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飽和する資本主義 /巻き込まれる暮らし

飽和する資本主義

資本主義経済が飽和しかかっているとも感じていたのはちょうどコロナ流行の兆しの3ヶ月ほど前。

私が住む札幌では個人が所有していた不動産はその個人高齢化に伴い、デベロッパーが買いあさり、市内中心部はとりあえずホテルが乱立するのだそうだ。大きな会社が抱える資産を増やすのは、資本主義としては正しい。

でもいったんフッと力を抜いて、視点を日本経済全体で俯瞰するとこから、もっと小さく移動させよう。そうすると、個人や中小規模の企業の経済活動が制限及び画一化、浸食されつつあることに気がつく。

大きなものに巻かれている。そんな印象を覚える。

資本主義企業は、社長からアルバイトまでみんなが仕事を手早くこなすことが求められている。日々の仕事内容もみんな大体同じで、一定のリズムで効率的に単調に利益を生み出す。
結果、できる限りの最大限の利益を出してみんなに給与が支払われて各個人が買い物や商いをして経済は回っていく。

しかし、私は心配している。

効率さを求める経済の動きは社会にも染み出していて、暮らしの中でも効率化が普通になってきてしまっているからだ。


暮らしに侵食する効率の価値観

「家事は時短がいい」
「スマホ一つで写真撮影からゲーム、買い物、調べ物」

生活の一部までもファストな価値観が広まっている。
提供される暮らし系サービスも、「家事や暮らしを効率化して自分や家族の自由時間を増やそう」的なものが多い。

しかし、それにより生まれた自由時間でさえスマホでゲームをしたりyoutubeをみたり、一見効率的ではないけど、実はとても簡易的に手に取れる遊びに興じるのだから、効率により生まれた時間を効率で消費してしまっており、本末転倒であある。

"暮らしが効率に侵食されている。"

仕事が効率的なのは素晴らしいことだし、わい雑な業務を簡易的にして誰でも対応できるようにしておくことは、企業にとって必要なことだ。

でも、私たちの暮らしまでもがそうなってしまうのは、いささか面白味がない。暮らしは経済に紐づいているが、だからと言って価値観や文化をそこに合わせる必要はない。

効率化で変わる心象風景

誰しもが抱く心象風景が、効率の価値観により奪われて、youtubeやゲームアプリにすり替わっていく。時間をかけることが「悪」とされ、暮らしから排除されていく。

「娘のために作った手編みのセーター」
「お父さんと一緒に頑張って作ったハンバーグ」
「外で見つけた枝で作るおもちゃ的な何か」

手間暇かけると時間がかかる。でも、その時間のなかで、生まれるコミュニケーションや感情が、人間の幸せであり思い出なのだと思う。

効率的にサクッとなんでもできてしまっては、愛着も何も生まれない。
作業と何も変わらない。

心象風景は、温もりやあたたかさであってほしい。

ちょっと時間をかけて効率とは逆の方向で手や頭を動かすことが、今の私たちには必要で、生きる上でのエッセンスになるのだと思う。

自分の暮らしを自分で作る

インターネットのおかげで良いこともたくさんあるが、様々な価値観に触れられるがために翻弄されやすく、人間としての本来の幸福 を見逃してしまう。

誰かのアイディアにより生まれた時短効率のガジェットやサービスもいいけれど、自分の手で自分の暮らしを作り上げる。
家事や遊びなどの暮らしの時間をかけることの中にこそ、コミュニケーションが生まれて本質的な幸せや思い出がある。

経済的価値観は、あくまで経済の中でのこと。

暮らしのあたたかな文化を忘れられないためにも、私は「愛里沙の北海道暮らし」のなかで、時間をかけることで生まれる幸せを発信していきたい。






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