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白鳥さんの「湖に見える原っぱ」の話

いま連載「見えないアート案内」を一冊にまとめるべく、書き下ろし部分を書いているのだが、その中で書いてて面白かったことをnoteにもちょっとメモ書き程度に書いておこうと思う。

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抜け落ちてしまった「見ることの野生」

好きな人とデートがしたいという思いで、初めて美術館に足を運んだ白鳥さん。その楽しい時間がきっかけとなり、美術館へのアプローチが始まった。

「自分は全盲だけど、作品を鑑賞したい。誰かにアテンドしてもらいながら、作品の印象などを言葉で教えて欲しい」と粘り強く美術館に電話をかけ続けた──。 多くの美術館にとって、白鳥さんのような視覚障害者の出現は極めて想定外だったため、その都度、趣旨や希望を説明し、理解してもらう必要があった。そんな美術館の対応も含めて、白鳥さんにとっては新鮮な経験だった。

「今まででたくさんの美術館に電話をかけましたが、完全に断られたのは一館だけ」というので、は確率としては全く悪くない。 それまで、「見える人」に対してどこか引け目を感じていた白鳥さんだが、「見える人と作品を見る」という行為を通じて、「見える」と「見えない」の間に感じていた「壁」も、取りはらわれていき、見える人と一緒にいることも心地よくなっていった。そのきっかけになったのは、名古屋で経験した「目が見える人もちゃんと見てないのではないか」と感じさせるあるできごとだった。 

 それは松坂屋美術館で開催中の印象派の作品展を見るなかでおこったことで、そのときアテンドしてくれたのは広報担当の男性スタッフだった。 男性は、一枚の絵を前にして、「湖があります」と説明を始めた。しかし、そのあとに「あれっ!」と声をあげ、「すみません、湖ではなく原っぱでした」と訂正した。男性は「自分は何度もの作品を見ていたはずなのに、ずっと湖だと思いこんでいた」と驚いている様子だ。 それを聞いた白鳥さんも仰天した。「ええ!? 湖と原っぱって全く違うものじゃないのって。それまで“見える人”はなんでも全てがちゃんと見えているって思っていたんだけど、“見える人”も実はそんなにちゃんと見えてはいないんだ! と気がつきました。そうしたら、色々なことが、とても気楽になりました」 そう、「見える人」が「見えない人」と一緒に作品鑑賞をすると、このような勘違いにたびたび気づかされる。普段私たちは、膨大な視覚情報にさらされながら生活している。細かい情報をすべて脳内で処理することは不可能なので、目は必要な場所に注目し、必要な情報だけを選びとり、必要のないものは視覚に入っても脳内で処理されない。 

「わたしたちの通常の「見る」は、だからとても貧しい。見るべく整えられたもの、つまりは見るべきものを見るだけで、あらかたすぎてゆく。眼は意味あるいは記号に感応しているのであって、そこから見ることの野生は脱落している。いるどころかか、さまようこと、たゆたうこと、まどろむことすら忘れた眼……。見えるためにある照準を定めるためにはそうして見えるものに「世界」という秩序をあたえるためには、そうしたエコノミーがどうしても必要なのだろう」 (鷲田清一『想像のレッスン』)  

これは美術鑑賞においても同じで、作品を見ているつもりでも、実は見えていないものの方が圧倒的に多い。さらにいえば、すっかり勘違いしたまま思い込んでいることもざらだ。しかし、「見えない人」が隣にいるとき、普段使っている「取捨選択センサー」がオフになり、私たちの目は文字通り、作品上を彷徨い、普段は見ない場所に注目する。その結果、「今まで見えなかったものが急に見えた」というユニークな体験をする。その良い例がまさにこの松坂屋美術館のできごとだ。(その後白鳥さんがたびたび目撃することになる) 

図録を探せ!

この話を初めて聞いた時、本当に面白いなあ!と思った。
それ以来、「湖に見える原っぱ」が描かれた作品とは、いったい誰が描いたものなのだろうと考えるようになった。もう二五年近く前の話なので、それを確かめるのは簡単ではなさそうだが、気まぐれ程度に調べてみることにした。 

白鳥さんに改めて聞いてみると、場所はほぼ間違いなく松坂屋美術館で、時期としてはひとりで美術館巡りをはじめてわりとすぐ起こったことだという。ということは、九六年か九七年だろう。 まずはシンプルに、ググってみたところ、「印象派・後期印象派展」という展覧会が一九九六年二月〜三月に松坂屋美術館に巡回したことがわかった。そして松坂屋美術館では、その前後に印象派関連の展覧会をしていないことも。よし、ビンゴ! ちょっとした興奮に包まれながら、次に図録を手に入れるべく検索を続ける。再びシンプルにググってみたところ、再びビンゴ。ヤフオクでその図録を売っている人がいたので速攻で落札した。価格は百円だった。 

図録が届くなり、ページをめくった。 
えーと、原っぱに見える湖。そんなもん、そうそう転がっているわけがない。 見ればすぐにわかるはずだ。 
そう思いながら、ページをめくると、すぐに、これだという絵が見つかった。フィンセント・ファン・ゴッホの《アルルの公園、陽のあたる芝生》。しかし、さらに見ていくと、あれ、これも原っぱのような湖のようじゃないか……と感じさせる絵がいくつも現れた。 すっかり混乱した私は、後日、白鳥さん、マイティを前に、改めて図録を見かえした。すると、マイティは《アルルの公園、陽のあたる芝生》を見ながら、「えー、これ? 全然、湖に見えないよ」と言い、別のページをひらくと、「これじゃない? ほら、湖に見えない?」と言う。それは、私がノーマークの作品だった。

 なんだ、なんだ? どういうことなんだ?   

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