのころには仕事の延長でイリヤ・プリゴジンの講演を聴きました。まあ、英語でほとんど中身は分からなかったのですが。
 京都の実家にもどって、理科の授業を受け持つようになってから、興味のおもむくままにあちこち足を運んでいました。1年ほど花園大学であった「禅と生命科学」というテーマの公開講座を聴きに行きました。禅の回は行かずに、生命科学の回だけでしたが。その中で最も印象的だった話は、ザリガニの耳石の実験についてでした。耳石が平衡感覚を司っているのですが、ザリガニは脱皮の際にその耳石を新しく拾って入れるということで、実験のために砂鉄を拾わせたのです。そして、磁石を近づけ動かしてみると、おっとっとと踊り出すという話でした。これは、授業ネタでよく使わせてもらいました。残念ながら講演者の名前は思い出せません。当時中3の理科を担当していて、しょっちゅう聞いてきた話を授業で楽しそうに話していました。そうしたら、ある卒業生が合格体験記に「理科って結構おもしろいと思えた」と書いてくれました。これなんかも小確幸の思い出です。
 いろいろな大学に足を運びました。京都精華大学のアッセンブリアワーが木曜日にあって、だいたい僕は木曜が休みだったので、興味がある講演者の場合はちょっと遠いのですが聴きに行っていました。そこで茂木健一郎先生の話を聴いて、その後著書を買い、その場でサインをしてもらいました。中村桂子先生の話も聴きました。中村先生は同じ月に仏教大でも聴いています。大谷大学にもよく行きました。木村敏先生や岩井克人先生。その後、がんばって貨幣論を読んだのだと思います。同志社大学田辺キャンパスでは松沢哲郎先生の講演も聴きました。チンパンジーのアイちゃんがモニターに映る数字か何かにタッチをする動画を見せてもらったのですが、それが指の背側だったのです。そこで質問の時間に僕は手を挙げてそのことを聞いてみました。先生は良く気づいてくれたと言わんばかりに、ナックルウォークと関連付けてお話くださいました。僕はけっこう大勢の前で質問したりするときは緊張するのですが、でも僕が質問したことで話がおもしろい方向に展開したりすると、とてもうれしくなります。これもまた小確幸です。
 その他、国際交流会館ですでに目を悪くされてサングラスをかけていらっしゃった梅棹忠夫先生、国際日本文化研究センターでの最終講義で河合隼雄先生の話も聴きました。掘川高校で内田樹先生が講演すると卒業生に聞いて、そのときは珍しく妻と2人で聴きに行きました。帰りにライオンでビール片手に僕がびっしり書きとったメモをもう一方の手に、ずいぶんと復習をしたおぼえがあります。京都駅の地下にあるなぜか漬物屋のスペースでサイエンスカフェが開催されました。生命科学の岡田節人先生です。抽選が当たったので、僕は大喜びで参加しました。少人数だったので質問をする機会があったのですが、そのときはうまく話せなくて残念な思いをしました。岡田先生が新聞で書かれていた「学問のファン」ということばが大好きでずっと使わせてもらっています。
 僕が最も敬愛する森毅先生には、当時僕が参加していた「子どもの育ちと教育について考える会」での講演を依頼しました。お話ももちろんおもしろかったのですが、その後の懇親会で向かい同士でお話をさせてもらえたのは望外の喜びでした。これは大確幸ですね。そのときに、人生2乗説を初めて聴かせてもらったのです。1歳まで、4歳まで、9歳まで、16歳まで、25歳までなどと平方数で人生を区切っていくという話です。20年ごとに区切るという話をすでに本に書かれていたのですが、そこからバージョンアップしたのだという話でした。
 その後、勤務先で小学校高学年向きに講演会を毎年するようになって、毎回聴きに行っていました。植物学の田中修先生のときは司会も務めさせていただきました。司会者が一番興奮して質問していたので、その次からは外されてしまいました。残念。宇宙物理学の磯部洋明さんや、佐々木貴教さんにもお話しいただきました。宇宙天気予報とか、系外惑星とか、地球外生命とか興奮して話を聴きました。その後、著書を読んだり、Twitterをフォローしたりしました。そして、もちろん池谷裕二さんの講演はここ数年毎年聴いています。何回聴いてもおもしろいのです。
 さて数年前、細見美術館で養老孟司先生が企画された展覧会の説明をして下さるということで、それがまた僕が休みの日で、もうまたまた興奮して伺いました。残念ながら声が小さくて近寄って必死にならないと聞き取れなかったのですが。でも、近くにいられただけでも幸せでした。まだ持っていなかった虫の本を2冊購入し、その場でサインをしてもらいました。YouTubeでいつも拝見していますというと、あんなの見てる人いるんですね、などとおっしゃっていました。
 コロナ以降はYouTubeが大活躍で「未来の人類研究センター」の利他学会議が楽しみの一つです。そこで、美学の伊藤亜紗さんとも出会っています。先に本は読んでいましたが政治学の中島岳志さんや、哲学の國分功一郎さんもその会議の様子で人柄がよく伝わりました。また最近はVoicyで哲学者の苫野一徳さんの話を聴き続けています。哲学や教育について学んでいます。   
 最後に、高校時代の堅田友子先生。ご自宅で源氏物語の解説をして下さるということで、合計十数回通いました。先生の文学セミナーにもできる限り参加しています。
 僕にとって講演会などはハレの場なのです。ふだんとはちょっと違う人の集まりで新たな学びがある。とっても幸せな気分になれます。次回は演劇など舞台の話です。こちらもハレですね。

