渋谷区トイレ巡り その1

 先日のある朝、目が覚めたときにふっと「そうだ、便所巡りしよう」と東京トイレット巡りを思いついた。そのトイレとは渋谷区が建築家など16人に依頼してデザインされたお洒落でバリアフリーで高機能な公衆トイレである。その名も、The Tokyo Toilet。数年前から計画的に建てられていたものが先日すべて完成したと知ったので、何箇所か行ったことはあるのだが、この際だから初めてのトイレも含めて全部回ってみることにした。

 桜ももう散り終わるころで、会社の近くの目黒川は谷あいの川だからかまだかろうじてちらほらと薄い桃色の花びらが舞っていた。この週末が最後だろう。天気予報も見ずに飛び出してきたが暑くも寒くもなく散歩日和である。場所を調べてルートを決める。そうは言っても何となく東から西へ順繰りに回ってみようと見当をつけただけである。地下鉄の一日券を買って、まず最初は広尾へ向かう。
 
 広尾には以前よく来ていた。もう十年も二十年も昔のことだが、月に一度ウイスキーのテイスティング会に参加するために広尾に来ていた。その会も今はなくなってしまって、久しぶりに広尾に来てみるとなんだか懐かしい。ウイスキーの会が終わった後、散々ウイスキーを飲んだのに有志でバーに行ったことなども思い出す。
 そのバーに歩いていくには曲がりくねった坂道を登っていかなければならず、酔っぱらいにはきつかったのだが、その先に待っている美酒を思うと足取りは軽かった。でもその店は閉店してしまってもうない。その代わりと言ってはなんだが、トイレはその坂道の登り際すぐの公園の中にあった。

 公園は坂に合わせて階段状になっている。公園自体さほど大きくはないが、それにしても目立たないトイレである。調べてこなかったらここがプロジェクトの一環として建てられたトイレだとは思わないであろうごくありふれた至極真っ当な公衆便所だ。
 以前、他で見たものはどれも特徴的で奇抜な外観ばかりだったが、ここは只の箱型のトイレである。壁もドアも白を基調としていて変わったところはない。室内も白をベースにすっきりとした空間で清潔感がある、実に好ましいトイレだ。肩透かしを食った気分で近づいてよく見てみると、デザイナーである後智仁のプレートが貼ってある。やはり歴としたトーキョートイレットなのである。ううむ、これが一周回って新しいというやつか…と考えながら向こう側に半周回って驚いた。トイレの入り口の反対側の大きな壁一面が巨大なモニターになっていて映像が映し出されている。生憎日中なので何が映し出されているのかぼんやりとしか分からないが、緑色や黄色のふんわりとした光が柔らかく流れていた。奇抜や奇天烈という感じではなく、近未来的で分かりやすいコンテンポラリーアートの素敵なトイレだ。この良さはおそらく昼間だけでは全てを体感し得ないだろう。夜暗くなってからじゃないと真価を発揮しない。
 ホームページで確認すると「清潔さやパブリックアートなどを云々」と自分が感じたことが書いてあるのとともに、この光のパターンは世界人口と同じ79億通りもあるという。うむ、これは是非とももう一度夜に来てみたい。光が揺蕩うトイレ。しかもその場その時限りの光の表現。「二度と同じパターンを見ることはないでしょう」というデザイナーの言葉に、ウイスキーの会や坂の上のバーなど、もう二度と出会えない空間で過ごした日々の思いが過ぎる。

 それにしても世界の人口がいつの間に79億人になっていたのだろう。私が子どもの頃は45億人だった。そんなことを考えながら、次の目的地である恵比寿へ向かうことにした。

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