器を選ぶ

以前はおざなりにしがちであった食というものを、自らの血や肉となるものであると理解し始めた今日この頃、その食物をあてがう器について考えてみる。

器というのは、謂わば容器であって、ここで言うところの食べ物を入れる容器という用途、本来はそれ以上でも以下でもない。アウトドアで使われるようなアルミホイルや紙で作られた器から、数万円の付加価値のあるものまで様々だ。自分で作った料理を入れる容器、すなわち家庭での食器としての器は、かなり奥が深い。コンビニエンスストアの「美味しい」食べ物はプラスチックの器に入り、意気揚々と並んでいる。くたびれてしまった日はそれをそのままレンジでチンして食卓に並べることもあるけれど、それは何故だか少し侘しく感じてしまい、せめてもの思いでプラスチックの器から手持ちの器に移し替えてみる。それだけでも少し真っ当な気分になる。逆を言えば、それが出来ない日というのは、自分が少し疲れているのだという目安にもなる。それから、それとは別に、私は実家にある家族の趣味でたらふく集められた食器たちを、自立した今の家庭で使おうという気にはならない。食器とは私にとって心や体の自立を表す。

先日購入した2品。煮物を入れるのに良いだろうと思い手に取った焼き物と、浅漬けを作るためのガラスの浅漬鉢。これらを買うとき、肉じゃがのインゲン豆や、唐辛子を纏ったきゅうりが重しの下で心地よく眠っている姿を想像する。その光景が頭に飛び込んでくるものだけを我が家に招き入れる。この過程が、私にとって物凄く甘美なものなのであり、平々凡々とした私の心を弾ませている。器を選び食卓を彩ることは、私の生活に対する自己表現であり、ままならない日々への反抗だ。

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