怒った彼女
太郎が電車内に駆け込むと、背後でドアが閉まった。
今日のデートは絶対に遅刻が許されない。もしも家を出るのがあと30秒遅ければと思うと、太郎は股間が縮み上がるような気分になるのだった。
新宿駅では、愛しのユリちゃんが頬を膨らませながら待っているはずである。もしかすると、そんな可愛いものでは済まず、野菜室の中の腐ったキュウリを見るような、不快そうな眼差しを向けられるかもしれない。
いずれにしても、その時の太郎のセリフは決まっている。
「大変、申し訳ございませんでした! ユリちゃんがいるにもかかわらず、僕は女の子のいる飲み会でオールをしてしまいました! ホテル? いえ、断じて行っておりません! カラオケです! あれは絶対にカラオケです! 無宗教ですが、神に誓ってしまうくらい確かです! 舌でもなんでも噛み切らせていただきます! ですのでどうか去勢だけは、去勢だけは勘弁してくださいまし!」
炎天下の中でチャリを漕いで吹き出た汗が、冷房によって冷やされていく。日曜日の昼前ということもあって、自分も含め、立っている乗客が点在している。
「着いたらパフェ食べにいきたい」
ドア口近くのつり革に掴まりながらスマホを開くと、ユリちゃんからそんなメッセージが届いていた。
「パフェ? お昼ご飯はどうするの?」
太郎はそう返信した。
「もちろんお昼も食べるよ。ステーキ」
「ちょ、ちょっと食いすぎじゃないかな」
「食べるよ。『ワルツ』って店にあるマスカットのが話題なの。あたし行き方わかんないから調べといて」
調べてみると、新宿には同名の喫茶店が複数あった。ユリちゃんの言っている店が分からなければ、破局もあり得る。死に物狂いでさらに10分ほど調べると、やっとあたりがついた。太郎はふっと息をついた。
ユリちゃんの連絡は絶えなかった。ドラクエの呪文のような名前の服屋が羅列され、気づけば太郎はワンピースとポーチを買うことになっている。明日の朝食は煎餅と麦茶である。そして大学の昼食はグミにしよう。
太郎はドア口に近い、一番端の席の前に立っている。到着まであと30分ほどかかるため、できれば座りたい。目の前で爆睡しているオヤジに念じてみたが、降りる様子はない。
泣き声が聞こえたので振り返ると、ベビーカーを押した母親が車内に乗り込んできていた。ドアのプシューと鳴る音やアナウンスの声がうるさいらしく、1歳くらいの赤ん坊は「はらぺこあおむし」の人形を母親の顔に叩きつけている。
電車を揺らすような泣き声にも、オヤジは眠りこけたままだ。
そのオヤジの目が開いたのは、赤ん坊が乗ってきた次の駅に停車している時のことだった。
「ドアが閉まります。駆け込み乗車はご遠慮ください」
オヤジは周囲を見渡し、やべっ、と呟いて席を立った。太郎の目の前の銀色のポールを掴み、それを軸にして弧を描き、まるで室伏広治に投げられたハンマーのような軌道で、電車から下車というよりも射出されていった。この間、太郎の手に握られていたはずのスマホは宙を舞っている。オヤジの肩が手首に当たったのだ。
太郎はスマホを取ろうとしたが、その手は空をかいた。反射的に脚を出す。足の甲に落ちると思ったそれはやや前方にずれ、つま先で蹴り飛ばしてしまった。
スマホが車内で跳ねる。もう一度跳ねる。さらにもう一度跳ねることは叶わず、プラットホームと車体の数センチの隙間に吸い込まれていった。
「あっ」
太郎が言葉にできたのはそれだけだった。ドアは無慈悲に閉まり、外の景色が流れていった。周囲を見渡すが、誰も何も言わない。どうやらスマホの墜落の一部始終を目にしたのは自分だけのようだ。
「アヒャ、ウー、アヒャヒャ」
振り返るとベビーカーの中で赤ん坊が笑っていた。さっきまでの大泣きが嘘のように。
遅刻だ、破局だ、遅刻だ、破局だ。太郎は先ほどまでとは反対方向の電車に乗りながら心の中でそう呟いていた。遅刻の旨を伝える手段は今、線路に敷かれた熱々の石の上にある。新宿に到着した太郎を迎えるユリちゃんの顔が浮かぶ。僕は腐ったキュウリ。僕は腐ったキュウリ。
腐ったキュウリが2年ほど使っていたスマホは、ゾウの寝床の下敷きになった線香くらい粉々に割れていた。
「しょ、処分しておきましょうか?」
懸命に拾ってくれた真面目そうな駅員もそう言う始末である。
