【277日目】褒めるだけでは伸ばせない


June 24 2012, 6:16 AM by gowagowagorio

11月3日(木)

「おとうちゃん、なんかかいてー」

朝食後、ナツモが学校の連絡帳、“ブルーブック”を開いて持ってやって来た。それだけでナツモの要求は分るのだが、僕はあえてしらばっくれる。

「ん?何を書くの?」

「『む』、からはじまるやつだよ」

「む?むーむー・・・難しいねえ」

「『む』のつぎは、『か』、だよ」

「むか?・・・わかった、むかで!」

「もー、ちっがうよー!」

このように他愛なく戯れる朝の時間もあと僅かだと思うと、愛おしい時間である。

僕はノートに

「Dear teachers, I’ll come to school to pick Natsumo up by 3pm today, thank you.」

と書き付けてナツモを送り出した。

午後3時。

ナツモの手を引いてイートンハウスを出ると、先ほどまでしつこく降っていた雨はあがり、日差しが戻って来ていた。

歩道橋で学校の向かい側にあるバス停に渡り、ちょうどやってきた2階建ての路線バスに乗り込む。

一番前の特等席が空いている。そこへ座ればいつもの道も、ちょっとした遊覧ドライブになる。

「このばす、すっごいたかいよねー、おとうちゃんよりもたかいよね。もっちゃんも5さいになったら、せがたかくなるんだよー。どうする?もっちゃんがおとうちゃんより、すっごいたかくなったら」

「そうだねー、そしたらバスケかバレーでオリンピックに出るといいよ」

「だれ?それ」

「オリンピックは、人じゃないけどね」

他愛ない会話を交わしながらも、ナツモは僕の膝へ座りたがる。この甘えっぷり、ナツモなりに、もうすぐ父親が居なくなる事を感じ取っての行動なのだろうか。

バスを降りてから家までの10分の道のりは、二人でプリキュアオールスターズの歌を合唱しながら歩く。それだけでもの凄い連帯感が生まれるのだから、プリキュア様様である。

−−

今日はアキコの仕事が早くハねると言う事で、3人で、僕にとっては最後のバイオリンスクールへ向かう。

ナツモはここのところ僅かな時間とはいえまじめに練習しているし、実際、キラキラ星の左手のポジションはほぼ完璧に覚えて音も出せるようになっている。今日はきっとアキコに良い所を見せられるだろう。アキコも久しぶりに見るナツモの成長を楽しみにしているようだ。

ところが、1時間半後、ナツモは厳しい現実を突きつけられた。

生徒5人中、今日キラキラ星の演奏を許されたのは僅か一人だけだった。ナツモは今まで弾かせてもらえていたのに、今日は単音を繰り返し鳴らす基本練習のみに格下げである。

僕としては、毎日やっていた事と違う事をやらされるのは可哀想だと思ったが、何か理由があるのだろう。きっと、あまり良くない理由が。

来週から僕は付き添えないという事もあり、練習後、アキコがインストラクターを捕まえて尋ねる。

「ナツモはどうしたらキンダーバイオリンクラスに上がれるの?」

キンダーバイオリンクラスは時間が遅いため、アキコの仕事が終わった後、連れて来れる。だから何としてもナツモを進級させたいところなのだ。

しかし、尋ねられたインストラクターの表情が一瞬曇った。

「そうね、実は・・・」

その口から発せられたのは厳しい現実ばかりだった。

バイオリンを弾く姿勢がなっていない。ストロークのフォームもできていない。バウ(お辞儀)ができない。リズムが取れない。これらは基本中の基本だ。

キンダーバイオリンクラスはバイオリンのみを練習するクラスだから、最低限の基礎ができない生徒は入れて貰えない。つまり、ナツモはそういうポジションなのだ。

バイオリンを始めた頃から比べれば随分マシになってはいるが、本格的にバイオリンを取り組むにふさわしい生徒からはまだ程遠いのである。

帰路、アキコの態度が硬くなる。

「もっちゃんさ、もうバイオリンやめる?」

「なんで!」

「ちゃんとできないなら。もっちゃんなんで上のクラス上がれないか知ってる?」

ナツモとしては、日々僕が褒めてばかりいたから、アキコに言われた言葉が心外だという顔をしている。

二人のやりとりを聞きながら、僕は少なからず責任を感じた。

課題は分っていた。しかし、厳しく指導する事で、ナツモ本人のやる気が失われるのが怖くて、僕はひたすら褒めてきた。単に興味を失わせないようにするだけではなく、そうしながらも、ひとつひとつハードルを超えさせると言うのは本当に難しい。

−−

タクシーでコンドへ戻り、ミノリをピックアップすると、そのままウィスマアトリアへ向かう。

ディンタイフォンでの夕食もひとまず今日が最後である。ミノリは留守番中エリサにご飯を貰っていたためか、あまり食べなかった。ナツモは眠い眠いと文句を言いながらもそこそこ食べた。

ナツモが寝息を立て始めた後、ミノリが暗闇の中で絵本を開いている。ナツモが寝る前に読んでやった「little pookey」という子ブタの絵本だ。

ぺたんと床に座って、両手で表一と表四を掴み、しっかりと本を読む体勢になっている。ミノリも本がどういう存在なのかの認識ができ始めたのだろう。そして、そこに描いてある絵も、それが何なのかを認識しはじめたようだ。

ミノリはパラパラとページをめくっていたが、とあるページでぴたりとその手をとめると、そこに描いてある絵を指差して「だー!だー!」と何事か喋っている。

ミノリの指差す絵を覗き込むと、そこにはクッキーの絵が描かれていた。ミノリはしばらく「だー!だー!」とクッキーを指差した後、それをつまんで食べる真似をした。

そして再びページをめくり始めるが、数ページめくると、すぐにクッキーのページに戻って「だー!だー!」とクッキーを指差し、それをつまむ。

その絵は僕にはそれほど美味しそうには見えなかったが、ミノリにとっては魅力的なクッキーだったのだろう。

ミノリが僕の顔を見ながら「オマエもひとつどうだ?」と言わんばかりにクッキーの画を指差すので、僕もクッキーをつまんで食べるフリをする。それを見てミノリは満足げに「ひひーひひー」と喜んだ。

典型的な食いしん坊となりつつあるミノリも、明日、正確には夜中の3時25分に、1歳を迎える。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?