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web古地図散歩 丸の内・大手町1

日頃町歩きイベントとして開催している「古地図散歩に行こう!」をweb上で楽しめるようにしました。約5キロを3時間ほどで歩きながらしゃべっているものですが、文章にするととても長くなります。そこで6回に分割しました。1回目だけ無料でお読みいただけます。2回目以降は有料でのご購読となります。2~6回はそれぞれ150円、1~6すべてと配付資料が載っているマガジンは600円です。

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丸の内と大手町

みなさん、こんにちは。
今回は丸の内と大手町を歩きます。

丸の内と大手町は、今や東京を代表するオフィスビル街、しかも隣り合わせの街ですが、この2つの街には大きな違いがあります。何だと思いますか?

はい、丸の内には丸の内OLがいるけど大手町にはいない? 丸の内にはおしゃれな店がある?

え~~~、たしかにそのとおりなので間違いではありませんが、私が言おうとしたことはちょっと違います。町の成り立ちについて、丸の内と大手町には違いがあるってことなんです。

それは、丸の内は三菱がオフィスビル街として開発した町、大手町はつい最近まで官庁街だったということです。

地図1

こちらの江戸時代の地図を見てください。現在は大手門の前から始まる永代通りをはさんで南が丸の内、北が大手町なのですが、江戸時代には両方とも大名屋敷ばかりの町だったことが分かります。

地図2

大手町と丸の内を北から南、地図で見ると縦に道が突っ切っていますが、ここに大名小路と書いてありますね。そんな名前が付くほど、たくさんの大名屋敷が並んでいたんです。これらの大名屋敷は、明治時代になって明治政府に接収されました。明治政府はこれらの大名屋敷を政府の役所や、軍事施設として使っていました。

それらの場所のうち練兵場となっていた一帯が、明治23年(1890)に三菱に払い下げられました。これを三菱が近代的なオフィスビル街に作り替えたのが丸の内なんです。

一方の大手町は、そのまま政府が役所として使いつづけ、第二次世界大戦では空襲を受けて丸焼けになりましたが、それでも戦後も官庁街として使われつづけ、高度成長期に一部が民間の用地になりましたが、平成の行政改革のときにほとんどの官庁が地方へ移転して、その跡地が民間のオフィスビルとして再開発されたのが大手町なのです。

今回は前半が丸の内、後半が大手町というかたちで、2つの町の様子を見て回りましょう。

今回の配付資料

丸の内大手町配付資料_1

丸の内大手町配付資料_2

本当の丸の内

まず、現在私たちは有楽町の駅前にいて、目の前には東京交通会館が見えていますね。ここから北に向かいますが、みなさん、丸の内OLやおしゃれなお店のイメージがある丸の内、そのイメージを覆す本当の丸の内をお見せしましょう。道路を1本渡ります。はい、これが本当の丸の内・・・

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さっきの道路から北が丸の内ですから、このガード下の飲み屋街も丸の内なのです。この飲み屋街、今は昼間なので静かですが夕方から人が集まってきて、夜には大変賑わうところです。

私も勤めていたころに、ガード下の飲み屋さんには先輩に連れてきたもらったことがあります。鉄道の高架下で地代が安いせいか、安く飲める場所なんですよね。この飲み屋街ですが、始まりはさっきの東京交通会館のところにあったヤミ市なんです。

第二次大戦の空襲で、有楽町の駅前にあった東京都交通局の庁舎も大きな被害を受けまして、その周りはもともと商店を営んでいた人たちが露店を出して、ヤミ市ができあがったのです。そのヤミ市はそのまま飲み屋街に発展しまして、当時近くにあった都庁や朝日新聞、読売新聞の人たちで賑わったそうなんですね。ところが東京交通会館が建てられることになって、飲み屋さんたちは鉄道の高架下に移転したのです。こうしてできあがったのがガード下の飲み屋街なんです。

