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数字で測れないものがあるということを思い出す場所

小学校高学年の頃、自分はこの世の中に不要なんじゃないかと思ったことがある。

その時は、「自分がいなくなったら運動会のかけっこで、僕の代わりにビリになる子が出てくる。少なくとも僕はその子の役に立っている。」と考え、落ち着きを取り戻すことができたのを覚えている。

誰しも、ふと「生きている意味」なんてものを考え出したり、「私って何者?」と自分のアイデンティティを見失ったりする瞬間があるのではないでしょうか。
偏差値とかKPIとか体脂肪率とか経済格差とか…今の世の中、数字で測られ、評価されることがたくさんあります。数字というのは実に便利なツールですが、ややもするとそれに囚われてしまうことがあります。

「数字で測れないものがあることを思い出すための場所」として、美術館がある…「美術館は必要か?」という前回の記事に対するコメントの中でそんなご意見がありました。

休館中の福岡市美術館の所蔵品に、叙情的な抽象画で知られるザオ・ウーキーの《僕らはまだ二人だ》という作品があります。休館中の現在は,福岡アジア美術館に展示されています。

この作品は、妻を亡くし制作意欲を失っていた作家による、再起の作品だそうです。
巨大なキャンバスに勢いのある筆致で、悲しみを乗り越えて生きようとする力強さに圧倒されます。

最愛の人を失ってもなお「生きる」ということはどういうことなのか。作品を通して、この世の中で、幾多の辛いことがあっても、それでも「生き抜く」ための勇気をもらえます。

数字という便利なツールは「生きるための道具」として、今やなくてはならないものかもしれません。しかし、アートは「生き抜くための知恵」として、古代から私たちの身近になくてはならないものだったのではないかと思うのです。

小学生の頃の私は、人生を見失いそうになったとき、自分の小さな役割を見つけて落ち着きを取り戻すことができました。大人になった私は、複雑な人間関係の中でその拠り所を探すのは、子どもの頃のように単純ではありません。けれども、子どもの頃には知らなかった「美術館」という場所を手に入れました。

まずは美術館に足を踏み入れ、何か引っかかる作品の前で足を止め、その作品の解説を読み、改めてその作品と対峙する。そんな経験を重ねることで、美術館は人生になくてはならない、大切なものになっていくのでしょう。

そんなアートファンを増やすことは、単に美術館の顧客を増やすということにとどまらず、きっと、今よりちょっとだけ豊かで幸せな人生を生きる人を増やすことにつながるのだろうと思います。
美術館で仕事をする醍醐味です。