雪の彼女

まるでここだけ世界から切り離されているような、そんな孤独な道を、ただひたすらに歩いている。周りには木々が生い茂り、時折風に吹かれて揺れる。ザワザワというその木々の音が、ここから先に進むのは良くないことだと警告しているように聞こえる。

秋は少しずつ形を変えて、もうすぐ冬が訪れる。空気の中に見えない透明な粒子が混ざり込み、すうっと吸い込むだけで身体の中がきらきらと浄化されるような、そんな季節がやってくる。

この道を歩くのは2回目だった。前回歩いたのは今からちょうど1年前のこの時期だ。慣れた足取りで進む先輩の後ろを、遅れないように着いていくので精一杯だったことを覚えている。先輩は、俺もこの道にすっかり慣れたもんだな、と時々振り返って微笑んだ。

緩やかなのぼり坂に差し掛かり、はあっと息を吐いた。もうすぐ着く、と気合いを入れると同時に、空気の透明度が増していく。ふと空を見上げると、ちらちらと白いものが舞っていた。

「早いって思うだろ。でも、ここでは年中こうなんだ。」

先輩の声が頭の中で蘇る。去年初めてここに来たとき、あまりにも早い冬のしるしに驚き立ち止まった私に、先輩が教えてくれた。

坂道を登り切ったとき、私はすっかり息が切れていて、呼吸を整えるために数秒立ち止まった。目の前には白い粒子の中でひっそりと佇む小さな家がある。人がひとりで住むのにちょうどいい大きさのその家は、いつも青白く輝いて見える。屋根の上にうっすらとかかった白いベールは、決して溶けることはなく、夏にここを訪れたことはないが、きっとこの家の周りは夏でも青白い空気に包まれているのだろうと思った。

首元に巻いたマフラーをより一層強く巻きなおして、私はその家の呼び鈴を鳴らした。ビーッという無機質な音の響きを聞きながら、この家の住人が出てくるのを待つ。

「はい。」

扉の奥から女性の声がした。聞き覚えのある声だ。

「すみません。郵便です。」

私は、やや分厚めの木製の扉の向こう側に向かって、話した。

「今開けます。」

がちゃりと鍵が開く音がして、やがて扉がゆっくりと開いた。

「お久しぶりです。」

私は、被っていた帽子を取って、ぺこりと頭を下げた。目の前に現れた女性は、ほぼ何も、1年前と変わりなく見える。

「遠いところありがとうございます。どうぞ、中へ。」

「失礼します。」

広く開けてもらった扉の向こうに、足を踏み入れる。その部屋の空気は、室内であるはずなのに外よりもずっと澄んでいて、鼻の奥がつんとするような冷たさだった。

「ごめんなさい、寒いでしょう。」

「いえ、お構いなく。」

部屋に入ってもマフラーと取らない私を見て、彼女が申し訳なさそうに言った。そういえば、去年先輩は部屋に入るなりマフラーを取っていたな、と思い出した。この空間に慣れていない私には、今はまだ出来そうにない。

彼女は、この部屋の中でも季節外れの半袖のワンピースを着ていた。淡い水色のワンピースは、彼女とこの部屋が放つ温度を、1度でも低く保とうとしているかのようだった。

「では、今年の手紙です。」

私は、肩に提げていた鞄を床に置き、中から手紙の束を取り出した。様々な封筒に入れられた手紙たちは全部で10通ほどで、茶色の紐で一纏めにしてある。

「ありがとうございます。」

彼女はその束を受け取り、しゅるりと紐を解いた。差出し人たちの名前を確認しながら、彼女の表情が緩んでいく。年に一度のこの時を、きっと彼女は心待ちにしているのだろう。

すべてお間違いありませんか、と私が尋ねようとした時、彼女はおもむろにひとつの封筒をびりびりと開封し始めた。

私が驚いて見つめる中、彼女は夢中になってその手紙を読み始めた。やがて、文字を追っていた目の動きが止まると、彼女の瞳からぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちた。両手で握りしめた手紙の上にぽたりと落ちたその雫が、冷気を放ちながら一瞬で凍り付いていくのを見て、私は目の前の女性が人間ではなく、雪と氷の世界で生きる女性であることを改めて認識した。

ぽろぽろと涙をこぼし続ける彼女から、その理由を聞きだし宥めてあげたい気持ちになったが、手紙の内容については一切触れてはならないという決まりのもと、私は何も言うことが出来なかった。

