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“伝統とは何か”雅楽からの考察。

 日本の伝統のひとつとして「雅楽」がある。
古来、日本には特有の「神楽」「久米舞」が存在した。
のちに、5世紀頃アジア大陸より持ち込まれた音楽を模して日本で作られた「唐楽」と「高麗楽」がある。

唐楽には「管弦」と「舞楽(左舞)」があり、高麗楽には「舞楽(右舞)」がある。
その後、9〜10世紀にはそれまでのものを元に作られた「催馬楽」と「朗詠」がある。
「神楽」などは皇室祭祀で非公開で行われるため一般には観ることができない。
しかし、「唐楽」「高麗楽」などは神社仏閣やコンサートホールなどで観ることが出来る。
唐楽には「管弦」と「舞楽(左舞)」、高麗楽には「舞楽(右舞)」がある。

雅楽は「世界最古のオーケストラ」とも言われるが、この中の「管弦」の宮内庁式部職楽部演奏の際の楽器の配列は聴衆の前で西洋のオーケストラと一緒に演奏されたときに明治時代に新しく作られたものである。

元は神事であったものが、海外のものを輸入し変容し独自に発展していったのだ。

 日本は古来より大陸からの文化輸入と独自の文化をおりまぜ、新しい文化を生み出してきた。それが明治維新により大きく変化したのである。

宮内庁などの一部のひとしか観ることができないものが一般の人にも見れるようにすることによって守られていくものもある。

「日本は野蛮な国」だと思われないよう、明治政府により日本古来のものを排除し西洋化が進み「西洋のものが優れている」という風潮があった。
しかし、日本音楽研究の父と言われる田辺尚雄(1883〜1984)によって」雅楽は見直された。日本の雅楽はアジア諸国のなかでも別格であり、優れていると証明することによって衰退し廃れるのを防いだのである。

 宮内庁式部職楽部以外の雅楽には、明治以前の起源をもつものの中に平安時代にできた大阪四天王寺の舞楽がある。
これは応仁の乱により一時は廃れたが、江戸時代に復興された。しかし明治に入ると楽人たちが東京に流れたことから、再び廃れ始めた。そこで寺の住職の一人が残っている楽人や一般の人も呼び集めてまた復興し、現在まで受け継がれているのである。そのなかには、現在宮内庁にも残っていない貴重な舞楽もあり、昭和50年に重要無形民族文化材に指定された。

また、明治以降に創設されたものもある。新しく作られた神道である、天理教、黒住教、金光教などがあり、これらの宗教団体にもそれぞれ雅楽団体をもっている。岡山にある、天理教、黒住教は「吉備楽」「吉備舞」をつかう。藩の命令で新しい雅楽を作っていた岸本芳秀(1821〜1890)は完成の前に明治維新を迎えたが、やめることなく研究し完成させたのである。
また、金光教では大正時代に尾原音人(1873〜1941)により作られた「中正学」という新しい雅楽も使う。
昭和に作られた「東京楽所」「伶楽舎」は一般の雅楽家たちが演奏しているのである。

「伝統だから残さなければならない」というのではなく、「何故このような行事等が生まれこのような形になったのか」を見極める必要がある。何か問題が生じた時、今の時代に合わせて新しく生まれ変わるものもあるかもしれない。

そのとき、ただ体感するだけではなく「そのもの」がどのように起こり発展し今に至るのかを知るきっかけ作りにもなる。

新しく生まれ変わっても、何10年、何100年後にまた「古き伝統」となる可能性もあるので、しっかりと大切なことは一体何かということを見極めて進んでいく必要があると考察する。



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