イングランドへの扉 ジミー・ペイジ&ディヴィッド・カヴァーデイル
1993年12月 愛知県体育館。
私は21歳の時、後に夫となる人に連れられて初めて洋楽のライブに行くことになった。
それはカヴァーデイル・ペイジというプロジェクトで、イングランドで結成されたハードロックバンド、ディープパープルの3代目ヴォーカリストであり、その後にイングランドで結成されたホワイトスネイクの主宰であるデイヴィッド・カヴァーデイルと、同じくイングランド ロンドンで結成されたロックバンド、レッド・ツェッペリンのギタリストのジミー・ペイジによるものである。
会場では、艶光りのする黒いレザージャケットやレザーパンツを身に纏った人やトゲトゲのスタッズのついたブーツに革手袋、チェーンでじゃらじゃらしたお兄さんやお姉さんがいっぱいだった。
異様な雰囲気だった。
今はハードロックのライブに行ってもそういった人たちはごく一部になったけれど、この当時はグループでかたまってあちこちにいて、初心者としてはちょっと怖かった。
今だったら「バンドやってるんですか?」くらいは話しかけられると思う。
そして演奏がはじまった。
会場内は光り輝いてジミー・ペイジ、ディヴィッド・カヴァーディルから発せられるオーラのようなものが眩しかった。
Drumsのデニー・カーマシ、Bassのガイ・プラット、Keyboardsのブレット・タグルの演奏も素晴らしかった。
ディヴィッドの声は低音から高音まで表現が多彩で鮮烈な美しさ。
ジミーの切れ味鋭いナイフのようなギターはそれまで聴いたことがなかった。
スタジオ録音されたCDでは聴いていたものの、それとは遙かに別の世界を創りだしていて本当に圧倒された。
これは現実?夢の世界?
もしもあの日のメンバー全員を今の時代にタイムマシンで連れてきたとして、あの演奏ができるだろうか?
難しいかもしれない。
その時代に漂っている空気感や破壊力というものがあって、その時代、その日その時にしか出せない音があるのではないだろうか。
この時は知らなかったけれど、このツアーは日本でのみ唯一開催されたということで、かなり貴重な有難い体験だった。
日常を離れた夢の世界からさめて会場を出ると、雪が降っていた。
3年後、機会に恵まれてジミー・ペイジ&ロバート・プラントとの名古屋公演へも行った。
ホワイトスネイクに至っては何回行ったのか数えきれない。
この10月にスピッツの草野マサムネさんがラジオ番組「ロック大陸漫遊記」でデイヴィッド・カヴァーデイル特集をされていた。
楽しいお話で、大笑いして聴いていた。
大笑いしたのはホワイトスネイクに関しての草野さんと「私もそうだった!」と共感したことなので、また別の機会に書くことができればと思っている。
カヴァーデイル・ペイジにも触れられていてとてもうれしかった。
私はといえばデイヴィッドに会って雷に打たれたようになり、ガラスが曇っていれば、デイヴィッドの絵を描いてしまうくらいにおかしな人になっていた。
会いに行こうとしたわけでもないけれど、思い立ったら即行動していた。
あぁ私もあの場所へ行かなくては!
半年後の1994年6月27日にロンドンに向けて飛びたった。
まだ大学に入ったばかりの妹と共に。
母親は、外国に行けば中学生2人にしか見えない娘たちをとても心配していた。
実際にロンドンで会った日本人旅行者の5人組のおばさんたちに
「あななたち、そんなに若くてイギリスまで来ちゃったら、年取ってから行くとこなくなるわよ」
と言われた。
行くところ、なくなるわけないでしょ。
世界は広いのに。
おばさんたちは時間のやりくりやお金のやりくり、家族の理解を得てようやくヨーロッパを旅することができたのだろう。
その当時はまだヨーロッパを旅する人など周りではほとんどおらず、行ったのを知っている人は外語学系の友人くらいしかいない。
イングランド、ロンドンについて知っているのは英語の教科書にのっているビッグベン、国会議事堂やピカデリーサーカスくらいで、私にとっては「どかこにあるところ」、と遠い国のおとぎ話みたいな場所だった。
すっかりイングランドに傾倒していった。
ヒースロー空港の滑走路から機体のタイやが離れるときは、涙が出る。
何で日本に帰らないといけないの。
「40代になったらイングランドに移住する」と周りに宣言したのに、宣言していればそのうちなんとかなるだろうと思っていたのに、未だなんともなっていない。
生まれる場所を間違えてしまった・・・と思ったこともあったけれど、生まれる場所を間違えることはきっとないのだろう。
そうだとしたら、きっとここから向かう意味があるのだろうと思う。
移住どころか長期滞在でさえ簡単ではない国だっていうのに。
最近になってあることを思い出してしまった。
これをやらないといけないのかも。
あぁ面倒くさいな・・・