白燃ゆる

「…俺、次の試合勝ったら告白すんねん。」
「いやそれ死亡フラグやん。」
グラウンドで白球を追いかける彼の背中を思い浮かべながら、わたしはついさっき彼と交わした会話を思い返した。

彼が蒸し暑い校舎の中に、ましてこの教室に来るなんて、一体何事だろうと思った。普段なら絶対にありえない。この時間、いつも彼はグラウンドを走り回り、わたしはこの教室でひとり楽譜と向き合っている。今日もいつも通り練習を始めようと、楽譜を目の前に置き、膝の上の楽器にオイルを挿そうとしていた時だった。
夏の校舎に立ち込める熱気に負けないように、窓も扉もいつも全開にしている。それでも吹き込んでくる風は生暖かく、いい加減クーラーの設置を検討してもらわねば、いつか誰かが倒れるだろうな、なんていつも考えてしまう。
そんな全開の扉から、彼が顔を出した。いるはずのない人がそこにいて、わたしは「えっ」という短い言葉と共に一瞬思考が止まった。
「ここで練習してる思たわ。」
わたしの思考が追いつくより先に、彼が話しながら教室に入ってきた。
「な、なんでここに…」
ようやく言葉が絞り出せた時には、彼はわたしの目の前に来て、近くにあった椅子を取ってドカリと座った。教室の気温が、少なくとも2度、上がった気がした。
「今、10分休憩やねん。いつもやったらグラウンドの陰で水飲んでんねんけど、今日ちょっとお前に言いたいことあって。」
「えっ」
予想だにしない彼の言葉に、今日2回目の言葉を発した。
彼とはもう3年目になる友人同士だ。クラスメイトとして仲良くしながら、部活での不思議な繋がりがあったため、他の子よりは仲良くしているとわたしは思う。
部活が同じわけではない。
むしろ運動部と文化部という、両極端に位置する部活だ。だが、夏になると彼の部活をわたしの部活は部員総出で応援することになっている。なぜ彼の部活だけ、特別に応援するのかは分からない。
分からないけれど、それは一夏の風物詩として、この国に根付いているものだ。
だが、逆に言えば彼とわたしはクラスメイトと部活以外の繋がりはない。幼馴染みでもないし、隣の席でもない。
そんな彼が、わざわざ休憩中にここまでやって来て、わざわざわたしに言いたいことがあるなんて、一体全体何なのだろう。わたしは、彼が口を開くのを緊張しながら待っていた。
やがて彼の大きな口が開いて、スッと息を吸い込んだ。
「次の試合、めっちゃ応援して欲しいねん。」
「へ?」
ぶわりと教室に吹き込んだ風は、いつも変わらず生暖かくて気持ちが悪い。額に汗を滲ませながら、一体何を言われるのかと思いきや、力いっぱい応援してくれ、なんて、わたしたちがやるべき本来の役割を改めて頼んできただけだった。
「なに、なんでなん?」
彼が改めてそんなことを言う理由が分からずに、わたしは手に持ったままだったオイルを机の上に置きながら尋ねた。
「次の試合に、賭けてんねん。」
「なにを?」
わたしの質問に、彼は少し俯き、額の汗を右手で拭いながら答えた。
「…俺、次の試合勝ったら告白すんねん。」
「いやそれ死亡フラグやん。」
驚きよりも先に、ツッコんでしまった。生まれ育ったこの土地柄のせいだ。
わたしの言葉に彼は、はは、と軽く笑って立ち上がった。座っていた椅子を元あった位置に戻しながら、彼が言葉をつなげる。
「でも、結構本気やねん、俺。」
椅子から手を離し、振り向いた彼の顔を、わたしは初めて見た。彼がこんな真剣な表情を隠し持っていたなんて、3年目にして初めて知った。
誰に告白するつもりかは、聞かなくても分かっている。以前教室の片隅で、部活仲間たちとその話をしているのを、ちらりと耳にしたことがある。
来る日も来る日も、照りつける太陽の下で白く光る球を追いかけ続けている彼は、次の試合に勝ったら、なんてらしくないおまじないをするほど、彼女に惚れているらしい。
「そんなん言うてへんと練習しーや」
いつになく真剣な眼差しで話す彼の目を見るのが嫌で、わたしは目を逸らした。蒸し暑い教室の温度が少しは下がるだろうか、なんて思いながら、わたしは素っ気なく、冷たい言葉を返した。
「そりゃそやな。ほな、そういうことで、応援頼むで!」
意地悪く、嫌悪を隠しきれない返事をしたというのに、彼はそれに気づいていないようだった。いつも通りにかっと笑って、グラウンドへと飛び出していった。

