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行動経済学で考えた、変わりゆく社会規範と市場規範の国境線

トライバルメディアハウスの社内勉強会、TPAの終わりが近付いてきている。1年間、課題図書に追われながらやってきたけど、正直終わってしまうことに寂しさがある。隔週の勉強会は本当に楽しかった。noteを書かなければならないというのは正直負荷だったけど、それによって身に付いたものは間違いなくあると思う。

さて、今回のお題は「行動経済学」。

読んだのはこちら。



予想どおりに不合理

実はこの本は出版されてまもなくに読んだことがあったのだが、今回10年以上ぶりに読み直してみると、やはり新たな発見がある。

ちなみに書かれている内容はざっとこんな感じ。

■人間はものごとを、他のものとの相対的な比較でしか判断できない
■私たちの選択のほとんどは、最初の決断によるアンカリングから逃れることができない
■「無料!」は、だいたい私たちの損得勘定を狂わせる
■人間は社会規範と市場規範を使い分ける。混ぜ合わせることはできない
■人間は、興奮すると自分が思っているよりも更に理性を失う
■人間は、短期的な欲望のために長期的な努力を後回しにしてしまう
■所有意識も、だいたい私たちの損得勘定を狂わせる
■人間は選択肢を失うことを恐れるが、往々にして選択肢の多さによって大事なものを手に入れ損ねる
■プラセボ効果について
■悪いプレイヤーが市場に数人いるだけで、ほかのすべての人にとって信用がだいなしになってしまう
■人間はだいたい正直だけど、ちょっとズルをすることもある

私たちが普段自覚していることも、そうでないこともあるが、なぜかそうしてしまう「不合理な振る舞い」について、著者のアリエリーさんは丁寧な実験による検証結果とともに考察をされている。

私たち人間の、愛すべき「いい加減さ」が各章で明らかにされるのだが、今回は市場規範と社会規範の使い分けに注目したい。



市場規範と社会規範

「予想どおりに不合理」の第4章は、私たちがお金のことを思い出す時、市場規範に則って物事を処理していく一方で、お金のことを考えずに行われる頼み事には社会規範を適用して助け合いの精神を発揮するというところからはじまる。

面白いことの第一は私たちが、市場規範よりも社会規範を適用した方がちょっとした単純作業でも高い生産性を示すことだ。

そしてその高い生産性は、かすかなお金の匂い(単に金銭的な報酬を提示されるまでもない、価格の明示されたプレゼントなど)によってすらたちまち消え去ってしまうのだ。

第二に、それまで社会規範に則って動いていた物事に市場規範を一時的にでも導入すると、それを撤回したとしても社会規範が戻ってきたりはしないということだ。

ちょうどこの興味深い章を読んだ直後に、私はネットでひとつの記事を目にした。



軍隊と戦争に、200年ぶりに市場規範がやってきた

上記の記事にはリビア内戦で現在進行系で起こっている「次世代の戦争」について書かれている。

*埋蔵量でアフリカ大陸一の産油国であるリビアの内戦は、多くの国が介入する代理戦争の様相を呈している
*介入する外部の国は「自軍兵士の犠牲を減らしつつ戦果をあげる」という意味でコスパをあげるため、遠隔操作できるドローンと、戦死しても「戦死者」にカウントしなくてよい傭兵の利用を増やしている
:【コスパ最優先の「次世代の戦争」】より

ここしばらく、つまり19世紀はじめのナポレオン戦争から200年超の間、軍隊と戦争は社会的規範の元にあった。

市場規範に基づいて人々が行動するなら、国家は兵士たちに対して自らの命を捨てるリスクに見合う報酬を支払う必要があり、それは18世紀まで各国の戦力を厳しく限定させていた。

しかし、いわゆる国民国家の成立によって軍隊と戦争は国民にとっての「自分ごと」になったのだ。

国民国家による戦争での兵士の損耗が「名誉の負傷」「名誉の戦死」となったのは、彼らの犠牲が自身の損得による取引ではない、社会規範によって名誉とされたがゆえである。

実際、アメリカがイラク駐留などの人員を、正規のアメリカ軍を上回るほど民間軍事企業から調達したことは、傭兵が死亡してもアーリントン墓地に葬らなくてよい(アメリカ軍の戦死者にカウントしなくて済む)ことが大きな理由だった。
:【コスパ最優先の「次世代の戦争」】より

しかしまさに今現在、私たちの世界は軍隊と戦争を市場規範によるものに置き換えようとしつつあるように見える。

上記の記事にあるように、今死んでいるのは「アーリントン墓地」に葬らなくてよい、名誉のない戦死者たちだ。

「予想どおりに不合理」で描かれている市場規範と社会規範の関係から考えるなら、一度市場規範が導入された物事からは社会規範は消失する。

私たちはこれからしばらくの間、戦争を自分ごととしない世界で生きていくことになりそうな予感がする。



入れ替わる社会規範と市場規範の担当領域

軍隊と戦争への市場規範の導入について書いたが、元々パブリックな物事の多くには社会規範が適用されてきていた。
しかしこの数十年で世界的に多くのパブリックな分野への市場規範の導入が進んでいる。

いわゆる「民営化」である。

先程の記事に書かれたドローンと傭兵の話は、軍隊と戦争の民営化にあたる。

一方で、私たちのビジネスの世界では面白いことに社会規範を導入しようという試みが盛り上がっているように見える。

ここ二、三〇年、各企業は社会的な企業として売り込もうと努力している。自分たちのことを家族か、少なくとも同じ通りに住んでいる友人だと思ってもらいたがっている。
~中略~
顧客と企業が家族なら、企業は色々得をする。顧客がよせる信頼は最高になる。
:【予想どおりに不合理】より

企業と社員との関係についても同様だ。

今日の企業は、社会的交流をつくりだすことに利点を見いだしている。今日の市場では、わたしたちは無形のものをつくる担い手だからだ。産業機械よりも創造性のほうが大切だ。
~中略~
このような週七日二四時間という労働環境では、社会規範がおおいに役立つ。社会規範によって、従業員は熱心で勤勉になり、順応力も意識も高まる傾向がある。
:【予想どおりに不合理】より

私たちの生きている社会は常に変わり続けている。

不安定に、変化し続ける時代に私たちは、不合理な意志決定を繰り返しながら、時々ちょっと距離をおいてその不合理さに気づいて、ちょっと直してまた進んだりしていく。

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