電子決済サービスというものも、考えようである。交通系ICもクレジットもすべてあの「く」の字に曲がったスマホの中に入っていたのだ。この時点で今日のデートは頓挫である。ただ、往復の交通費くらいなら現金で持っている。せめて今回の「女の子とホテ……違う違うカラオケでオールしちゃった事件」に終止符を打たなくては男が廃る。
「ちょっと何? どこいんのあんた」
往復の電車賃を抜くと、実質40円しか所持金のない太郎は、公衆電話ボックスの中でユリちゃんにそう怒鳴られた。
「きょ、去勢だけは勘弁して!」
軽いパニック状態にある太郎は気づけばそんなことを言っていた。
「は? 何言ってんの」
「19年間大切にしてきた我が子なんだ!」
「気持ち悪い。あんたどっからかけてんのよ」
太郎は通話が途切れないように十円玉を追加しながら、事の顛末を語った。最後に所持金がほとんどないことを恐る恐る告げる。
「もう、知らない」
そう言い捨てて、通話がプツリと切れた。これ以上使える金はない。とにかく面と向かって謝らなくては。
再び乗った新宿行きの電車は、座席にありつけるくらいには空いていた。さて、スマホがないというのも退屈である。ユリちゃんに謝罪文を送るどころか、時刻を確認することさえできない。必然的に、今の自分には何もできないと悟り、仏のような顔で眠ることになる。
太郎の通う大学の最寄りは、今乗っている路線の新宿より手前の駅である。だから、アナウンスで聞き慣れた駅名が流れたとき、反射的に目が覚めてしまっても無理はなかった。
太郎は涙と少しの目ヤニでぼやけた視界の中で、ドアの上部の電光板に流れる駅名を見た。今日は月曜日である、という誤った認識が頭をかすめる。
「やべっ」
太郎は座席から素早く立ち上がり、電車から降りようとした。その時、寝起きで足元がふらついたからか、太郎の肩は、ドア横で壁にもたれかかる男子高校生の腕に当たってしまった。
「あっ」
二人の声が重なる。高校生が持っていたスマホは一度も床にバウンドすることなく、プラットホームと電車の隙間に落ちてしまった。すかさずドアが閉まる。
太郎はしばらく高校生と見つめ合った後、深々と頭を下げて謝罪した。被害者と加害者、両方をコンプリートした瞬間だった。
次の駅で高校生とともに降り、反対方向へ向かう電車に乗ると、車内には気まずい空気が流れた。バキバキに割れた自身のスマホが脳裏によぎったが、駅員が引き上げた高校生のスマホは無傷だった。無罪放免されたという気持ちと、なぜ自分のスマホだけがあんなにもひどい仕打ちを受けるのかという気持ちがない交ぜになっていた。
「あの……三十円だけ貸していただけますか……?」
多少のいらつきがあったからこそ、ある種被害者である高校生にこんな図々しいお願いができたのだと思う。
「ねえ、いつになったら着くわけ?」
電話口でユリちゃんがまた怒鳴る。30分ほど前に聞いたばかりである。もう知らない、先ほどユリちゃんはそう言い捨ててみせたが、依然として太郎を待っているところをみると、少しだけ安心するのだった。
「いや、だからその、高校生のスマホを吹き飛ばしちゃってさ」
「ホントに知らないよ。バイバイ、もうかけてこないでいいから」
通話が切れた。
僕はめげずにホームに降り立った。新宿に程近い駅なので、電車を待つ客は多い。
暑そうにうちわを振るおばあさん、休日だがスーツを身につけた男性、中学のジャージを着けたサッカー部らしき集団。
新宿行きの電車がホームを駆け抜けて行く。減速が始まったと思った時、目の前のおばあさんがたたらを踏み始めた。扇いでいたはずのうちわが地面にポトリと落ちる。仰向けに倒れたところを、太郎はなんとか受け止めたのだった。
おばあさんの顔はこれでもかというくらい火照っていた。太郎はイケメンではないため惚れられたわけではないようだと、一瞬であたりをつける。真夏の太陽が燦々と照り付けている。典型的な熱中症らしかった。隣にいたスーツの男性は駅員を呼びに行った。周囲がざわざわとうねる。
「大丈夫ですか? 返事できますか?」
おばあさんは唸るだけで正確な言葉を発することがない。やがて咳き込み始め、何かがスポンと口から出てきた。
飛んで行った方向に目を向けると、そこには入れ歯が落ちていた。部分的な可愛いものではなく、模型のような全入れ歯だった。
「い……いれ……ば、いれ、ば」
電車がホームに停車し、ドアが開く音がした。太郎は入れ歯を拾おうと手を伸ばしたが、ドア口に向かって進む乗客の足に蹴飛ばされた。
「ちょっと、あ」