6 舞台を観に行くという小確幸


 僕が最初に舞台を観たのは大学1年生から2年生になる間の春休みだったと思います。青春18きっぷを使って東京経由で京都の実家に帰ります。東京からは大垣行き鈍行夜行に乗るので、発車時刻までにずいぶん時間がありました。たまたま有楽町マリオンで舞踏の公演が連続で行なわれていました。その日は白虎社でした。僕は当日券をゲットするために並びました。何者かも全く知らずに、3000円ほど払って、どうして観ようと思ったのか、今になっては思い出せません。一番前の一番右端とかで観たと思います。邦楽と洋楽を合わせた生演奏。舞台の上には裸体を真っ黒に塗りたくった男たち、真っ白に塗りたくった女たち。棺桶から登場したのは蛭田早苗。強烈な白目。グランドピアノの上には得も言われぬ姿をした大須賀勇。もう、衝撃でした。最初に観た舞台がこれだったのです。僕はその感想をアンケートに書いて、実家の住所や電話番号を書いて帰りました。それから4か月後、夏休みに実家に帰っていた私に白虎社から電話があり、合宿参加の勧誘がありました。まあまあ暇を持て余していたので1週間参加することにしました(このときの体験記は「危ないからだ体験記」として別に記しています)。
 その後、僕は、また同じような衝撃を求めて、あちこちの小劇場を渡り歩きます。京都に帰ってきたときは扇町ミュージアムスクエア、阪急ファイブにあったオレンジルーム、そして近鉄劇場。これらはすべて当時の名前ですが、いまも新しくして、名前も変えてやっているのですね。ちょっと調べてみて分かりました。これもうれしいことです。
 さあ、そこで何を観たのでしょうか。たぶん最初は、野田秀樹率いる夢の遊眠社「走れメルス」だったと思います。近鉄劇場で当日券目当てに2時間くらい並びました。補助席みたいな感じで座り心地は悪いのですが、とにかく一番前とかで観たかったのです。いまでは何か月も前にネットで申し込んで、しかも1万円超えたりしているから、ずいぶんと変わってしまいました。まあ、ものによっては数千円で観られるものもあるのでしょうが。さて、これもなかなかの衝撃でした。舞台を所狭しと駆け回る。そしてマシンガンのように発せられることば、ことば、ことば。ことば遊びに笑い、ときに泣かされる。僕はこの舞台で芙蓉役の山下容里枝に恋をしました。いまでは、テレビドラマでちょっと嫌な感じのオバサン(失礼)役をされていますが。脚本を買って、スルメ役の段田安則(兼家も良かったですね)のセリフをそらんじたりもしていました。「小指の思い出」「半神」あとは何を観たのだったか。感想を書き残しておけば良かったのですが、当時はまだやっとワープロを使い出したぐらいでしたからね。
 東京に住んでいたときに観て回ったのは、下北沢本多劇場。スズナリには結局一度も入らなかったような気がします。青山円形劇場、新宿紀伊國屋ホール、池袋ル・ピリエ、中野テルプシコールなどなど。もう記憶があいまいです。ピリエはフランス語で柱、小さな劇場なのですが、真ん中に大きな柱があってちょっと観にくいのです。そこで僕は自転車キンクリートの「ほどける呼吸」を3バージョンすべて観ました。「嘘は言わないでね、言いたくないことがあったら言わなくてもいいから、噓は言わないでね」そのセリフだけがいまでも頭に残っています。浅草で唐十郎の紅テントが公演するというので観に行きました。先に腹ごしらえと思って入った定食屋に、あとから柄本明が入ってきて、新聞読みながら何やら食べていました。おおって思いましたね。長丁場の舞台で、途中休憩が入って、大道具さんたちがトントンカンカンと舞台をつくり直します。そして、最後の場面で後ろのテントが開き、ライトが照らされる。長ゼリフが始まる。うーん、グーッと来るんですよね。語彙が少なくて良いことばが出てきません。
 暗黒舞踏と言われるものも続けて観ていました。麿赤児率いる大駱駝艦。山海塾、五井輝、田村哲郎。中野テルプシコールで田村哲郎を観て、国立市でワークショップをやっているというチラシを見て、僕は国立市に引っ越ししました。そこで1年半ほど、稽古に参加し、表方から裏方、そして3回ほど舞台にも立たせてもらいました(このときの体験も「危ないからだ体験記」に書いています)。田村さんが客演するということで芥正彦の舞台を草月ホールに観に行きました。強烈でしたね。素っ裸の芥が宙づりで客席から登場します。舞台奥には白塗りの女性たちが何人も並んでいる。上から石膏か何かの置物が落ちて来る。大きな白い布に赤い液体が・・・もう、あまりにも刺激が強すぎて、それ以降あまり舞台を観なくなったような気がします。まあ東京を離れてしまったからなのですが。
 その後、京都の府民ホールアルティだったかで玉野黄市の舞台を観ました。これもまた衝撃的でした。前から3列目くらいだったでしょうか。僕は1時間くらいたってちょっと退屈気味に舞台上1人で踊る玉野黄市を観ていました。すると横にいた男性が突然靴下を脱ぎ始めます。暑くなったのかなあ、などと思いました。上の服も脱ぎます。ズボンも脱ぎます。えええ、と言っている間に下着まですべて脱いでしまったのです。なんだコイツ危ない奴か???と思っていたら舞台に上がっていきます。最初から仕込まれていたのです。いやあ、衝撃的でした。でも、いま思い出したのですが、学生時代を過ごした新潟でのマンションの一室のようなところでも芝居を観ましたが、そのときも客席から舞台に出て行った人がいました。後ろから出て来るとかはよくあるのですが、客だと思っていた人がというのはやっぱり驚きです。結局、なんというか、カタルシスとかいうのか、ふだん味わえない感覚を味わいに行っていたのでしょうね。それも、一種、幸せな気分になれたのだと思います。高揚するのですね。しばらく体がほてっています。
 結婚して、子どもができて、全く舞台を観に行っていませんでした。でも数年前くらいからときどきNODA・MAPなどを妻と2人で観に行くようになりました。若いころとは違って、またゆったりした気持ちで観に行くのも悪くはないですね。まあでも、「フェイクスピア」はやっぱり手に汗握る舞台でした。
 次回は、おいしいものを食べに行く話をしてみます。

