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1movie|ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語

原作はルイザ・メイ・オルコットの小説『若草物語』(お恥ずかしながら私は未読なのですが……)。南北戦争時代に力強く生きるマーチ家の4姉妹が織りなす物語は、現在と少女時代のシーンが混ざりあって展開します。

主人公は小説家志望のジョーですが、画家志望だったエイミーはもう一つのジョーのあり方=アナザー・ジョーだったのではと思いました。
才能を活かした職に就きたかった部分は一緒ですが、夢の実現に女性性が邪魔になると考えていたジョーに対し、エイミーは何も捨てようとしなかった。ローリーへの恋心やジョーに対しての嫉妬心、才能に見切りをつけて結婚の道を選んだのも、自分がどうすれば望む人生が歩めるかを自分で決断した結果でした。愛のない結婚を選びそうになったのも、一番の人生が手に入れられないなら二番目を、と考えてのことです。

ジョーは自己実現のために男性と対等であろう=男性になろうとし、その気持ちは反発という形で表出しました。家庭を持つことに決めたメグを私が養うからと引き留め、小説を持ち込む際も女性が書いたことを伏せ、パートナーを持つことを拒んだ。望む職業に就くためには、女性ではなく男性になる必要があって、恋愛や結婚は足手まといになると考えた。女性として生きるか=結婚するか、男性として生きるか=結婚せず仕事に生きるか、その二択しかないと思い込んでいたのです。

家族がいて、気の合う友人がいて、やりたいこと、追いかけたい夢があって。そんな時代が順当に続いていき、それですべてがうまくいくと信じていたジョーですが、人々との関係性や環境は変わっていきます。メグの結婚、エイミーの打算、ベスの死。自分の書きたいものは大衆に求められず、長いものに巻かれようとすればそれを批判される。
既に構築された関係性のなかでさまざまな愛情——他者愛や自己愛、母性、家族愛——が満たされ、自分実現が成し遂げられる。そのはずだったのに、求めるものはそれぞれ違うし、自分だけ取り残されたような気持ちがして、孤独を感じてしまう。
私の世界だったものは、私だけの世界ではない。主人公である「私」という一人称の物語ではなく、登場人物の一人である「ジョー」という三人称の物語だと突きつけられるのです。

この孤独から逃れよう、愛されたいという気持ちからローリーに靡こうとしますが、それは愛ではないとママに言われ、ローリーの心もいつの間にか別の方へ向いていました。
自分の気持ちや思いをどこにぶつければいいのか。自分の方を見て欲しい、認めて欲しい。そこに現れたのが、商業的に売れる(けれど不本意な)作品を否定し、ジョーを追って田舎にやってきたフレデリックです。
意地を張って自分の気持ちを認めようとしないジョーでしたが、周囲の後押しもあり、愛を、そして夢を再び追いかけます。


冒頭から中盤までは、幼少期のギャンギャンとやかましい様子や攻撃的な部分、ドロドロした部分、非情な部分、計算高い部分など、リアリティーのある女性描写に注目していました。幼なじみに3歳違いの姉妹がいたのですが、猫のように激しく喧嘩していたのを思い出します。
舞台を現代に移しても通じるようなストーリーで、とくに「結婚は経済」というエイミーの言葉は、現代も変わらないのではと思いました。昔は女性が就くことのできる職業は限られ、結婚をすることで庇護下に置かれて守られていた。今は選択できる職業の幅は広がりましたが、まだまだ男性と同等のキャリアを築くことは難しいですし、そのために夫婦間で問題があっても離婚できないこともあるような気がしています。

クライマックスにいくにつれ、少女時代からなかなか抜け出すことができないジョーに共感していました。私は30代女性なのですが、同じ土地で生まれ育ち、同じ学び舎で学んだ同世代の人間でも、精神的な成長具合、価値観や考え方、活躍の舞台は実にさまざまです。みんな一緒だと思っていた少女時代は、いつの間にか終わりを告げ、私は私、貴方は貴方の道を歩んでいくことになります。
周囲の人たちの温かさに包まれながら、それに気付かず喪失や迷走を経験しつつも、それぞれが自分の道を見つけていく物語でした。

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