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web版古地図散歩 本郷~茗荷谷1

【日頃町歩きイベントとして開催している「古地図散歩に行こう!」をweb上で楽しめるようにしました。約5キロを3時間ほどで歩きながらしゃべっているものですが、文章にするととても長くなります。そこで5回に分割しました。有料部分には配付資料も掲載してあります。】

※実際に町を歩く「古地図散歩に行こう!」のお申し込みはこちらから


みなさん、こんにちは。

今回の古地図散歩は、都営大江戸線の本郷三丁目駅から始まり、丸ノ内線の茗荷谷駅まで約5キロを歩きます。

このコースは文京区を歩くことになるわけですが、文京区には北側からせり出してくる台地があり、南の低地には神田川が流れているという地形をしています。

この台地の上を歩いて行くのですが、ところどころに台地の割れ目のような谷間がいくつもあるんです。たとえばこれは国土地理院のwebサイトにある色別標高図ですが、緑のところが台地、水色っぽいところが谷間です。これを見てもわかるとおり、今いる本郷三丁目の駅の近くにはYの字型をした谷間がありますし、さらに白山通りが通っている場所にも大きな谷間があります。

色別標高図本郷小石川

こうした台地と谷間からなる土地が、江戸時代より現在までどのように発展してきたのかを、今回は見て回ります。

本郷三丁目

まず本郷という地名ですが、「湯島本郷」からきていると言われています。

現在は湯島と本郷は別の地名ですが、もともとは湯島の村の中心地だったので「湯島本郷」だったのだというのです。

この本郷の地には、江戸時代には加賀100万石、日本最大の大名だった前田家の上屋敷がありました。今は春日通りの南側にいますが、この通りの北側は前田家の屋敷があった場所です。

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前田家の屋敷の跡地は、現在は東京大学になっています。それではこれから前田家の屋敷跡地に向かいますが、その前に、この付近は昭和初期ころに建てられた建物がたくさん残っています。これは関東大震災では丸焼けになったのですが、その後第二次大戦の空襲の被害が少なかったことを表しています。

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まずはこの建物、昭和4年(1929)に建てられた中央會堂です。明治23年(1890)に設立されたキリスト教の教会です。ところが、関東大震災で焼けてしまいまして、その復興期に建て直されたのが現在のこの建物になります。

中央會堂の「會」の字は、テントを表しているのだそうです。モーゼはテントに寝泊まりしながら布教活動を行ったので、教会に「會」堂と名付けたのだそうです。この建物は、国の登録有形文化財となっています。

ところでここに教会ができたのには理由があります。目の前に東京大学がありますね。日本の最高学府です。多くの学生たちがここで勉学に励んだわけですが、科学的な知識が増えると神様のことを信じなくなるわけですよ。つまりは唯物論です。それじゃいかんというわけで、キリスト教の宣教師たちが大学生たちに神の存在を知らしめるために建てたのがこの中央會堂なわけです。まあ、学問の府に殴り込みってところですかね。

中央會堂の中には幼稚園があります。この幼稚園、関東大震災後にすぐに設立されているのです。理由は地震で親を失ったり、あるいは震災後の生活の立て直しに必死で子どもの面倒を見られなくなったりした家庭がたくさんあったのです。それらの子どもたちの居場所をつくるために設立されたのが、この幼稚園なのです。

中央會堂のすぐ近くにあるさかえビルも素敵な建築です。昭和9年(1934)に建てられました。最初は薬学博士の研究所とオフィスビルを兼ねた建物でした。現在はテナントビルとなっていて、洋服屋さんや眼鏡屋さんが入っています。

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この建物、今は若草色に塗装してあって分からなくなっていますが、もともとは震災復興期に大流行したスクラッチタイルが外壁に使われています。スクラッチタイルは茶色いタイルに櫛のような針で縦にたくさんの筋を入れたものです。

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参考:2階以上がスクラッチタイルで覆われたビル

そのほかにも2階と1階の間には彫刻を入れた石材が使われていますし、屋根近くの飾りはテラコッタという陶器の一種が使われています。昭和初期のとても素敵な建物です。

さて、本郷消防署の前で春日通りを渡りましょう。消防署の隣は本富士警察署です。春日通りを南から北側に渡って西へと進むと、東京大学の門の1つがあります。春日通りに面しているので「春日門」といいます。

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レンガでできた門ですが、ここに説明がありましてね、このレンガ、実は明治40年(1907)に前田家の屋敷が洋館に建て直された、旧前田侯爵邸のころのものなのだそうです。

え?