7 おいしいものを食べたり飲んだりしに行くという小確幸


 おいしいものを食べると幸せな気分になりますよね。僕は学生時代、新潟に住んでいましたが、家庭教師をしていた生徒のお父様がお寿司を食べに連れて行ってくださいました。そのとき食べた甘海老が衝撃的なおいしさで、そのとき以来甘海老の大ファンになりました。
 社会人になって、東京大崎で一人暮らしをするようになって、近くの定食屋に行くようになりましたが、どれを食べてもおいしかったし、安かった。まあ、僕の口に合っていたということなのでしょうね。最初に会社の先輩たちに花見を兼ねて連れて行ってもらったのが浅草の暮れ六つというお店でした。トマトの中身をほじくり出して、中にポテトサラダが詰め込まれた料理がおいしかったとおぼえています。友人と新宿とか渋谷とか池袋とかをうろうろして、夕飯を食べて帰ることもたびたびありました。新宿でたまたま入った呑というお店だったと思いますが、そこで食べたサワーキャベツがおいしくて、家でもまねて作ったりしていました。帰りにはジョルジュサンクでおいしいコーヒーをいただいて、酔いをさましてから帰宅したものです。男女のカップルが多い中、僕たちは男同士でよく食べ歩きました。もう30年以上も前の話です。当時はまだ土曜日の午前中は仕事で、午後からはランチをどこかで食べて書店巡りをしたり、芝居を観に行ったり、その友人と会ったりしていました。新宿紀伊國屋書店の下にある洋食屋でカレーを食べたり、八重洲ブックセンターと日本橋丸善の間にある定食屋でコロッケ定食を食べたり、そういうのが記憶に残っています。そのころにキーマカレーというのを初めて食べて感動したのだと思います。おいしかったからこそ繰り返し食べに行ったのですね。
 1年半ほどで国立市に引っ越しました。そこでは、おいしいということよりも雰囲気にひかれて行ったお店がいくつかあります。そのとき初めて音楽喫茶と呼ばれるお店に入ったのだと思います。緊張しながらマーラーの何番だったかをリクエストしました。1時間以上ありますがいいですか?なんて聞かれてちょっと恥ずかしい思いをしたのでした。1人でジャズバーに入って、文庫本を片手にウイスキーのソーダ割りなんかを飲んでいました。まだハイボールなんて名前が一般に出回っていなかった時代です。味なんてほとんど分からなかったのですが、自分の姿にちょっと酔っていたのでしょうね。国立ワインの一升瓶を買って、当時出入りしていた舞踏家の田村哲郎さんの家でよく飲んでいました。このワインは本当においしくて結婚してからも何度か東京から送ってもらったりしています。
 京都太秦にあった実家にもどると、独身時代は職場の同僚と帰りに居酒屋に寄ることもたびたびありました。そのときおぼえたのがハタハタです。おいしかった。頭から丸ごと食べていました。後に僕の妻になる人と付き合い始めたころ、まだネットなんてなかった時代ですから、雑誌でおしゃれなお店をいろいろ探して、飲みに行きました。30年ほど前の話で、もう残っているお店はほとんどないのかもしれません。僕たちが結婚披露宴を行ったのが、京料理のちもとです。大工をしていた父親が改装を手掛けたりしていたつながりでお世話になりました。披露宴のときはそんなに味わえなかったのですが、後に鴨川の床が出る季節に懐石料理をいただきにうかがいました。これは間違いなくおいしいですね。一品一品手が込んでいて、どれをとっても間違いない。でも、最後の漬物が一番おいしく感じるなんてことはよくありますね。ちもとはお向かいの彩席でランチをいただいても十分おいしいです。その後、会社の年1回の研修の後なんかに、懐石料理を何度もいただきました。祇園の菊乃井本店や鳥居本、それに伏見の魚三楼、ここで飲んだ伏見のお酒が抜群においしかったのですが、銘柄を忘れてしまったのが心残りです。
 日本酒の話をしておくと、学生のころはどうせ飲んでも吐いたりしているので、もったいない話なのですが、御土地柄、越乃寒梅、八海山、久保田、北の誉などなど、おいしいお酒の名前だけは覚えたものです。ずいぶん後の話ですが、二級酒ばかり飲んでいた父親に、これがうまいからと、久保田の萬壽を買って帰ったこともありました。ちょっとパンチが足りないと感じていたかもしれませんが。僕は八海山の大吟醸が一番おいしく感じるのですが、ちょっと値が張るので、日本酒を買って飲むときは本醸造酒くらいを飲んでいます。それでも十分おいしいです。
 結婚して京田辺市に住むようになって、近くの居酒屋さまさまによく行きました。安くてうまい。それから、パスタの山田屋、もうお店はとっくの昔になくなっているのですが、いまでもその味が懐かしいです。子どもたちもつれてよく行きました。僕はそこでメンマヨの味にはまりました。スパゲッティと言えばミートソースかナポリタンかというようなレベルでしたから。
 子どもが大きくなってからは妻と2人で年に数回ですが飲みに行くことがあります。祇園ビストロの丸橋は、外見にひかれて予約もせずにたまたま入ったのですが、町屋の雰囲気が良く、何を食べてもおいしくて、その後繰り返し足を運んでいます。最初のころは進々堂のフランスパンがまるまる1本突き出しで出てきて、食べきれなかったらお持ち帰りもできるというシステムで、これが僕には大のお気に入りでした。それと、アヒージョ、残ったオリーブオイルをパンにしみ込ませて食べるとまたおいしい。それからもう1軒、最近閉じられてしまったのですが酒菜柚家。隠れ家的存在で、落ちついてお酒とお料理を味わえます。こちらのお店にもずいぶんと足を運びました。でも、何度行っても飽きないし、それほどたくさん食べるわけでもない僕たちにとってはちょうどいい量と味付けで大のお気に入りです。最近、京都在住ではない知り合いに教えてもらって行ったお店がレストランキエフ。少し世界の情勢なども考えながらおいしくいただきました。それから、たまたまランチをどこで食べようかと探していて入ったのが小川珈琲本店。ここのコーヒーもすぐにファンになりました。星野珈琲も大好きです。チーズケーキもおいしい。そう言えば近所にあったプチブーレ。生チーズケーキとシュークリームが大好物だったのですが、こちらもずいぶん前になくなりました。おいしいものを食べたり飲んだりすると、人はそのひととき幸せになれますね。これは間違いなく小確幸ですね。次回は旅をする幸せについてです。

