満ち足りる
満ち足りる、という言葉があるが満ち足りると感じる時はどんな時なのか。好きな人と触れ合う時、美味しいものを食べた時、給料が多かった時、趣味を楽しんだ時、身体や精神が満足した時だろうけど完全に満足して満ち足りたと感じることは人生であるのだろうか。次の日起きたら満ち足りて溢れそうだった何かはどこへ流れていってしまうのか。なぜ幸福感というのは持続しないのか。幸不幸のバランスはよくできていると、悪いことがあったら良いこともあると皆口を揃えていうけれど果たして本当にそうなのか。これを言い出した人間は案外的を得ていて人間というのはバランス良く波があるので実際はそんなものだろう。不幸の割合の方が多いよと嘆く人をよく見かけるけどそれはそうで、不幸でいる方が楽な事を知っている。不幸の楽さを知りそこに胡座をかいたら絶対に良くないが不幸とは楽だ。幸せを維持することの難しさを感じている私自信も不幸でいたいと心の隅で思っているのかもしれない。卑しい人間である。
私が抱く疑問はいつだって正解がないものばかりで生産性の有無を問われたら首を傾げる。しかしまあ疑問を抱き続けること、思考を巡らせることはきっと辞められない。思考を巡らせることは血が流れるより早く、そして私の血肉に繋がっている。それこそが"満ち足りる"に近い道だと薄っすらと考えたりもする。答えは出ていないが。昨年は自身がどういう人間で在りたくてどういう人間で在りたくないのかという答えに少し近付けた気がする。それは私の努力ではなく周りの環境、周りにいる素敵な人間のおかげでこれっぽちも私が凄いとは思っていない。すこぶる運がいいのだろう。そんな環境や人間関係に感謝をしてるしし続けなければならない。頭が上がらない。満ち足りるというのがコップに水を注ぐという例えに取るとするならいつだって注いでくれていたのは大切な友人たちだろう。私は自分で注ぐのが下手なので半分くらい溢す。それを上手に入れられるようになったら満ち足りたと感じるのだろうか。ここまで満ち足りるとはなんなのかと思考を言語化しているわけだがなんというかあんまり腑に落ちていない。満ち足りたいという浅慮すぎる欲は良くないのかもしれない。満ち足りるというのはどういうことなのか他者の意見もききたい。
ここまで言語化してふと気付いたが私は"満ち足りる"というものより"少しだけ満ち足りない"と感じる人生の方がよっぽ魅力的だと感じている。