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僕の中で最もオンラインな臓器、河原にて。〜とりとめたい、とりとめない。③〜

僕は河原の近くに住んでいるので、たまにそこで散歩をしたりします。気晴らしに、とか運動不足解消のため、とかではなく、多くの場合は「もったいない」という思いから散歩をしようと思い立ちます。

イヤホン、イヤホン、イヤホン。

学校、スタジオ、バイト、というサイクルで日々を消化していると、たまに

なんでこんなに天気のいい日に、屋内でせっせと活動しなければならないのだ」という気分になります。

だから僕はフリーな日に晴れているのを見ると「この晴れ間を存分に味わずしてどうする、もったいない」と、河原へと突き動かされるのです。

その河原にはランニングコースとして整備されている部分があり、そこをずっとまっすぐ歩いていきます。

その散歩のお供は、友達から教えてもらったアーティスト、気になっていた新譜、ためていた深夜ラジオ、書き起こしを控えたインタビューの録音などです。

こうやって河原と日差しを満喫しているのは僕だけではなく、

ウォーキングに興じる年配の方、

学校名が書かれたジャージを着て走る高校生、

ボールで遊びながら、走ったり止まったりを繰り返す親子、

などなどたくさんの人に出会います。

すれ違う人を観察することが少なくないのですが、僕も含めて、なんてイヤホンをしている人が多いのだ、と思わされます。

僕と同世代だろうという人はもちろん、(おそらく)運動不足解消のためランニングしているお父さんの耳にもワイヤレスイヤホン。わりかし年配の方でもそうです。

だから歩きながら思ったのです、自分の中で一番ずっとオンラインな臓器は耳だろうな、と。

目と耳の分離

家での自由な時間、僕がしていることといえばアマプラで映画を見るか、スマホでゲームをするか、読書をするか、こうやって文章を書くかです。

最初に言った2つは言うまでもなく耳はオンラインですが、ときに後者2つをし「ながら」音楽を聴いたりもします。

ここで注目したいのは、「耳と目」セットでオンラインの時代から、「耳」単体でオンラインな時代へと移り変わってきているということです。耳をオンラインにする手段が増えてきているんですよね。

動画のBGM化

というわけで、耳がオンライン状態になるとき、享受しているコンテンツについて見ていきます。

サブスクリプションサービスの台頭によって月額聴き放題が当たり前になりつつある音楽、

手軽になった個人での音声発信サービス、

そしてYoutubeプレミアムによって公式化した「BGMとしての」動画

もうこの先一生耳をオンラインにしていたとしても、消費しきれない量のサウンドコンテンツでインターネットは溢れています。

サブスクリプションによって、音楽や音声コンテンツの単価が下がったことで、耳にとって可処分な時間が増えたこと。

そして、動画・ライブ配信サービスや専用アプリの普及と、そしてYoutube上での音声コンテンツのメジャー化で、個人単位の発信で可能になったこと。

この2つは、爆発的に耳のオンライン時間を増やすことにつながったと思います。

特にYoutubeにおける「動画のBGM化」は、耳のオンライン時間が増えた決定的なタイミングだったように感じます。

TVでしかやらなかったような「対談」の配信が増えたのはこの現象が始まってからだと感じています。

「2窓」からバックグラウンド再生アプリになり、Youtubeプレミアムまで到達した今、もはや画面を見ないことを前提に、情報量を「話」に傾ける人も多いです

コンテンツ全部見東大生こと大島育宙さんや、最近YouTube上でラジオを始めた東野幸治さんなんかが良い例かと思います。

耳の拡張現実としてのASMR

そしてこれは別の次元で紹介しなければならないのが「ASMR」というコンテンツの存在です。

いわゆる「音フェチ」動画と言われるそれらは、野菜を切る音や、チョコレートのパキパキ割れる音、咀嚼音、スライムをこねくりまわす音、耳かきの音なんかを(人間が気持ちいいと感じる部分を増幅させて)擬似的な耳で録音したものです。