8 旅をするという中確幸


 旅に出るとふだんの仕事のことや家庭のいろいろ、何やかやを忘れられて、幸せな気分を味わうことができます。もちろん、旅行中でも、何かの行き違いがあって嫌な思いをすることもあるにはありますが、たいがい普段よりも小言が減って子どもたちにも優しくなれるものです。それでは印象に残っている旅行をいくつかご紹介していきます。
 まずは、結婚して1年後、新婚旅行のかわりにゆっくり準備をして行ったドイツ・オーストリア音楽の旅です(「シミセンと行くウィーン・ライプツィヒ音楽の旅」として別にまとめています)。単なる観光ではなくて、ベートーベンが住んでいた家とか、シューベルトが生まれた家とか、バッハが演奏したであろう教会だとか、リストやワーグナーなども常連客だったというライプツィヒ最古の喫茶店カフェバウムだとかを訪ね歩きました。特に、シューマンの家を探していたときは単にプレートがあるだけで、何度も近くを行ったり来たりして、当時携帯電話もない中で、妻と離れて探し歩いて、見つかったときには本当にうれしかったものです。こうして目的を持って行く旅は、濃密な時間を過ごすことができます。少し疲れもしますが、旅を終えた後には、大きな充実感が得られます。
 花巻にも同じような思いで行きました。社員旅行ではあったのですが、2日目自由時間があるということで、事前に僕は宮沢賢治の文庫を4冊読んで行きました。まずは記念館を訪ねて、賢治についていろいろと学びました。その後、生家を探し歩き、また、イギリス海岸(北上川)で1人なんとも豊かな時間を過ごすことができたのです。そして、賢治も見たであろう釜淵の滝は心に残る景色でした。夜にいただいたお料理も最高においしかった。後で知ったことですが、社長と同じ旅館だったため、一番高級だったようです。
 子どもたちを連れて家族4人でもいろいろと旅行に出かけました。どこも楽しい思い出がいっぱいです。長崎はハウステンボス。馬に乗ってずいぶん長い距離を散歩したように思います。娘に買ったミッフィーのワンピースがとてもかわいくて今でも思い出されます。お土産にエッシャーのいくつかの工作物を買ってきて、うちに帰って作ったと思います。
 子どもがもう少し大きくなってから東京ディズニーリゾートにも行きました。初日は雨で大変でしたが、子どもたちにはディズニーのレインコートを買い与えて、まあそれも楽しい思い出です。あちこち待たされる時間も長かったと思いますが、子どもたちはあまり文句も言わずにテレビの画面を見たりしながらこれから起こることにワクワクしていたものです。上手に演出されていますね。
 国宝五城はすべて見て回りました。松本城に行ったときは白馬で少しだけ登山気分を味わいました。高山植物も美しかった。子どもたちは根雪にも喜んでいました。犬山城の天守閣からの眺めは絶景でした。よくあんな上に建てたものです。彦根城は近いので日帰りだったと思いますが、船にも乗って楽しみました。修理前の姫路城。僕は2回目でしたが、お城の中は迷路のようで、いまどこにいるのか分からなくなって、ハラハラワクワクしたものです。後に国宝になった松江城は大田市に妻の実家があるため、帰省を兼ねて訪れました。子どもたちもずいぶん大きくなってからでしたが、国宝五城をコンプリート出来て父は満足でした。
 長男が中学受験を終えた年には北海道知床から釧路を訪れました。大自然を満喫しました。僕たちが乗って楽しんだ船が後に事故を起こしてしまったことには心が痛みます。僕はペーパードライバーなため、運転はずっと妻に任せっぱなしでしたが、途中シカに出会っては停めて写真を撮ったりしながら南下して行きました。最も印象深かったのは野付半島にあるトドワラでした。トドマツ林が立ち枯れたものとのことですが、その景色には息をのみました。釧路湿原では季節のせいかタンチョウヅルは見つけることができず、もう蒸し暑かったことしか思い出せません。後に夏休みの自由研究で、息子と近くの公演から砂をとってきて砂嘴を作る実験をしたりしました。そういうのも旅の後の楽しい思い出です。
 長女が受験を終えた年には広島原爆ドームを見て、その後フェリーで四国に渡り道後温泉に泊まりました。温泉に入るときには家族は二手に分かれるわけですが、それもまた楽しい思い出です。僕が温泉好きなこともあって、長男はよく僕と一緒に夕方、夜、朝と1泊で3回の温泉を楽しんでくれていました。このころ、スマホをもつようになったのだと思います。写真の数が急激に増え始めます。
 家族4人での海外旅行はこれが最初で最後かと思って、ちょうど僕の両親が相次いで亡くなった年にオーストラリア・ケアンズに出かけました。もう子どもたちは2人とも大学生でしたが、久しぶりに家族4人ずっと一緒で楽しい時間を過ごすことができました。グリーンランドに渡る船がとても揺れたため、娘は船酔いをして1人ダウンしていました。他の3人は、島の小さな船に乗り換えクジラを観に行ったのですが、娘にはかわいそうなことをしました。昔からよく乗り物酔いをする子だったのです。大人になってもう大丈夫かと思っていたのですが。キュランダの熱帯雨林の中にも入って行きました。スカイレールからの眺めは爽快だったのですが、良く見える方の眼鏡に替えるのを忘れてしまっていて、後でちょっと残念な思いをしました。何よりも僕にとっての感動は、南半球で、太陽が左下に向かって沈んでいくということ、そしてそれを写真に収めたということでした。さらに、南十字星を見られたことも。もう一つ、アップサイドダウンの世界地図を購入できたことも。こういうことはすべて後の授業に生かされています。
 さて最近では妻と2人で近場のホテルでゆっくり過ごすことがあります。目的を持って旅するのもいいのですが、何の予定もなくのんびりと過ごす時間もまたいいものです。旅は日常(ケ)から離れてハレのときを楽しめます。そして、ハレがあるからこそまたケを頑張ることができます。旅は僕にとっては小ではなく中確幸と言えるでしょう。次回はそのケの中の幸せについて。

