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【大宅壮一ノンフィクション賞 受賞しなかった人の言葉!】

先日「目の見えない白鳥さんとアートを見にいく」が大宅壮一ノンフィクション賞にノミネートされたわけですが、えーと、結論から言うと受賞には手に届きませんでした!!

(え、マジで!?われながら、ふたつとない新しいノンフィクションなのになんで!?と思いました笑、おめでたいやつです)。

おかげで、先週は久しぶりに、ひー、ちょっと悔しいぞ!という思いが募りましたが、いまは次に向かって精進しようと切り替わりました。

とはいえ、どうして自分が書籍という沈みゆくオールドメディアで書き続けるのかということを自問自答する良い機会ともなりました。

通常は受賞すると「受賞の言葉」がどこかに掲載されるわけだけど、「受賞を逃した人の言葉」というのはどこにも掲載されないので、ここに書いてみようと思います。

話がいきなりそれますが、私が25歳の時初めて行った出張先は、中米と南米をつなぐ地峡にあるパナマという国でした。そう、パナマ運河のある国です。駆け出しの開発コンサルタントとして、1ヶ月半ほどパナマシティに滞在しながら、学術都市を作る計画に携わりました(といっても、ほぼただの小間使いです)。そのなかで、余暇で「クナ族」という海の少数民族を訪ねました。その時、小さな島の浜辺で、クナ族の若者に聞いたクナ族が自治領を勝ち取るまでのストーリーが面白すぎて、私は仕事そっちのけで興奮し続けていました。

ああ、こんな話をずっと聞いて生きていけたらな・・・と思ったものです。私はこの頃から自分とはなんら共通点がないような遠い場所に暮らすひとの話を聞くことが好きでした。

その後、開発コンサルとして6年働き、20カ国くらいに出張に出かけ、多くの人にインタビューしながら、もうがむしゃらに働いたあとは、国連機関に転職。パリで5年半にわたり働きました。頑張れば一生安定して勤められる職場でしたが、徐々に我慢できない息苦しさを感じ、どうしても辞めるしかない、という切迫した気持ちで、38歳で全て一度リセットして日本に戻りました。(その時感じたもやもやは「パリの国連で夢を食う。」に書きました)。

国連機関を辞め、国際援助の仕事からも離れ、ただの自分になってもう一度始めてみたら自分にはどんな世界が見えるのだろう、そう思ったのが12年前です。たぶん私はもしかしたらただあのクナの若者が話してくれたような話を聞き続けていたかったのでしょう。そうして、向かったのが、全ての境界線を超えていこうとするミステリアスな修行者/歌い手/詩人、「バウル」を探しにいくことでした。

振り返ると、若い頃の自分は精神的にも幼く、異なる他者に対して優しさも少ない自分勝手な人間でした。フランスやアメリカに住み、多くの人と出会うことで多少はマシな人間にはなれたようにも思いますが、何かに安住してしまうと、むしろ自分の中にある壁や分断がさらに固定化される感覚もあり、そこから急いで離れたくなってしまう、という厄介な性格をしています。

あれから12年間、ひとりであちこちに足を運びながら本を書き続けてきたわけですが、その理由は「何かを伝えたい」というよりも、自由でフラットなスピリットな人物の考え方に触れることで、自分の中にある壁や分断を壊したいという個人的なモチベーションだったように思います。青臭いのですが、自分が少しでもマシな人間になることからしか、この不条理な世界をよくすることはできないのではないかという思いがあり、その試行錯誤を伝える手段が自分には文章でした。

結局のところ、私はいつも、いつも同じテーマで書き続けてきました。異なる他者と出会い、その違いを受け入れ、分かり合いたいけど分かり合えない切なさを抱えながら、友情や愛を大切にして生きること。自分の中の内なる自由を大切にし、小さな希望とともに生きること。

「パリメシ」も「バウル」も「骨まいて」も「空をゆく巨人」も「白鳥さんとアート」も。ちょっと角度や見てくれが違うだけで、言いたいことはいつも同じでした。

そうして書いた本が評価されることもあれば評価されないこともあるのが現実です。評価されなくても書くのか、といえばもちろん書き続けます。

作品を作るというのは、ひとつの作品では終わりではなく、絶え間ない継続的な営み、生きていくことと表裏一体です。もちろん商業的な成功や失敗といった外的な評価要因はあるけれど、そこに完全に支配されたら作品作りは続けられない。そんなことよりも、表現は自分の内側を照らしてくれる光です。その光は、か細い。だから失ってはいけない。

だから私は今後もただ自分が納得いく作品を作り続けていく、それしかないと思います。

「受賞を逃した人の言葉」は以上です!

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