おかしいですよね。このレンガ、どう見ても新しいですもんね。明治40年って、そんなことあるわけないじゃないですか。

あるんです!

この門のレンガの裏側を見てください。

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なんと裏側には古いレンガが! 明治時代の旧前田侯爵邸のものと思われるレンガが、ちゃんと残っているんです。


この春日門から少し歩いたところに神社があります。冨士浅間神社です。前田家の屋敷、後には東京大学の敷地内には椿山という古墳があって、この古墳、富士塚として利用されていたんだそうです。

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江戸時代には富士山そのものを信仰する富士信仰が流行りまして、ここにあった古墳も富士塚にされたのです。ただこの富士塚である椿山、東京大学が校舎を増築したときに壊されてしまいましたので、今はありません。

駒込富士神社1

参考:駒込の富士神社

駒込に富士神社という大きな富士塚の上に社殿が建っている神社がありますが、この駒込の富士神社はこの椿山にあった富士神社が前田屋敷建築にともなって移転したものともいわれていますし、椿山の富士神社から勧請して建てられたものだともいわれています。

それでもともと富士神社があった場所なので、「本富士」という地名が生まれたのです。現在は「本富士」は警察署の名前として残っているだけですが、もともと富士神社があったということで、今もこのような小さな神社が建てられています。

ところでこの神社にある一対の国旗掲揚台を見てください。1つには大正10年(1921)と書いてあります。もう一つには「南長家一同」って書いてありますね。ここは江戸時代には加賀100万石の前田家の屋敷があった場所です。日本最大の大名ですから、屋敷の中にも大勢の家臣が住んでいて、彼らが住む長屋があったわけです。

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今私たちがいる場所は、前田家の屋敷の南の方に当たりますので、ここにあった長屋を南長家といったのです。この長屋に大正時代に住んでいた人たちが寄進したのが、ここにある国旗掲揚台なのです。


配付資料はこちら

本郷~茗荷谷配付資料_1

本郷~茗荷谷配付資料_2

東京大学

次はいよいよ東京大学の方へ行きましょう。国道17号から1本東の細い道に入ります。この道は江戸時代からあった道で、江戸時代の地図にも描かれています。ここに江戸時代の前田家の遺構が残っているんです。

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石垣が見えてきましたね。この石垣、江戸時代の前田家の屋敷の石垣なのです。

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今は東京大学の塀の土台として使われています。そして2箇所あるのですが、石垣に四角い穴が開いています。

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これ、江戸時代の排水口です。この屋敷の中で使われた水が、ここから外に排出されていました。蓋がかぶせてありますが、側溝がありますよね。江戸時代にもここに側溝があって、その中に使った水を流し込んでいたのです。

ただ、そのまま水を流すと、勢いで道にまで散ってしまいますから、江戸時代にはこの排水口には布がかぶせてあって、水はその布に当たって下の排水口に落ちるようになっていました。

この石垣に沿って歩いて行くと、ここにも東京大学の門があります。懐徳門っていいます。明治40年(1907)に新築された前田家の洋館には懐徳館という名前が付けられていました。それにちなんで懐徳門です。

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前田家は明治維新後も上屋敷の南側の一部に屋敷を建てて住んでいました。その屋敷を明治40年に洋館に建て直したのですが、この懐徳館、関東大震災で甚大な被害を受けてしまいました。そして再び建て直されることになったのですが、このとき東京大学から前田家へ、大学が所有していた駒場の土地との交換が持ちかけられたのです。

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参考:駒場にある旧前田侯爵邸

こうして土地交換が行われ、現在公開されている旧前田侯爵邸は、こうして駒場に建つことになったわけです。

今も懐徳門の脇には、懐徳館の土台のレンガの塊が置かれています。

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ところで、前田家の屋敷の正門ってどういうものだかご存じですか? 赤門? 実は赤門は正門ではなかったのです。