つい3分前に起きた出来事を、頭の中で整理していると、外からカキン、と乾いた音が聞こえた。
彼が上を見ながら走る姿が思い浮かんだ。
見なくてももう、脳裏に焼き付いている。
本当は、ひたすらに、ひたむきにボールを追う彼の姿を、わたしはずっと、追いかけていた。
幼馴染みでもない。隣の席でもない。でも、ただのクラスメイトでもない。3年前の夏、この教室からふと見たグラウンドで、彼がボールを追いかけていた。わたしはその背中の、潔く燃えるような白さに、思わず目が眩んだ。何かを追いかける人は、見たことのない白い光を放つことを初めて知った。
その時から、わたしは彼の背から目が離せなくなり、教室にいても、グラウンドにいても、自然と目で追ってしまうようになっていた。やがて、彼の輝きが増すのは、グラウンドにいる時だと気がついた。
夏の太陽の突き刺すような光に反射して、白い球はきらきらと輝く。そのひとつひとつを必死に追いかける彼は、まるで神様の光を集める聖者のようだった。眩しくて手など届かないと思ったわたしは、ただ彼の背を見続けて、その背に向けて勝利の讃歌を投げかけることに徹すると決めた。
わたしはこの国に根付く不思議な風習に感謝して、少しでも彼の背中へ届くようにと、黒い音符を追いかけた。
手はきっと届かない。でも、その背中に1番近いところから、追い風を吹かせてあげたい。彼の輝きが増すように。白い光が、グラウンド全体を包み込むように。
そんな思いで、3年間、彼を応援し続けてきた。これは、好き、という感情よりももっと尊いものだと思っていた。決して真正面からは向き合わないが、影で彼を支える存在であると自覚していた。だから誰にも言わなかった。この3年間、ひとりで大切に抱えてきた。
なのに、いつからだろう、わたしは彼が振り向いてくれるのを待つようになっていた。振り向いて、真正面から向き合ってくれるのを待っていた。
見返りを、求めていたのだ。
自分でも無自覚のうちに加速していたその感情は、初めの頃の無垢な気持ちを取り殺し、次第に大きくなっていた。自分が応援にかけたこの熱量に見合ったものを、彼もいつか返してくれるだろう、そんな思いでいっぱいだった。
彼がそれに気づいていたのかは分からないが、純粋な気持ちを失ったわたしに、神様は罰を下した。
初めて真正面から向き合った彼は、見たことのない真剣な顔をしていた。彼があんな顔をするなんて、わたしは少しも知らなかった。
3年間、ずっと支えてきたつもりだったが、結局それは、背後からの、一方的なものでしかなかったと、ようやく気がついた。
いくら後ろから追いかけても、追いつけなければ気づいてはもらえない。見返りを期待するなんて、ハナから御門違いだよ。
初めて正面から向き合った彼はやはり聖者だった。神様の言葉を提げて、わたしの前に現れた。
あーあ、こんなことになるなら応援なんてするんじゃなかった。
こんな思いを抱えてしまうわたしは、やはり彼には似合わないのだろうか。

目の前の楽譜に目をやった。
ずらりと並んだ黒い音符たちが、さあ今日も俺たちを追いかけてみろと威圧的に挑発してくる。
彼が追いかける白と、わたしが追いかける黒。
せめて追いかける物が同じ色をしていたなら、少しは彼に近づけただろうか。
わたしは立ち上がり、開けっ放しの窓の前に移動した。
視界に広がるグラウンドは、やはりハッと息を飲むほど真っ白だった。彼のユニフォームも、帽子も、散らばる球たちも。
その白は、夏の光に反射してチカチカと輝き、眩しすぎてわたしには何も見えない。
「…やっぱ敵わへんよなあ」
そう独り呟いて、目尻に溜まった水を拭った。
ずっと膝に置いたままだった楽器に口をつける。暑すぎる教室の中で、唇に当たる金属の冷たさが心地よい。すっ、とぬるい空気を肺いっぱいに吸い込んで、グラウンドに向かって吐き出した。
どうかこの音に気づいた彼が、少しでも微笑んでくれたらいい、そして、追いかけた白球の先で彼の願いが叶えばいいと、わたしはまた性懲りも無く、彼の背中に想いを馳せた。

#小説

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