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大それたこと

お盆の時期の墓参りが好きだ。
どのお墓にも色とりどりのお花がたくさん生けられて、
歩いているだけで楽しい。
青空が広がり、その下に連なる墓石、白や黒色の花崗岩がコントラストになって花々の鮮やかさがさらに冴えわたる。

蝉の声の大合唱の間をぬうようにして、
墓参りに訪れた家族たちの楽しげな話し声が聞こえてくる。
お供えを狙うカラスたちが頭上でカァカァとなき、
彼らが止まり木にしている境内で一番大きいケヤキの木は、
風が吹き抜けるたびに葉を表裏にしてからからと音をたてる。



終戦の日がお盆の季節と重なっていること。
この偶然の重なり(あるいは当時、何かしらの意図はあったのかもしれないけれど)に大いに意味があるように感じられたのは今年が初めてだ。

墓参りの前日、私はお仏壇の掃除をした。
その際、祖父の位牌の中から曾祖父母や曾祖父・曾祖母それぞれの両親、
また、戦時中に齢2才で亡くなった祖父の妹のお位牌が出てきた。
これまで知る由もなかった人々の名に出会った。

この人たちは明治後期、大正、昭和前期を生き抜いてきた人々だった。
今では歴史用語で「近代」と呼ばれる時間のなかに、私の血縁の方々もいたのだと思うと不思議な気持ちになる。
と同時に、私自身の体と思考が何よりもその証なのだと納得もする。

彼らはいったい、どんな生活をしていたのだろう。
何があって、何がなかったのだろう。
何を考え、何に心を寄せ、何に喜び、笑っていたのだろう。
何を食べていたのだろう。

当時のことは全く想像がつかないような気もするけれど、
大事なことは今と全く変わっていないような気もする。

ただ日々をつなぐこと。
衣食住、そして心の充足が満たされること。それを願うこと。

自分のため、家族のために
これらの願いのかたちを発露させ、努めることが
彼らの「生活」の根っこだったのではなかろうか。

だとしたら、今の私たちにも十分に通ずるものがある。

でももしかしたら、彼らの知らぬ間に、
共同体や国という全体のために
彼らの幸福の根もとがすり替られていたこともあったのではないか。

そこまで考えて、私は背筋がぞぞぞとした。

墓石に冷たい水をかける。
眩しい夏の花を茎をそろえて切り、生ける。
ろうそくを灯し、線香をくゆらせる。

墓前に手を合わせ、私は自分の心に今一度念じた。

「必ず、変わらなくてもいい生活を守ります」

戦争反対などと声高に叫ばずとも
こうして日々を守ることを誓う力の方がどんなに強いかと思う。
まして、多くの人々がそうであったなら。

私は、この「大それたこと」を死ぬまで続けていきますよ。

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