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前田家の屋敷の正門はこの道が曲がる場所にありました。赤門の方は正式には御守殿門といって、11代将軍徳川家斉の息女である溶姫が、前田家12代目の前田斉泰の正室となって、前田屋敷の中に建てられた溶姫の屋敷の門なのです。

それでは少し歩いて赤門まで行きましょう。正門の跡から大通りに出て、右に進むと赤門です。先ほどお話しした椿山は、赤門を入って右手にあったそうです。

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江戸時代の前田家の屋敷の跡地に、明治9年(1876)に医学部の前身である東京医学校が移転してきたのが、大学となる始まりでした。今では前田屋敷の御守殿門、赤門は東京大学のシンボルになっています。そのため屋根を見ると、鬼瓦には「學」の文字が書かれています。

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この赤門、典型的な武家屋敷の門です。どこが典型的かといいますと、門扉の両側に見張り番の小屋があるのです。あとでまたお話ししますが、かつて丸の内にあり、現存する岡崎藩主本多家の門にもこのように見張り番の小屋があります。

赤坂の本多屋敷門

参考:本多家の門

赤門って、外側から見るときれいに赤く塗ってありますよね。でも、内側はそうじゃないんです。

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赤く塗ってあるのは門扉とその周囲だけ。前田家は、現在皇居東御苑にある江戸城天守台の石垣も築いていますが、御影石なのは外側だけ。内側は当時ありふれていた安山岩で造っています。どうやら前田家は見えないところにはお金をかけない家風があったようです。

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参考:江戸城天守台の石垣

この赤門、もともとはもっと奥まったところにありました。赤門は将軍の姫様を迎えたことを表す大事な門ですから、火事を警戒して門の前は道幅を広く取り、火除地にしてあったのです。門を建てるために、建設予定地の前にあった町屋を取り払うことまでしたそうです。明治36年(1903)に曳き屋によって15メートル前に出したのが、現在の赤門です。

赤門の前の道は江戸時代の中山道なのですが、向かいにお寺がありますよね。このお寺の参道には、幼きころの樋口一葉が住んでいました。一葉の著書に「桜木の宿」として出てきます。それでお寺の境内には一葉塚という塚があり、子どもの樋口一葉の像があります。

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さて、赤門が東京大学の正門ではないとすると、正門はどこでしょう? 実は中山道をもう少し北に歩いたところにあります。赤門は国の重要文化財に指定されていますが、正門も国の登録有形文化財です。

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これが東京大学の正門です。設計は伊東忠太、築地の本願寺を設計した人です。洋風の門に見えますが、形は日本古来の冠木門をモチーフにしています。冠木門の梁にあたる部分と門扉が金属でできていますが、劣化を防ぐために現在あるものはレプリカです。本物は駒場の東大に保管されているそうです。

この正門は明治45年(1912)に完成したものです。ちょうど明治天皇が亡くなられた年ですね。明治天皇の最後の行幸も、この年に東京大学に北面のでした。神宮外苑の聖徳記念絵画館にある最後の行幸の絵には、この門も描かれています。

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正門の内側は東大名物のイチョウ並木です。銀杏の葉が繁っていない季節は、奥にある安田講堂が良く見えます。この安田講堂、「安田」ってなぜ言うか知ってますか?

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参考:安田善次郎肖像写真

実は安田財閥の創始者である安田善次郎の寄付によって建てられた講堂だからなんです。安田善次郎は大金持ちだったんですが、いろいろなところに寄付をしても、それを人に話さなかったんですね。「善行は人に言うものではない」というのが信念だったそうです。

ところがそのために、生前の安田善次郎は「社会に貢献しない強欲な金持ち」と誤解されていて、そのために右翼の青年に刺し殺されてしまったんです。安田の死後、悪評の多い安田善次郎の名誉を回復するために、東京大学は講堂に「安田」の名を付けたのです。

さて、ここから東京大学を離れます。旧中山道をわたって、東大の正門の正面にある道に入ります。

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(2につづく)

このつづきは有料記事となります。2~4がそれぞれ180円、マガジンでの1~5+配付資料の一括購入でしたら600円です。ご購入をよろしくお願いします!

現在の地図は国土地理院webサイト、江戸時代の地図はこちずライブラリの復刻版江戸切絵図、人物写真は国立国会図書館デジタルライブラリーのものを規約に従い、あるいは許可を得て使用しています。

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