これらはこれまでの人間の耳がオンラインで享受してきたコンテンツとは一線を画す、「耳の拡張現実」です。

観客として音楽も対談も受け取って来た我々が、初めてコンテンツに「自分の耳を(しかも会話以外において)投影して」受け取る。これは革新的と言わざるを得ません。

「他人の物語」をテレビや映画で享受する時代から、「自分の物語」をSNSで発信する時代へ―といろいろな場で言われていますが、その流れがついに個人単位ではなく「臓器単位」で始まったということだと言えると思います。

オフラインな時間=「リッチ」な時間

ではここからは、逆に耳にとってオフラインな時間がいつかということを、これも自分自身の生活をもとに、振り返ってみようと思います。

オフラインであるということ、それはスマホの電源を切っている時間とイコールと捉えていいのではないでしょうか。そう考えると映画館にいるとき、そしてライブハウスでライブを見る時間がぱっと浮かびます。

「アナと雪の女王」から始まったミュージカル映画、もっと正確に言えば「リッチな音に心を揺さぶられる映画」のブームは、とどまるところを知りません。

「ララランド」「ザ・グレイテストショーマン」に代表されるこれぞミュージカル映画というものを始め、「ボヘミアンラプソディ」のような有名アーティストの伝記ものもヒットしています。

そしてこの流れは、アナ雪以後のアニメーション映画界にも例外なく影響を及ぼしており、「シング」(とそのカウンターとしての)「リメンバー・ミー」など、より直接的に「音楽の力」にフォーカスした作品がヒットしたこと方も明らかかと思います。

逆に言えばこの潮流は、

超リッチなものを求めなければ、iPhoneのスピーカーやmp3で十分

ということを同時に示しているように思います。音質の二極化とでも言うべきこの現状は、ライブハウスにとってもかなり密接な問題です。

前述した「超リッチな音」というのは、聴くこと自体が強烈な体験になり得るものです。ライブにも、今は同じものが求められていると感じています。

これは何も、SEKAI NO OWARIやPerfumeに代表されるような、演出的に凝ったステージパフォーマンスについてのみを言及しているのではありません。

この記事でも書いた通り、ライブハウスを「クソな日常」を相対化して得られる、特別な非日常を浴びるための場所、として捉える人も少なくない現状がある。リッチな音を浴び、それ自体非日常としてそれをまた浴びる構図です。

これはインディーズシーンから世界規模のツアーを行うアーティストまで共通していることだと思います。

最後にもう一つ、思い浮かぶ耳がオフラインの時間があります。

それは勉強や読書、そしてスポーツや試験など「超集中を要する」インプット/アウトプットの時間です。これは何も説明する必要はないでしょう。

本当に集中したいとき、文字通り人は「五感を研ぎ澄ませる」ものです。もっと踏み込んで話すとすれば、特に「読書」「スポーツ」は、オンライン疲れとも呼ぶべき現代社会特有のストレスを発散するための手段としても用いられます。

だから、まとめると残された耳のオフライン領域は、4Gでは送信できない超リッチな音体験と、集中のための静寂、だけなのではないかと思います。

河原のオンライングラデーション

最後に、また河原を歩いている僕にカメラを向けようと思います。

ランニングコースの隣は少し低くなっており、そこは市民が自由に使えるグラウンドというか、公園のようになっています。

そこではいろんな年齢の子どもたちが主に遊んでいます。小学校中学年ぐらいまでの子どもたちは、サッカーや野球に夢中です。でも、10代前半ぐらいかな、という年齢の子供たちになると、階段やベンチに座って各々のスマートフォンを見ながらお話していることが多いです。

そして僕の向かいには、そういったインターネットと出会って夢中になる時期を経て、「オンライン疲れ」となり、そのストレスを「スポーツ」で発散するおじさん。

そしてその耳にはAirPodsがはめられている。こうしてみると、インターネットに出会ったその瞬間から、耳はしぶとく、オンライン時間の長い臓器ランキング1位の座を譲らないのだろうな、とそんなことを思ったりしたのでした。

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