9 仕事の中の小確幸


 僕はあと半年ほどで定年退職を迎えます。進学塾で小中学生相手に理数系の教科を中心に授業をするようになったのは26歳のときで、それから約34年間、あいだに1年間だけ幼児が対象になりましたが、変わらず教育の現場で働いてきました。もともとサービス精神旺盛な方だったと思いますが、歳をとるにしたがって、からだのキレは悪くなるし、手間ひまかけることも少なくなって、生徒の皆さんには申し訳ないという思いもあります。とは言え、いろんな面で自分も成長しているので、それらが授業に活かせているのではないかとも思っています。
 そんな中、生徒や保護者の皆さんと接する中で、小確幸と呼べるような出来事が何度もありました。そのうちのいくつかを思いつくまま紹介していきましょう。やはり、受験指導をしていての最も感動する場面は合格発表の日です。鹿児島ラ・サールを受験した小6生。当時は関西の入試の前の練習として受けに行っていたのです。授業中に、たぶん家に届いた電報!をお母さんが持って来られたのでしょう。そこに合格の文字を見つけたとき、僕は本人以上に飛び上がって喜びました。本人にはそう見えたのでしょう。後に、合格体験記で「先生が自分以上に喜んでくれているのを見て、その後の受験を頑張りきることができました。」と書いてくれています。それが、相当に僕を幸せな気分にしてくれたのでしょう。30年経ったいまでも昨日のことのように思い出されます。その生徒は洛南中高から東大に進学し、いまはもう40歳も過ぎているわけですが、ずっと年賀状を送り続けてくれています。うれしい限りです。
 もう1人、合格発表の思い出を。当時、僕は最難関クラスの算数を担当し、担任をしていました。東大寺第一志望だった生徒に、統一日は灘中にチャレンジしてみないかと言いました。本人は本気になってがんばり始めました。まあ、難しい問題ほど楽しんでやっていたようでした。残念ながら先にあった東大寺の入試では頭が真っ白になってしまい不合格。そして、灘中の発表を僕は現場まで見に行ったのです。お昼の12時ジャスト。体育館の後ろに合格者の受験番号が掲示されました。やったー!あったー!と飛び上がって喜んでいて、横をふと見ると、お父様がそこにいらっしゃいました。思わず男同士で抱き合ってしまったのでした。こんなうれしい発表は、後にも先にももうありません。というのはウソです。その後も何度も何度も同じような感動を味わわせていただいております。ずいぶんと合格発表の仕方は変わってしまったのですが。
 合格発表以外でうれしい場面は、先生のおかげで算数・数学あるいは理科が好きになったと言ってもらえたときですね。そんなふうに合格体験記に書いてくれた中3生がいました。当時僕は隔週で公開講座を聴きに行っていて、そのときに仕入れたネタを授業でよく話していました。反応の薄いクラスだったのですが、体験記の中で、毎回の授業で先生がいろいろと話してくれたので、理科っておもしろいんだなあと思えました、と書いてくれていたのです。私がまだ20歳代だったころの話です。このことがその後の僕の原動力にもなっているように思います。
 「先生がいつも数学の授業で、数学はおもしろい、おもしろいって言うてたから、なんかだんだん数学っておもしろいかもと思えるようになった」と大学合格の報告に来てくれた卒業生が言ってくれました。1年浪人して、岡山の工学部に進学したとのことでした。その生徒は4年後また会いに来てくれて、パイロットになる夢があきらめきれず、航空大学校に入り直した、先生、僕が操縦する飛行機に招待するで、と言ってくれたのでした。期待して待っています。
 それから、これは少しつらいことではあるのですが、中学受験で頑張って希望する6年一貫の中高に進学したのですが、どうしてもうまく合わず、高校をどうするか迷っていると相談に来られた方も複数あります。具体的には書きませんが、いろいろな道があることをご紹介し、それぞれ悩んだ末、そのまま続けた方もいれば、他の高校を受け直された方もいます。いずれにしても、卒業されてからもずっと頼りにしていただいて、相談に来ていただけるというのが、僕にとっては本当にうれしいことなのです。
 さらに、長年指導していると、卒業生自身が親になり、自分の子育てについて相談に来てくれることもあります。こちらはこちらでまた特別な感動があります。数年前、わざわざ僕が勤務している校舎を探して電話をしてきてくれました。自分の子どもを私立の小学校に通わせるのがいいかどうかと。よくもまあ、自分の子どもの相談をするのに、小学生のころ2年ほど担当していただけの塾の先生を頼って来てくれたものです。ちょっとびっくりしたのと同時に、とっても新鮮なうれしさを味わうことができました。
 それから、単発でやった授業とか入試報告会でうれしい感想をいただくこともありました。もうずいぶん前ですが。灘中高の橋本武先生「銀の匙」仕様の理科の授業をしたことがあります。かなり仕込みにも時間をかけて臨みました。その結果でもあったので、満足したという感想を多くいただけたのは自分としてもうれしかったです。また、ここ2年入試報告会で理科の発表をさせていただきましたが、その後、先生の授業を受けてみたいとか、お母様がうちの子にも先生の授業を受けさせたいとか言って来ていただけたのは、僕にとってかなりの小確幸でしたね。
 最後にもう1人卒業生を紹介します。西京高校から慶応大学の薬学部、そして東京大学の医学系研究科に進みました。大学院では神経科学を専門にしているとのことでした。SNSを通してその様子を知りました。その彼女から「いま思えば、先生が池谷裕二先生の『進化しすぎた脳』を紹介してくださったことがそもそものはじまりです!先生のおかげでいまの私があるくらいです!ありがとうございました!」というとてもとてもうれしいことばを頂くことができたのでした。自分が日々しゃべっていることがどこでどう影響しているか分からないですね。
 こんなふうに、僕のしてきた仕事は、子どもたちの成長に、場合によっては保護者の皆さんの成長にも、大きく関わることができるものだったのです。責任重大であると同時に、とてもやりがいのある仕事なわけです。本当にいつもいつも感動の小確幸をありがとうございます!