入れ歯はコロコロと転がると、サッカー部の集団の中に入っていった。ドア口へと進む彼らの1人が入れ歯をドリブルし、他の子との間で緻密なパスが展開され、先頭にいた長身の子によって、電車内にシュートが決まってしまった。
車内にポツンと入れ歯が置かれている構図というのも、なかなかの見ものである。風刺画なのか風刺画じゃないのかよく分からないその光景に、困惑し始めた乗客が騒ぐ。
「そ、そこの入れ歯! 取っていただけますか!」
間違いなく太郎の人生で初めて発した言葉であろう。
太郎はおばあさんと一緒に救急車に乗り込んだ。太郎はただの目撃者であるため、おばあさんだけ乗り込むのが普通だろう。しかし、太郎はおばあさんを受け止めた衝撃で手首を捻っていた。
「軽い捻挫ですね」
医師にそう言われ、きつめの包帯で手首を固定されると、太郎は診察室から追い出された。
おばあさんも症状は軽度だったらしく、車椅子に乗りながら点滴を受けている。
「ありがとうねぇ、私死んじゃうとこだったわぁ」
そんなことを言いながらケラケラと笑っている。こちとら可愛い彼女と破局だわい、と思ったが、それはおくびにも出さずに頷いた。代わりに、公衆電話代を要求してみた。
「かけてくるなって言ったでしょ」
「ユリちゃん、今どこにいるの、帰っちゃった?」
「こっちのセリフよ」
すでに太郎は2時間以上遅刻している。
「まだいるの? 新宿に?」
怒ったように通話がぶちりと途切れた。
「お友達かい?」
太郎が待合室の椅子に腰掛けてうなだれていると、おばあさんがそう話しかけてきた。
「ええ、まあ、彼女です」
「あら。何かご予定があったの?」
太郎は頷いた。悪かったねぇ、とおばあさんはあくまで笑いながら言う。
「もう2時間も遅れてしまったんです。今から行っても、合わせる顔がない」
「でも待ってくれているんでしょう? いい彼女さんじゃないの」
「彼女、怒ってるんですよ。遅刻じゃない別のことで。それを謝りにいくためのデートだったのに、遅刻の罪も重ねてしまって」
太郎は不思議と口が止まらなかった。最寄りからはるか離れた土地で倒れたおばあさんなど、もう2度と会わないかもしれない。そういう匿名的な要素が、太郎のやるせなさを自虐的に語らせていた。
「カラオケで女の子とオールしてしまったんです。飲み会の帰りに」
「オール?」
「徹夜のことです」
おばあさんは大口を開けて笑った。
「私も若い頃はおでんばだったわよ。可愛いものじゃないの」
「そうですかね」
「彼女さんはそれだけで怒ってるのかい。あなた、よっぽど愛されてるね」
「彼女、僕が他の子と一夜の関係になったんじゃないかって疑ってるんです」
おばあさんは神妙そうに頷いた。
「でも、あなたはそういうことはしてないんだろう?」
「ええ、もちろんです」
「じゃあ、そう言えばいいんじゃないのかね、彼女さんに」
「信じてもらえるとも思えません」
「彼女さんはもしかしたら、女の子とのことより、あなたが彼女さんを、どこか信じない気持ちが嫌なんじゃないのかね」
太郎は面食らった。
「本当に呆れていたら、デートだなんて行きたいと思わないんじゃないのかね。会ったこともない彼女さんだけれど、きっとあなたの思っているより、ずっと寛容な方な気がするねぇ」
そう言っておばあさんはデパートに売っていそうな小さなリュックの中から、財布を取り出し、一万円札を差し出してきた。
「命の恩人に向かって、ちょっと生意気を言ってしまったかね。本当に助かったよ。その優しい彼女さんと、美味しいものでも食べてちょうだい」
太郎が懸命に拾ったおばあさんの入れ歯が、キラリと光った。
ほとんど3時間遅れで新宿に辿り着くと、改札の出口で周囲を見渡した。
柱の影に半身を隠しているユリちゃんは、黒いワンピースを着ていた。
すぐに向こうも太郎に気づき、膨れっ面をしてみせた。腐ったキュウリを見るような反応を予想していたため、ユリちゃんの反応はとても可愛く映った。そして用意していたセリフを口にする。
「大変、申し訳ございませんでした! ユリちゃんがいるにもかかわらず、僕は女の子のいる飲み会でオールを——」
「いいから、行くよ」
ユリちゃんは太郎のセリフを遮り、軽く額にデコピンをかました。
「あんたがその日会ったばっかりの女の子と寝れるわけないでしょ、バカ太郎」
すでにユリちゃんは歩き出している。
太郎はその背中を急いで追った。
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