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優しい言葉になりたい

「この言葉には救われたよなぁ〜!!」
みたいな経験が、それぞれの人生の物語の中にたぶんある。
漫画の主人公が言ってた言葉とか、好きな人が言ってくれた言葉とか、お気に入りの曲の歌詞とか、形は色々と違ったとしても、たいていの人は何かしらの言葉に支えられたことがある…はず…と私は思っている。
そしてそれは私にもある。
ていうか、私はもしかしたら、言葉というものがとても好きなので、この言葉に救われたな〜と自覚する瞬間が人よりちょびっと多いかもしれない。たぶんね。

そのなかでひとつ、今も私が大切にしている言葉の話をしたい。

中学2年生の時のこと。
私は当時からあまり集中力のない人間だったので、その日の国語の授業も非常にうわの空でただ黒板を眺めて、たま〜に思い出したようにノートをとったり、気が向けば先生の話す事を聞いているだけだった。

正直、どういう内容の授業で、どういう範囲を学習していたのかとかはサッパリ覚えていない。
だから、どんな流れでその話になったのかはわからないけれども、とにかくその時は"オタク"について先生が話をしていた。

その頃は今よりもずーっと"オタク"というものに対する扱いというか、"オタク"という単語自体も、どちらかというと蔑む言葉として使われていたように思う。
私はその風潮に、もの凄くモヤモヤを感じていた。
14歳の私は2ちゃんねるにめちゃくちゃハマっていて毎日掲示板を覗いていたし、漫画とかも超好きで、何よりも音楽のことをもう既に超愛していた。
いわゆる「萌え〜」な作品を、当時ほとんどの人が"オタク"という言葉で想像していたような、チェックの服を着てハチマキを巻いて見ていたわけではないにしても、「私も十分"オタク"要素あるやん…」と思っていたのである。
ていうか、当時は上手く言語化できなかったけど、私は何かしらの"オタク"になりたかったのだと思う。
だからその言葉をマイナスイメージで使われることに納得がいっていなかったのだと今ならよく理解できる。

先生が話した"オタク"についての話の内容はほとんど覚えていない。
けれども、最後に言っていた言葉のことを、私は今でも忘れられない。

先生は一連の話の締めくくりにこう言った。

「"オタク"ってね、何かにすっごく熱中できる人の事を言うんよ。何かをすっごく大好きになれるって、本当に素晴らしいことなんよ」

ぶっちゃけ目ん玉が飛び出た思いがした。
この言葉は、私のモヤモヤを爽快に、空の彼方へ吹き飛ばしてくれた。
そうやん…そうやん!!とひとりで勝手に喜んだ。
私が言語化できなかった気持ちを、先生が代わりにしてくれたと思った。
その時から、堂々と好きなものに対して胸を張れるようになった。
好きという気持ちは、誰がなんと言っても、ただひたすらに正義なのだと思えて本当に嬉しかった。

この話は、はじめに言ったような「この言葉には救われたよな〜!!」というのとは、少し違うかもしれない。
その授業を受けていたクラスメイトは、こんなこと、誰ひとり覚えていないかもしれない。
でも、それでも、この先生の言葉は、その後の私の人生において非常に重大な言葉になったのである。

あれから10年以上も経って、私は今、あの時の先生より歳上になった。
私は誰かの目から鱗を落とせるような言葉を使える大人になっているだろうか…とかはどうでもいい。
だってあの時の先生も、私の目ん玉から鱗を落とそうと思ってあの言葉を言ったわけじゃ、たぶんないから。
私は私で、ひたすらに自分が思う正義を信じて生きて、その人格から生まれた、その人間性から捻り出される言葉を使って生きていくだけなのである。

自分の歌詞を褒められた時、嬉しくなる。
「私のこと歌ってくれてると思った」なんて言われたらバンザイとかしちゃう。
けれど私には本当は「誰かの為に書きました!」と言えるような歌詞はあんまりない。
それはいつだって、自分が言って欲しかった言葉を選ぶからだ。
自分自身が響く言葉でないと、誰の心にも届かないと信じているからだ。

ずっと思っている。
自分みたいな誰かに届けばいいのに、って。
だから、丁寧に丁寧に、考える。
歌詞を書く時はもちろん、話す時、LINEを送る時、ツイートする時、noteを書く時。
優しい言葉を、使えるように。
痛くないように、考える。
トゲになったりしないように、気をつける。

私を救ってくれた、多くの言葉たちみたいに。
優しい優しい言葉を使えるように。
目から鱗なんて落ちなくてもいいから、少しでも軽くなれるように。
フフッてちょっとでも笑えたりできるように。

私は明日も、優しい言葉を使いたい。

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