続・心豊かに生きていける人生を選択しただけ
書く、という行為によって
自分自身を見つめ直し
自分で自分を許し
痛みを手放せる
と、気づいた。
私は、世間一般的に存在する「姑と仲良くなれない」という痛みを抱えて生きてきた。
長女を産んだ時、「家を出よう」とした。
しかし、田舎にはまだ「世間体」という目に見えないしがらみが存在していた。
「兄弟がいないのは可哀想」
次女を授かり、家族をつないでくれた。
そういう使命があることを、彼女は幼い頃から自覚していた。
どれだけ傷つけ合ってきたことだろう。
お互いに「仲良くなりたい」という欲があるからこそ、限りなくこじれる。
「渡る世間は鬼ばかり」のドラマが大好きだった姑。
ドラマに現実を投影していたのかもしれない。
姑を見ていると、
「いい人でありたい」という思いと、
「自分の思い通りにしたい」という気持ちが交錯していたように思う。
私がこの家に入った時から「嫁」の立場は家族の中で一番下位だった。
たぶん、姑自身もそう扱われてきたのかもしれないし、自分でそう思い込んでいたのかもしれない。
だから、かつての自分を私に投影し「嫁」として扱うことで、積年の恨み辛み(?)は解消されたのかもしれない。
こんな風に振り返ってみると、日本の「男女平等」や「男女共同参画社会」の歴史は、まだまだ浅いのかもしれない、と感じる。
人が持つ「念」というものは、人に影響を与える。
だからこそ、
純粋で
明るいエネルギーを交換しあえたら、と思うのだ。
誰かの妬み僻みに引っ張られ、自分の人生を自分でネガティブな方向に持っていってしまうのは、もったいない。
そういえば会社を辞める時、周りから「もったいない」って何度も言われたな。
そう考えると、もったいないのか、そうでないのか、
なんて、
わからないね。
周りから見たら「もったいない」ことでも、
その人生を生きて学んで失敗して成功しているのは、もったいない、と言われている側の人達だから。
今、姑との接点はほとんど無い。
地域の会合で、ご近所さんに会うと「おばあちゃんは元気にしてる?」と必ず聞かれる。
その度に「はい、元気です」と答えるが、姑は膝を痛めてから、引きこもりのような状態にある。
建物は棟が違うので、交流がなければ、行き来することは無い。
お互いに歪み合わない「距離感」を探っていくうちに、ほぼ接点は無くなった。
今回、2日に渡って姑との関係性とこれからの生き方を語らせて頂いた。
私はたぶん、次のステージに向かおうとしているのかもしれない。
もちろん離婚とか別居とか、そういう類ではない。
新しいステージに向かう時、
それまでの自分を振り返り、
全ての膿を出し切って、
まっさらな心で
今までとは全く異なる世界に飛び込んでいく。
区切りの付け方は人それぞれ。
私は今まで生きてきた結婚後の25年間を「書く」ことで断捨離した。
そういう方法もあるのだ、と気づかせて頂いた。
そしてまた、これを読んで下さる方にも、何らかの気づきや赦しにつながっていけたら…と。
自分で思い込んでしまっている目に見えない縛りから、どうか解放されますように。
自分を曝け出すのは勇気が入りますね。
でも、そのおかげで、自分が解放されてきていることを芯から感じます。
今回、そのチャンスを頂けたnoteと読んでくれる皆さんに感謝。
今日もありがとうございます🙏
世界平和は、ひとりひとりの心の内にあります。 共に明るい世界を築けていけたら幸せです。 今日もありがとうございます🌸