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ここは新幹線の高架下なのですが、戦争当時からあった高架は左側に見えるレンガ造りのものです。大正3年(1914)に新橋駅から北に鉄道が延びてきて、東京駅ができあがりました。ですからここに見えるレンガも、みんな大正3年のものなんです。

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それじゃレンガの高架の下をくぐって反対側へ。古いですよね。このレンガの積み方、細長いレンガの短い面だけが並んでますよね。これを小口積みっていいます。このレンガ建築の高架ですが、東日本大震災の跡に耐震基準が変更されて、補強工事が行われたんです。そのときにガード下のお店はいったんみんな退去してしまいました。以前は個人経営のようなお店が多かったのですが、工事が終わった後はチェーン店ばかりになってしまいました。

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かつての都庁

ガード沿いに歩いて行きましょう。左側に見えるのは東京国際フォーラムです。江戸時代の地図を見ますと、ここには「松平土佐守」「松平阿波守」と書いてある大名屋敷があります。「松平」と書いてありますが、本当の苗字は「松平土佐守」が山内、「松平阿波守」が蜂須賀です。豊臣秀吉の側近だった山内一豊と蜂須賀正勝の子孫の人たちが住んでいた屋敷です。

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これらの屋敷も明治政府によって役所として使われていました。しかも30年くらい前まで。東京国際フォーラムができる前、ここに何があったか覚えている人いますか?

はい、正解です。ここには東京都庁がありました。ここに大正時代に建てられた石塔と説明の看板があります。石塔には「東京府庁舎」と書いてありますね。東京府が東京都となったのは昭和18年(1943)、戦争のまっただ中でした。

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※参考:明治時代終わりころの地図東京府庁が最初に置かれたのは慶応4年(1968)9月2日のことです。場所はここではなくてもっと新橋の方、当時まだあった外堀の幸橋門の内側の大和郡山藩の柳沢家の屋敷を接収して、最初の東京府庁が設けられました。明治時代の始まりが改元だとすると、東京府ができたのは江戸時代だったのです。ちょっと意外ですね。もっとも、この6日後には改元が行われて、明治になっちゃいますけれど。

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※参考:明治時代終わりころの地図

柳沢家は5代将軍徳川綱吉の時代に権勢を振るった柳沢吉保の子孫です。柳沢家は綱吉から松平姓を与えられましたので、江戸時代の地図には「松平甲斐守」と描いてあります。

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東京国際フォーラムの場所に東京府庁が引っ越してきたのは明治27年(1994)です。この場所に新たにレンガ造りの庁舎を建てて、ここが新しい東京府庁になりました。この説明の看板にある写真がそうです。設計したのは妻木頼黄(つまきよりなか)。日本橋の意匠を設計した人です。この東京府庁の周りにもレンガ造りの建物がたくさんあったのですが、他の建物との違いは、この東京府庁だけがドイツ風建築だったことです。

東京府庁

この周辺にあった丸の内のレンガ建築群は、日本に近代建築を持ち込んだイギリス人建築家のジョサイア・コンドルと、彼から教えを受けた辰野金吾、曾禰達三といった人たちが設計したんです。

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三菱一号館美術館にあるジョサイア・コンドル像

コンドルがイギリス人ですから、彼らの設計した建物はすべてイギリス風です。その中に1つだけドイツ風だったのが、この東京府庁だったんです。

昭和18年に東京府は東京都となり、このドイツ風の庁舎が初代の東京都庁となりました。しかしその2年後には都庁は空襲で破壊されてしまい、新しい都庁舎、つまり先代の都庁ですね、これは昭和32年(1957)にできあがりました。

こうして東京都庁は平成3年(1991)の新宿移転まで、96年間もここにありました。移転した跡地は東京国際フォーラムになりました。ガラス張りの東京国際フォーラムですけど、中を見ると太田道灌像が見えますね。

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この道灌像は都庁がここあったころに最初は道路沿い、後に中庭にうつりましたけれど、都庁の敷地に置かれていたものです。