10 結婚という大確幸


 ちょっと恥ずかしいのですが、僕たちの結婚生活についてもお話しておきましょう。結論から先に言うと、これはもう全体として僕にとっては大確幸で、小確幸のエピソードよりも、ちょっと不満に感じる出来事の方が思い出しやすいのです。意味分かりませんよね。「あばたもえくぼ」ということです。僕の数少ない恋愛経験の中なのですが、最初はあばたがえくぼに見えていたのに、あばたはやっぱりあばたにしか見えなくなるという経験を2回ほどしているのです。だから僕は恋愛には慎重にならざるを得ませんでした。ずっと好きでいるなんてことは僕にはできないのではないか。でも、いろいろドラマを見たり、話を聞いたりしていると、もともと結婚ってそういうもので、ずっと好きでいるなんてことはほとんどないのでしょうね。ところが、結婚して30年弱、僕はいまでも妻のことが大好きなのです。いまでもちょっとしたことで嫉妬をしたりします。それが自分でも不思議なんですね。どうして、ずっと好きでいられるのか、これを解明したいと思います。
 結婚って他人といっしょに生活をするわけですから、必ず何らかの価値観のぶつかり合いはあるはずです。育ってきた環境も違うでしょうし。でも、大きな部分での考え方が似通っていたり、相手の考えが許容範囲に収まっていたりしていれば何とか結婚生活を続けることが可能なのでしょう。僕は18歳で自動車の運転免許を取得した後、ずっとペーパードライバーです。妻と出会ったときも車はありませんでした。しかも僕はたいがいケチです。妻と初めて2人で旅行をしたときのこと。城崎温泉に行きました。宿泊は3階建ての木造建築、志賀直哉が泊った旅館です。そこに行くのに、30歳の僕は青春18きっぷを使って行ったのです。つまり、特急に乗らずにずっと鈍行で行った。たぶん、普通の26歳女子ならばその段階で別れていますよね。でも、そうはならなかった。2人ともとても幸せな気分になれたのです。ケーブルで山に登り、水族館に行き、玄武洞を見ました。楽しかった。旅行から戻ってしばらく経って、僕は妻に結婚してほしいと伝えました。妻は照れて、洋服たくさん買ってくれる?などと言っていました。
 村上春樹の初期エッセイに「わり食う山羊座」(「村上朝日堂 はいほー!」新潮文庫)というものがあります。ふらふらしているてんびん座の妻と堅実な山羊座の僕、普通はうまく行かないのだけれど、結婚するとわりと長持ちする、なんていうことが書いてあったと思います。結婚式に来てくれた人に渡すメッセージにこの話を書きました。当時としてはずいぶん珍しかったのだと思いますが、僕たちの結婚披露宴は手作りの自由なもので、僕がマイクを持って司会をしたり、引き出物もかなり好き勝手に選んだりしました。仲人とかも立てませんでした。まあ、双方の両親も含めて、そういうものが許される環境にあったのですね。そういうところが、大きな部分での考え方の一致になっていたのだと思います。
 結婚して数年後、第一子がお腹の中にいるときのことでした。突然妻がいなくなりました。結局一晩ホテルに泊まって帰ってきました。いまだに、そのとき妻がどういう思いだったのか僕にはわからないままです。でもきっと、僕の不用意なことばで妻を傷つけていたのだと思います。当時、妻はずっと家の中にいて、外とのつながりがほとんどなかったのです。きっと、悶々としていたことでしょう。2人の子どもが生まれて、少し大きくなってからは、自宅でピアノを教えていました。年に1回の発表会。僕もいろいろと協力しましたが、楽しかったですね。
 子どもが幼稚園や小学校に進むと、妻はPTAで活躍するようになりました。近所付き合いも多くなり、親同士の友だちもたくさんできました。ママさんたちと週1回バドミントンをしていた時期もありました。いっしょにランチに行ったり、ホームパーティを開いたり、これも楽しかった。このころ、結婚当初よりもさらに妻のことが好きになっていたように思います。
 子どもたちが中学生になると、妻はフルタイムで働くようになりました。きっと、ここからです、僕たち夫妻がさらに強固な関係を築くようになったのは。それぞれの役割分担がはっきりしてきます。僕は朝が遅く、夜も遅い仕事なので、必然的でもありますが、朝洗濯をし、夜洗濯物をたたみます。夜ドラマを見ながら食事を済ませた後、まとめて食器を食洗機に入れ、次の日の予定を見てゴミをまとめます。お茶を沸かし、炊飯器をセットします。最後にお風呂に入り、お風呂を洗います。朝、食器を棚にもどします。週1回僕だけが休みの日に、掃除機をかけ、トイレ掃除をし、自転車でスーパーに行き、食材と日用品を揃えます。そして、あまりおいしくない夕飯を作ります。妻の分担は、日々の食事つくりと朝のゴミ出しだけです。それ以外の家事のほとんどを僕がしています、と僕は思っています。
 ときどき、僕も早朝から出勤することがあり妻に洗濯を頼むことがあります。帰って来て僕はイラッとします。洗濯物ハンガーに靴下がバラバラにつるされているのです。皿洗いを頼むこともときどきあります。朝、食洗機から出そうとすると、食器がいろいろな向きにグチャッと入っているのです。ここでまたイラッとします。性分なのです。仕方ないのです。美意識の問題かもしれません。でも、そのあばたがいまでもえくぼに見えるのです。不思議なものです。
 妻はとにかく忙しいのです。ほとんど休みの日も家で仕事をしています。半分趣味のようですが。僕は休みの日はほぼ趣味に費やしています。だから、できるだけ僕ができることは僕がするようにしているのです。それだけです。それに対しての不満はほとんどないのです。ふだんは勤務時間がずれるため話すことも少ないのですが、休みの日にはたくさん話をします。いっしょにお風呂にも入ります。たくさんの愚痴を聞きます。えらそうにアドバイスもします。僕は自分の趣味の話をします。妻はあまり聞いていませんが。毎週、一緒に買い物にも行きます。半額になるのを待ってお刺身を買います。だんだんと行動パターンが似てくるのです。2人の間にあったバリアがなくなって来るようなのです。いまはそう感じています。だから僕にとってはこの結婚は大確幸だったわけです。次回は子育て、いろいろ大変なこともありましたが・・・

