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勝手にロックダウン日記 体は触れられたい (4/12)

夫のI君が6日ぶりに家に戻ってきた。

「ただいまー」と言う声を聞いて玄関にすっ飛んで行ったのは娘である。

そういえばこのロックダウン日記にはI君が全く登場してこなかったが、彼はしばしの間近所のホテルで自主隔離しつつ暮らしていたのだ。別に海外に渡航してたとかそういうんじゃないのだが、いちおうそうしといたほうがいいんじゃないかと私が提案し、かれも「OK、そうしよう」と言ってくれた。それはもうLINEの短いやり取りであっさり決まった。ちょうどよく近所のビジネスホテルが激安だったので、自宅とホテルという2ラインでロックダウンを決行したのだ。

いやあ、これはやってみてほんとよかった。緊急事態宣言も出されず、様々な情報が錯綜し、不安や怒りが増幅するなかで、夫婦で方針や仕事の足並みを揃えるなんてけっこう難しいことだった。揃わない足並みを無理やり揃えるよりも、あくまで物理的に事務的にいっとき距離を置いたことで、お互いに安心してのびのびと過ごせたように思う。

というわけで、一週間弱続いた私のワンオペ・ロックダウンが昨日で終わった。正直ほっとした。だって、このワンオペの間に自分が倒れちゃったら……と思うと気が気ではなく、万が一に備えて、私は私でのど飴や風邪薬、OS1、おかゆなんかをたくさん買いおきすることで不安を紛らわせていた。このウイルスの大変なのは、いざとなったときに同居している家族以外の頼れる人がいないことだ。だから、いまはとにかくかからない努力を続けるしかない。

こうして、二人だけで一週間弱の隔離生活をしていると、いままで本当にいろんな人に助けられて子育てをしてきたんだなあとしみじみと思う。うちの母や妹、夫の実家、そしてたくさんの友人や小屋仲間、山小屋のアーティストたち、そして保育園の先生やお友達。

みんなから愛情をたっぷりもらって、ハグされて、言葉をかけられて、食べさせてもらい、遊んでもらって娘は五歳まですくすくと生きてきた。

しかし、この一週間、目の前にいてリアルに愛情を注げるのは私だけだ。こうなると何が起こるかと言うと、娘がとにかく狭い家の中でぴったりくっついて離れない。その離れない度合いがハンパなくって、ちょっとソファに座れば膝に乗ってくるし、抱きついてくるし、髪を結わこうとしてくるし、トイレにも付いてくるし、布団に入ろうとしてくるし、しまいにはおっぱいに触ろうとしてくる。なんだろう??この現象は?

娘は断乳が早く、11ヶ月の頃にはもう自らおっぱいを「いらない」と拒否し、離乳食にシフトした人だった。だから、このおっぱいへの謎の執着は今週初めておこった現象だった。

最初は戸惑ったけれど、たぶん娘も心のどこかで不安なのだろうなと感じた。いままで愛情を注いでくれた大勢の人たちと切り離されて、いま頼れるのは私だけ。それは赤ちゃんの頃の状態と少し似ているのかもしれない。だから、本能的な記憶を拠り所にして、その象徴としてのおっぱいに執着してしまうのだろう。

私は私で、「娘」という生身の「体」がすぐそこにあることで無限の安心感を得ていた。だから娘が抱きついてくると、私もぎゅうぎゅうし続けた。ぎゅうぎゅう、ぎゅうぎゅう。そうして、お互いが安心するとようやく遊びの世界や家事に戻った。

人間の体というのは、誰かに触れたいし、触れられたい。触れられることで命という根源に触れる。心と体は分かち難い。以前読んだ東畑開人さんの『居るのはつらいよ』のなかに、「こらだ」と言う言葉がでてきた。「こころ」と「からだ」が一体化した言葉で、もともとは中井久夫さんという精神科医の人が提唱した言葉だそうだ。

心と体はいつでも分割されているわけではない。というか、ふだんはきれいに分割されているように見える心と体には実際のところグニャグニャしたままの部分もある。
そのグニャグニャは、余裕がなくなり、追い詰められると顕在化しやすい。嫌なことを考えたらお腹が痛くなることがあるし、緊張すると手先は震える。顔を叩かれたことで、心までコナゴナになることがある。(居るのはつらいよ」

こころとからだは繋がっている。上の文章の裏を返せば、体を優しく触れられれば心まで元気になり、怒りや負の感情を鎮められ、また他の人をケアする余裕も生まれる。そんな分かち難い存在の心と体をあわせて「こらだ」。私は娘と過ごした一週間で「こらだ」の存在を理解していた。そして、触れたいと思った。他の人の体に。

いまオンライン会議や電話でのコミュニケーションが増えて、少しの間わたしたちは繋がっていることができる。でもそれは「こらだ」に対する力は、対面に比べると圧倒的に弱い。現に娘に「ねえ、おばあちゃんに電話しようか」「パパとビデオ電話しようか」と言ってみても、「今はいい!」というのを繰り返していた。たぶん触れられない以上、娘にはそんなおしゃべりには意味のないことなのだ。そのとき誰かに触れられることの意味をとても考えさせられた。


ちなみにこの写真は娘がレゴで作ったカフェである。
「ちゃんと、席の間に距離をおかないと。手を洗うところも作らないと」と言いながら、カフェの席の距離をおもっきり話したのでびっくり仰天した。たぶん自転車でカフェの横を通りながら、私が「ああ、あのお店は席の感覚が近すぎるなあ!!」とか「お店で並ぶ時は前の人から離れること」「公園でも手を洗おうね!」と繰り返してきたのが、ちゃんとインプットされているらしい。ただしい理解なんだけど、これが長く続かないといいなと思う。誰かと距離を開けることに慣れてしまわないように。

こうしてなかなか他の人の体に触れられない状況は、人類にとってかつてないほどの試練なのだろう。触れられない体が増えていった先の社会はどんな社会になってしまうだろうか。でも、早くお互いが触れられる日を思いながら、今日も私は勝手にロックダウンをしようと思うんだ。




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