大名屋敷を分割して

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それでは東京国際フォーラムの中を突っ切って、反対側の道路まで行きましょう。江戸時代の地図を見てください。目の前にある道路が、江戸時代の大名小路です。信号を渡った向こう側は、松平相模守と書いてある屋敷がありますが、この松平も本当の苗字は池田です。鳥取藩の池田家の上屋敷の跡です。江戸幕府は有力な外様大名には松平の姓を与えていました。将軍と親戚としてあつかってやるぞっていう、いわば懐柔策ですね。

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この池田家の屋敷を田んぼの「田」のように4つに分けたのが、この道路の向こう側にある区画です。4つにわけて東西の道路と南北の道路が造られたわけですが、この南北の道路が丸の内仲通り、現在の丸の内のメインストリートになります。

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丸の内でイメージされるおしゃれなお店が並んでいるのもこの仲通りです。冬にはイルミネーションがとてもきれいです。

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仲通りのウインター・イルミネーション

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それでは仲通りから帝国劇場の方へまいります。帝国劇場は渋沢栄一らが中心となって、明治44年(1911)に建てられた劇場です。

帝国劇場

建てられた当初の帝国劇場

当時の建物は関東大震災も第二次大戦の空襲も耐え抜いて昭和39年(1964)まで使われていましたが、老朽化によって取り壊されて、現在の帝国劇場は昭和41年にできあがったものです。

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明治時代に建てられた帝国劇場で残っているのはこれだけ。舞台の上に飾られていた翁面です。この写真のステージの上のアーチ部分の装飾の中にあった翁面だけが、今ここに置かれているのです。

帝国劇場内部

帝国劇場の写真を見つけてきましたが、この写真ではどこが翁面だかよく分からないんですが、多分この辺りだと思います。

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帝国劇場って最近はすっかりジャニーズの聖地ですよね。いつ来てもジャニーズの舞台をやっているイメージです。ほらね、今日もジャニーズ。ファンの女性たちがいつも周囲でたむろしています。

地図10

お堀端に出ました。江戸城の内堀です。この内側は皇居外苑になります。あそこにお堀と石垣が途切れていて、道路が通っているところがありますが、ここは江戸時代に馬場先門があったところです。丸の内の払い下げを受けた三菱は、まずはこの馬場先門の前の道、馬場先通りの開発に着手しました。理由は皇居正門である二重橋から、まっすぐ東に延びる道だからです。

馬場先門

馬場先門

この道にレンガ造りの東京商工会議所も建てられました。この商工会議所、最初は商法会議所といっていましたが、明治11年(1878)に渋沢栄一によって築地に設立されました。馬場先通りへは、明治32年(1899)に移転してきました。

商法会議所

レンガ造りの商法会議所

現在は平成30年(2018)にできあがった二重橋スクエアの中にありますが、場所は明治時代から変わっていません。平日には入ることができますので、1階の渋沢栄一の展示を見ることができます。

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馬場先通りをはさんで商工会議所の向かいにあるのが明治生命館です。もともと三菱二号館のあった場所です。この明治生命館ですが、丸の内で唯一・・・

(2につづく)

このつづきは有料となります。2~6の各回がそれぞれ150円、ぜんぶまとめてマガジンでご購入いただくと600円です。

2では、「ここは日本か?!」と見まごうばかりの風景が明らかに。かつての丸の内を彷彿とさせる建物、現存する大名屋敷の門も登場します。
現在の地図は国土地理院webサイト、江戸時代の地図はこちずライブラリの復刻版江戸切絵図、建築物などの古写真は国立国会図書館デジタルライブラリーのものを規約に従い、あるいは許可を得て使用しています。

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東京を代表するオフィスビル街の丸の内と大手町。新しいビルばかりに見えますが、実際に歩いてみると江戸時代の武家屋敷からの発展や、明治から昭和初期にかけての近代建築の遺構などがあちこちに見ることができる面白い町です。まだ知らない丸の内と大手町を発見しに行きましょう!

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