恩師が亡くなりました。86歳でした。
一昨日、浜離宮でフラダンスのイベントを観せていただきました。
主催の方は、恩師の10代の頃からの同志で、最後は身元引受人でもあったM先生。
とてもゴージャスなお召し物で素晴らしいお帽子とレイを付けていらっしゃいました。
ライブの中で、師の追悼コーナーも設けてくださいました。
M先生も師と同い年で86歳。
そしてもうお一人同い年のOさんという女性もいらっしゃいました。
先生とその女性お二人は、10代の頃、同じ劇団にいらした同志とのこと。
その頃、女性お二人は、
1畳半のアパートに一緒に暮らしていた
とお話しを伺いました。
戦後まもなくで、家賃がとても高かった頃だったとか。
そして、M先生にとって、恩師は「初恋の人」だったらしいのです。
でも、恩師が結婚したのは、やはり同じ劇団にいらした今の奥様。
奥様は、師が倒れる前からホスピスに入院していらっしゃいました。が、先生の方が早く身罷られてしまわれました。
M先生はその後、役者でなく出版社で記者をされていらしたとのこと。
さらにその後、様々なイベントに関わるうちに、どうしても彼の声が要る、ということで、時々依頼されてご一緒にお仕事をされていらした、と。
M先生たちと師とは長いお付き合い。
恩師はとにかく、器が大きくて、優しい人でした。
若かりし頃の指導はとても厳しかったと聞きます。
でも、芯は、優しくてあったかい。
そして、まこと優秀な方。学歴はないけれど。
劇団を主催していた頃、金を持ち逃げされた経験もあるらしいです。
浮き沈みの激しい芸能界で、それでも師の残した功績は大きい。
今はもう会場の僅かしか、師を知っていると手を挙げた人はなかったけれど。
昔の人は凄いな。
改めて感じました。
恩師もM先生もOさんも。
M先生は、おんな版恩師といった風格の持ち主。
とにかくオーラが大きい(笑)
優しい雰囲気のOさんは、10代の頃、苦労して劇団員として頑張っていらしたなんて、誰も想像がつかない白髪の可愛らしい老女です。
昔のアパート暮らしの当時のことなどお話してくださいましたが、これ以上は泣くに決まっているからと切り上げさせられていました。(もう本当に泣きそうだったし)
そして、息子さんと一緒に追悼のフラダンスを披露してくださいました。
M先生も気丈に振る舞っていらっしゃいましたが、昨日までの1週間ボロボロだった…と私たちにはこっそりおっしゃって。
お辛くて堪らないご様子でした。
それでも今日は、メソメソしないでハワイアン風に師を送るとおっしゃって、その通りにしていらっしゃいました。
「涼やかな、そしてイカした男だった」と。
“親しい人が、良き友が、風にさらわれて逝ってしまった。でも、この美しいレイになって私の身体に戻ってくる”
そういう意味の曲で、師のためにM先生は踊ってくださいました。
M先生たちは、自分たちももうすぐだからと冗談めかして言われていました。みんな行く道ですからと。
M先生。きっともう死ぬのはちっとも怖くないんだろうな。恩師が待っている、また会えると思うと。
今回、M先生に会って、人の心、人生の不思議を感じました。
M先生と師は結ばれなかったけれど、初恋の人。
いや、おそらくですが、M先生にとって、生涯恩師以上の人は現れなかったんじゃないかな…。
(だって、師は本当に素晴らしい方だったのですもの。)
それが、巡り巡って、結局、M先生が師の身元引き受け人となった。
恩師の最期に立ち会えたのはM先生ただ一人。
コロナ禍で、我々弟子もお見舞いに行くことすら叶いませんでした。
臨終の際は、傍らでいろんなことを語りかけたとおっしゃっていました。
最期の最期まで駆け抜けた86年。
毎日のようにレッスンが入っていました。
その上、舞台にオーディションの審査員…
ほぼ休みなしの生活でした。
奥様も入院して家におらず足もお悪かったので、一体どうされていらしたのだろう…と。
それでも根をあげることなく、常に積極的に最後まで走り抜けた人生でした。
過労で道で倒れられ、頚椎をやられるまでは。
先生。
先生にもらった沢山の教えや仕事への情熱、人生や人としてのあり方等、沢山のことを背中で教えていただきました。
器や優しさが父によく似た先生。
私は先生が大好きでした。
直接ご指導を受けたのは2年余りと思えば短かったのですが、実に中身の濃い歳月でした。
もっと自分が若い頃に指導してあげられたら良かったのに…と残念がり、すまながっていただけただけで、私は幸せ者だと思っています。
少し忙しすぎたので、ゆっくり休んでくださいね(休んだところがあまり想像できませんが笑)。
心より感謝申し上げます。
ますます精進します。
本当にありがとうございました(合掌)
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