『気狂いピエロ』について

1年ほど前、気狂いピエロという映画を見た。たった一度見ただけなのだが、妙に頭から離れない。何故なのかずっと気になっていたが、最近やっとわかってきたから忘れないうちに書き記す。

メタ世界と一次世界

突然だが、この世界は主に2つの階層に分けられる。メタ世界と一次世界。これは、ソシュールという言語学者が言葉という概念において適応したものだが、世界についても当てはまる。まず言葉で説明しよう。

「ねこ」という言葉がある。この言葉は「音」と「意味」の2つに分けられることはお分かりだろうか?

音はまさに僕の口から発せられた「ねこ」という音そのものである。なにぬねののね、かきくけこのこ、この2つの音の組み合わせである。なんの意味も付与されていない純粋な音である。

一方で「ねこ」という言葉には、あの四つ足で、毛が生えてて、素っ気なくて、よくペットとして飼われている所謂動物としての猫の意味が付与されている。つまり、「ねこ」という音に恣意的に動物の猫の意味が付与されている。

これは、この世界全てにおいてそうである。世界は記号でできている。言葉も含めた、何らかの純粋な物事に恣意的な意味が付与されているものを、ここでは記号と呼ぶ。つまり、服は単なる純粋な布であると同時に、社会的な地位や自身の感性を表す記号でもある。立ち入り禁止の看板は、鉄に✖️の色をつけたただの物体であると同時に、危険を示す記号でもある。

そのような世界で、意味が付与されていない純粋な世界が「一次世界」、そこに何か意味が付与されたものが「メタ世界」である。動物や昆虫は一次世界に生きていて、人間のみメタ世界で生活している。(そもそも、恣意的な意味を付与したのが他でもない人間なのだから当然である。)

基本的には、この2つは密接である。通常、一次世界の上にメタ世界が乗っかっている。純粋な一次世界はあるが、純粋なメタ世界はない。一次世界あってのメタ世界である。

ここまでが、ソシュールの言語学を適用した僕なりのこの世界の解釈である。
この前提で、僕の過去の体験を振り返る。

世界が乖離する時

私はこの2つの世界が乖離した瞬間がある。昔の恋人に、とことん人格否定をされた時だ。なにがどういうメカニズムでそうなるのかはわからないのだが、精神的なストレスが原因でまれに起こる現象らしい。

具体的には、赤信号を見て、止まれを意味するという常識に懐疑的になる。「あれは、止まれを意味するものとしてこの世界を生きていたが、単なる赤い光でしかないぞ?もし本当に止まれを意味するなら、あいつはなんでその警告を無視しているのだ?」「警告を無視しても許される境界線はどこなんだ?」「全ての人間は止まれを意味する世界に生きてるはずなのでは?」「じゃあ、あいつが生きてる世界はどこなんだ?」「おれが生きている世界はどこなんだ?」「俺が今まで生きていると思っていた世界と、実際に生きていた世界は別物なのか?」「じゃあ、俺は今どんな顔をしているのだ?人からどんな風に見えているのだ?」「怖い、怖い。俺は今メタ世界にも一次世界にもいない。おかしい、おかしい世界にいる。俺はここにいるべきではない。俺の表情はメタ世界では何を意味しているのか。俺の服装はメタ世界では何を意味しているのか。怖い。人から見られるのが怖い。俺の世界通りの意味が他の人に伝わらないのが怖い。怖い。怖い。この相対世界が怖い。」

当時の心境を文字に起こすとこのようなものだろうか。
この時、私はメタ世界でも一次世界でもない相対世界に生きていた。物事と意味が乖離している、無意味で無価値な世界だった。

そして、この相対世界こそ気狂いピエロが表現した世界だったのだ。
やっと本題に入る。

映画における世界

当然だがあらゆる映画乃至作品には何らかの意味がある。何か意味イコールメッセージがあり、それを上手く伝えるために、脚本や構図、演出、時間、キャスティングなどを考える。基本的に、映画乃至作品の製作には全て何らかの意味がある。

一方で、戯曲「ゴトーを待ちながら」に代表されるように、意味がないことに意味があるいわゆるナンセンスものも存在する。

私は、この2つの関係は、まるでメタ世界と一次世界の関係であると感じた。
(直喩は本来もう少し慎重に行うべきだが、ただの映画の感想を述べたいだけなのでここでは免じていただきたい。)
一般的な映画はメタ世界。
ゴトーを待ちながらは一次世界。

それでは、その2つが乖離した相対世界に相当する映画は何かというと、それが「気狂いピエロ」だった。

気狂いピエロという世界

この映画は凄い。ストーリーを一言で言えば「男が女を追いかける」話なのだが、全く意味のないシーン、全く意味のない会話、全く意味のない登場人物が頻繁に出てくる。詳しくはネタバレになるから伏せるが、ストーリーに全く関係していないセリフやカットがここまで多い映画はない。メタ世界と一次世界が乖離しているのだ。

ぜひ、見て感じて欲しい。この、映画にあるまじき意味のなさ。意味のないことに意味があるのでなく、本当に意味がないのだ。全くの無価値。そう、僕がかつて陥った相対世界そのものだったのだ。

僕が偶然迷い込んだあの世界を、ゴダールは映画で表現した。僕があの世界で感じた違和感をゴダールは忠実に再現した。
ここだった。この映画が頭から離れない、本当の理由は。
やっと、やっとわかった。
ぜひ、気狂いピエロ、見て欲しい。
あの僕が陥った世界を、フィクションで体験できる唯一の作品だから。

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全てフランス人のせいにするブログを書いています。
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