11 子育てという中確幸


 子育てについては、過去にシミセンの子育て入門として書いています。ここでは、いろいろと大変な思いもしてきたわけですが、それは置いておいて、幸せな気分になったエピソードのみを紹介していこうと思います。
 僕には子どもが2人います。1998年生まれの男性Aと2000年生まれの女性Kです。2人ともすでに大学を卒業し、社会に出ています。独身です。孫はまだいません。
 2人が生まれてきたとき、それはもう大確幸でしたね。障がいのあるなしに関わらず、この世に生きて出て来てくれたこと、そして、母親も元気であること、それが何よりの幸せでした。医療が発達する前の出産は本当に命がけだったわけですからね。
 Aとの思い出はたくさんありますよ。2人で近くの河川敷を何度も散歩しました。公園でキャッチボールなんかもしました。そのせいで四十肩を患いましたが。一番の感動的なエピソードは2人で嵐山に行ったことですね。まだKが小さくて、妻とKはお留守番で、僕とA2人で嵐山に向かいました。渡月橋を渡った河原でおにぎりを食べて、岩田山に登ったのです。モンキーパークがあるのです。まだ2歳半くらいだったでしょうか。どこまで登れるかと心配だったのですが、しっかり自分の足で登って行きました。途中、棒切れを拾って、それであちこち叩きながら登って行きました。その後ろ姿の写真がかわいいのです。頂上に近付くとニホンザルが顔を見せます。ブランコ付近でサルとのツーショットもあります。下りは心配で抱っこしようかとも思ったのですが、たったたったと最後まで歩いて行きました。帰りの電車ではさすがにぐったりして僕の膝の上で寝てしまったのですが、途中京都駅で新幹線を見せてやると、また目を輝かせていました。Aの成長を強く感じることのできた感動のひとときでしたね。
 Kと2人きりの思い出はほとんどありません。Kが2歳を過ぎたくらいからは、僕とAとKの3人で出かけることが多かったですね。別に妻を放ったらかしにしていたわけではなくて、日ごろの子育てから解放してゆっくりしてもらうために3人で出かけたのです。多かったのは科学館とか植物園とかですね。一番遠かったのは兵庫県三田市にある人と自然の博物館(ひとはく)でしょうか。僕はペーパードライバーのため、どこに行くのも電車やバスでした。ひとはくは河合雅雄さんがやっているというので行ったのですが、中身はすっかり忘れてしまいました。帰りの電車で、僕が真ん中に座って、両側から子どもたちがもたれかかってきます。何だかあったかい気持ちになれるのです。オキシトシン(幸せホルモンの一種)が出てくるのでしょうかね。そう言えば子どもたちがもう少し大きくなって歴史の勉強を始めたころ、高野山にも3人で行きました。こうやくんとのスリーショットもありますね。比叡山には家族4人で行ったのでした。
 図書館や本屋さんにもよく行きました。絵本などもいろいろ借りてきたり、買ってきたりして毎晩読み聞かせをしていました。とは言っても僕は帰りの時間が遅いので、ふだんは妻が、休みの日は僕が読むようにしていました。「ぐりとぐら」もよく読みました。「ぼくらのなまえはぐりとぐら このよでいちばんすきなのは おりょうりすることたべること ぐりぐらぐりぐらぐりぐらら」いまでも歌えます。僕が勝手に曲をつけたのですが。それぞれのご家庭でいろんなメロディが当てられているようですね。「はじめてのおつかい」何度も読んでいると子どもたちもだんだんセリフを覚えてきます。「ぎゅうにゅうくださーい」ここでKが大声を出すのです。かわいかったです。「ねずみくんのミニ絵本」なんかも、最初から最後まで覚えていました。文字は読めないのですがちゃんと読んでくれるのです。親バカですけどね。かわいいし、うちの子はかしこいんですね。少し大きくなってからもいろいろと読み聞かせはしました。河合隼雄さんの「泣き虫ハァちゃん」も読みました。クリスマスの件はドキドキしましたが、さすが河合先生、うまく処理していました。子どもたちもきっとドキドキしていたと思います。宮台真司の「14歳からの社会学」を読んでいて、性の問題が登場したときはドキッとしましたが、何食わぬ顔をして読み進みました。夜、風呂上り、ソファに座って両側には子どもたちを座らせて、本を読みながらいろいろな話をしたものです。楽しかったですね。でも、これって親のひとりよがりだったのでしょうか。結局子どもたちは本好きにはなってくれませんでした。でも、僕としては幸せな時間を過ごせたことは間違いないのです。きっと子どもたちにとってもそうだったと信じています。
 子どもたちは2人とも中学受験をしました。僕自身は、中学受験をして失敗しているのですが、いい経験をさせてもらったと思っていたので、自然と受験勉強を始めました。家では厳しい先生になってしまっていたと思います。厳しいだけでなく感情的な良くないタイプの先生ですね。でも、模擬テストの受験に連れて行ったときなどは、帰りに途中でお昼ご飯を食べながらテストの見直しをしたりして、わりと僕自身は楽しかったのです。子どもたちのためになっていたのかどうか、だんだんと自信がなくなってきますね。でも、最終的には2人とも思っていた中学に合格してくれました。子どもたちはすごく喜んでくれたし、僕自身発表を見たとき(2度とも僕1人で発表を見ています)、そして、僕と妻の両親に報告したときは、感動でウルウルしていました。
 それから、小中学生の間は、夏休みの自由研究や読書感想文など、かなり協力しました。というか、かなり僕が主導権をにぎってしまっていました。これが子どもたちにとって良かったのかどうか、やはり分かりませんが、僕自身は楽しかったのです。何をテーマにするか、どの本を読むかなども、だいたい僕がいくつか選んでその中から子どもたちに選ばせるようにしていました。進学先についても同じですね。結局、そうしてきたことで子どもたちの主体性が育たなくなってしまっていたのかもしれません。だんだん暗くなってきますね。
 でも、子育てを通して親が幸せだと感じていたということは子どもたちにもきっと伝わっていると思います。僕たちの子育てはうまく行ったとは言えないかもしれないし、まだ終わったとも言えないのですが、きっと親の幸せは、子どもにとっても幸せなことなのだと思います。

