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忘れたくないことー大学を卒業するにあたって

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短大と専攻科を合わせて、4年通った大学を卒業しました。
大学生活では、ほんとうに色んなことがあって、できることなら、それらを一つひとつ書き出していきたいのですが、そうすると、とてつもない文量になってしまいます。
ですから、卒業するにあたって考えたことを、ぽつりぽつりとでも書き起こせたらという思いで、この文を書きます。
少々長くなるかと思いますので、お暇な時に読んでください。

突然ですが、私は、高校時点の進路で、美術科のある高校を選びました。
中学生の頃の私は、絵を描くことに興味がありましたし、誰よりも上手くなりたいという向上心も強かったからです。
高校に進学してからは、才能ある多くの友人たちと出会い、切磋琢磨しました。
そして、絵の技術も、かつての自分と比べると、ほんの少しだけ上がったように思います。

高校3年生になり、いよいよ受験生といった頃でしょうか、当時の担任の先生がこう尋ねてきたのを覚えています。

「なぜ、君たちは絵を描いていきたいのか?」

先生の意図としては、私たちの絵を描く目的をはっきりさせることで、厳しい美大受験を勝ち抜けるようにするためだっただろうと想像できます。
しかし、当時の私は、なんとなく上手くなりたいからかなぁぐらいの、呑気な感想しか持ち合わせていませんでした。
今思えば、そんなこと考えたくないという逃げだったのかもしれません。
とにかく、私はこの質問に、明確に答えることができませんでした。

大学生活に話を戻しましょう。
私は、大分で過ごしたこの4年間で、色んな人や場所と出会いました。
大学の講義で、制作場所で、バイト先で、お気に入りの喫茶店で、ぼんやりと散歩している途中で、それはそれは、多くの体験をしました。
そして、それらを「忘れたくない」とも思いました。
きっと、他人から見たら、なんの変哲もない生活だったかもしれません。
それでも、私は自分の生きていた時間をより良く「解釈」したかった。

そういう意味で、絵を描くことは、上手い下手以前に、自分がこの世界をどのように見ているか(もしくは、見たいのか)という「解釈」の手段に過ぎないのかもしれません。
ほんとうは、意味なんてないかもしれない世界に、自分の「解釈」を加えることで、何らかの意味が浮かびあがってくることに、私は希望を感じます。
友達と過ごした時間、美しいと感じた風景、美味しかった料理、それらは確実に過ぎ去ってしまうけれど、絵にだったら残しておけます。
残しておけば、いつだってそこに行けるし、忘れることもありません。
苦しいときも、悲しいときもへっちゃらです。
だって、大好きな人やものに、いつでも会えるんですから。

「なぜ、君たちは絵を描いていきたいのか?」

今、この質問に答えるならば、「自分の生きている世界が、自分にとってかけがえのない愛しいものだと忘れたくないから」です。
この答えにたどり着くまで、ひどく時間がかかってしまいました。
それでも、なんとかここまで来れたのは、私の周りの人たちが、それぞれのやり方で、私のことを「解釈」してくれたからだと思います。
もっといえば、私の家族や友達が、私のことを意味のある存在として認識し、必要としてくれたからです。
そのことに気付いた瞬間、私はなんて幸せ者だろうかと思わずにいられませんでした。

4月からの私は、福岡の会社に就職します。
社会人になれば、社会の大きな流れに、身を任せるしかないときもあるでしょう。
そんなとき、ふと大学時代の自分が描いた絵が、目に入ったら。
私は、きっと大分で大好きだった人やもののことを思い出します。
また、絵も描きます。
そうやって、私は自分で自分のことを「祝う」ことができます。あっても無くてもいいような一日を、あらねばならない一日にできます。
だから、絵を描けて良かった。ほんとうにそう思います。
それだけでは、ほんの少し、しんどくなってしまったときは、周囲の人たちにもさまざまなかたちで「祝って」もらうこともあるかもしれません。
話を聞いてくれる人や、「大丈夫」と声をかけてくれる人もいるでしょう。
それが、どれだけありがたいことかを、私は知っています。 

二十二年という短いようで、長い時間を、そしてこれから生きるであろう数十年間を、これからもより良く「解釈」していけたらいいなと思っています。

長くなりましたが、最後まで、私の考えていることを読んでくださり、ありがとうございました。
それでは、また。

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