12 老いるという小確幸


 こうやっていろいろ考えてくると僕にとっての幸せの大半は、ほっとする穏やかな時間のようです。でもときどき、ハレ舞台というか、ふだんと違うものも欲しているようです。仕事場にも家庭にもたくさんの小確幸はあるのですが、それだけではちょっと物足りません。それ以外のコミュニティにも参加したいといつも思っています。
 年に数回ですが、高校のときの先生がされている大人塾に参加させていただいています。先日は八坂神社の近くでお話をうかがった後、おいしいお料理とお酒をいただきながら神幸祭を見学しました。源氏物語の読書会にも参加しました。2ヶ月に1回くらいのペースで2年近く通いました。自宅の近くでされている教育講演会などにも参加します。先日は、自主夜間中学の見学に行ってきました。定年退職後、ボランティアで参加させていただこうと思っています。いまはオンラインでいろいろなイベントに参加することもできるので、無料のものを見つけてはのぞいてみたりしています。読書会などにも参加してみたいのですが、何かと拘束されるのはちょっとつらいし、まあゆるいつながりがあるとうれしいのですね。
 定年退職後、同じ仕事をあと5年くらい延長することもできます。でも、僕は他にしたいことがありすぎて、もう同じ仕事は良いかなと思っています。まずは、積読している本を読みたい。そしていつか、自分がため込んだ本をきれいに並べ直したい。そしてそれらを貸し出すか、あるいは子どもたちに迷惑をかけないためにもすべて売りさばくか、何とかしたいと思っています。僕の若いころからの夢は、「こだわり本屋のオヤジ」になりたいということでした。毎月家賃を払って、ほとんど収入はないなんていうリスクはいまさら負いたくない。妻の実家が利用できないかなどといろいろ考えるわけです。本を並べるだけではなく、ビブリオバトルをしたり、各種お勉強会をしたり、お芝居の真似事をしたり、もう考えているだけでワクワクします。
 僕の父は5年ほど前に亡くなりましたが、70歳で完全にリタイアした後は、家にこもって、茅葺き屋根の民家を手始めに、五重塔や正倉院、銀閣、錦帯橋など数々の木造模型を作っていました。15年ほどの間、1年に1作品くらいのペースでした。実家に帰るたびに、進捗状況をうれしそうに話してくれていました。父は50数年大工をしていて、家に残っていた端切れを使って模型を作っていましたので、ほとんど新規に購入したものはなかったようです。まあ、幸せな老後を過ごしたわけです。その横で母はどう思っていたかは分からないのですが。
 義母はもう80歳を過ぎましたが、いまだにバレーボールをしたり、合唱に参加したりと活動的です。義父の認知症が進んできたこともあり、いろいろと不満はあるようですが。義父自身も、いまはほとんど出かけなくなっていますが、以前はビデオカメラをもって、いろいろな行事に参加、撮影し、編集したりして皆に見てもらって喜んでいたようです。歳をとってからも、いろいろと趣味があるというのは良いものです。
 50歳を過ぎたくらいからは体力がめっきり落ちたように感じます。それに逆らってと言うか、何とか維持するために、駅ではエスカレーターを使わずに階段を上ったり、毎日20回2セットスクワットをしたりしています。それでも、視力の衰えはどうしようもなく、遠くがよく見えるように眼鏡をすると近くの文字が見えない、などなど不都合は多くなります。新しいことを覚えるのが苦手になるし、昔のことも思い出せないことが多くなります。それでも歳をとるにつれて経験が増えることは確かです。いろんな人と出会ってきたし、いろんな本を読んできました。いろんな動画も見、Voicyも聴きます。その中で、自分の感じ方・考え方も変わってきました。
 若い人たちと同じ土俵で競い合っても負けてしまうことが多いでしょうが、いろんな場面で自分の経験が生かされることも多いでしょう。それに、運動会に参加しても、60歳以上は別のグループで50m走をしたりもします。それならば、また1等賞をもらえる機会も増えるのかもしれません。ちょっとどんくさいこと、格好悪いことをしたとしても、歳のせいだと言い訳もできるでしょう。歳をとること自体は決して悪いことではないように思います。
 中央値まで生きたとして、あとおよそ25年、何をして楽しみましょうか。どんな幸せが待っているでしょうか。とりあえず、あと10年くらい妻はフルタイムで働いていそうですから、僕も短時間の非常勤で小銭をかせぎながら、いままでできなかったボランティア活動などに精を出したいと思います。教育に携わるというか、子どもたちの相手をしていたいのですが、とにかく偏差値のない世界で過ごしたいと思っています。何かにしばられることなく、学ぶこと自体を楽しみたいと思います。学ぶことは楽しいということを子どもたちにも伝えていきたいと思います。場合によっては大人の人に対しても、数学も理科もこんなおもしろいことがあるのだと伝えられたらいいなと思います。
 そして、妻もリタイアして、僕も70歳を過ぎたら、できる限り2人でいろいろなところを旅してみたいと思います。できれば、数回は海外にも行ってみたい。パリには9.11があったために結局行かずじまいでした。一度は訪れて、ユトリロやロートレックあるいはショパンが過ごした街を味わってみたいのです。ギリシャにも訪れて、古代の哲学者たちが何を考えてきたのか、はたまた若いころの村上春樹がその土地でどう過ごしていたのか、そんなことに思いをはせたい。ベネチアのサンマルコ広場で音楽を聴きながらカズオ・イシグロの世界にひたってみたい。
 楽しいことはまだやってくると思います。幸せだなと思える時間もまだまだあることでしょう。ある程度の経済的なゆとりと健康面での自信は必要です。でも、まだまだこれから日常の中の小確幸、ハレ舞台での小確幸、たくさんの小さいけれど確かな幸せを味わっていきたいと思います。皆さんにとっての幸せはどんなものですか?同じように時間を過ごすのならば、幸せの感度を上げて、ちょっとしたことでも幸せと感じられる方が幸せに生きられそうな気がしますね。皆さん、ぜひ幸せな人生を歩んでいってくださいね。1年間のお付き合いありがとうございました。

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