「郵便屋さん、ごめんなさい。」

すん、と鼻をすすりながら彼女が言った。

「大丈夫ですか。」

私に言える精一杯の言葉を絞り出し、彼女の濡れた瞳を見た。去年は楽しそうに手紙を受け取る彼女しか見ていなかったが、泣き顔を見てはっとした。きっと彼女はこの瞳で、悲しい思い出をたくさん作ってきたのだろう。そして、今彼女が泣く理由もまた、彼女自身が招いた悲しみのせいなのだろうと気が付いた。

「一通だけ、お返事を書いてもいいですか。」

「もちろんです。お届けします。」

そう言うと、彼女は立ち上がり、引き出しの中からペンと紙を取り出した。窓際に置いてある机に向かい、彼女が手紙を書いている間、私は部屋の中をぐるりと見渡した。去年と変わりなく思えるその部屋の片隅に、私は見覚えのあるマフラーを見つけた。

あのマフラー、どこかで…と思い出そうとしていると、カタンと、彼女がペンを置く音が聞こえた。

「これ、届けてもらえますか。」

そう言いながら彼女が差し出してきた封筒の宛て名を見て、私はえっ、と声をあげた。

そこには、紛れもなく、先輩の名前が書かれていた。

「あの、これは、どういう、」

私がただ驚いていると、彼女は部屋の隅へと向かい、あのマフラーに手をかけた。

「これも、返してもらえませんか。」

「それは…。」

私は、去年の記憶を必死に探った。見覚えのあるマフラー。それを巻いていた人物の姿が、脳裏に浮かび上がる。

「あの、先輩は、転勤されて、去年で最後で、なので、今年から私に代わってて、なので…。」

頭の中で状況を整理しながら、自分が知っていることを伝えようと必死になった。混乱すると、こんなにも言葉が出てこないものなのか、と変に感心してしまう。

「それを手紙で言うなんて、卑怯な人だわ。」

しどろもどろな私とは対照的に、彼女は落ち着いた声でぽつりとつぶやいた。

「去年、あなたが一緒にいらした時から、きっと何かが変わるのだと思っていました。ここ5年間、ずっとあの人一人が、私の担当でしたから。」

静かに話す彼女は、まだ少し濡れたままの瞳を伏せた。

「でも、去年ここにマフラーを置いて行ったのに気が付いて、もしかしたらまた来てくれるのかもと期待してしまいました。だから、待っていたんです。」

「なんで、先輩…」

聞きたいことがありすぎて、なんと尋ねればいいのか分からなかった。きっと何を質問しようと、彼女の心を傷つけてしまう。

「きっと、お別れのしるしにでもしたかったのでしょうね。」

手に取ったマフラーに、彼女は一瞬懐かしむような表情を見せた。その表情の奥、決して触れることのできない深い闇の中に、彼女の行き場のない思いが隠されているようだった。

「でも、こんな気持ちには、正直慣れています。あの人だけが私を傷つけたわけではありません。明日にはきっともう忘れています。なので、これももう、返してもらって構いません。」

ずい、と胸元に突き出されたマフラーを見て、これを巻いていた先輩の姿を思い返した。ここに来る時、必ず巻いていたのであろうそのマフラーは、5年の歳月とともに糸が解れ、彼女の手の中でくたりと力なく垂れている。

これを、彼女の手紙と共に先輩の元に送り返すことは正直容易い。郵便屋の職権を活かして、最短1日で届けることも可能だ。そして、それがこの依頼者の願いであれば、私は今、迷わずこれを受け取って、すぐに配達の手配を整えるべきなのであろう。

でも。

「すみません。こちらは、お届けできません。」

私がそう言うと、彼女は驚いた表情で私を見つめた。透き通るような瞳と目が合った。気を抜くと射抜かれてしまいそうなほど、透き通った瞳だった。

「どうしてですか?」

「こちらは、先輩の意志によって、ここに置いていかれたものなのでしょう。私たちは郵便屋ですが、ただ手紙や荷物を言われた通りに届けるだけの仕事はしていません。生意気なことを申すようですが、ここに置いて行った先輩の思いを、大切にしてはもらえませんか。」

「依頼を断るおつもりですか?」

「申し訳ありません。でも…」

先輩はきっと、軽い別れのしるしとして置いていったわけではないはずだ。去年私を連れてここまで歩く途中、生い茂る木々や緩やかな坂、その先に見える小さな家、降り積もる白い空気にさえも、愛おしそうな表情を浮かべていたことを、私は思い出していた。

「先輩も、ずっとここに来たかったはずです。でも、どうしてもそれができなくて、どうしてもあなたと一緒にはいられなくて、これを置いていくことで、せめてもの形として残したんだと思います。」

「何を残したつもりなの?」

「私にもはっきりとは申し上げられません。ただ、何か先輩の中には、あなたに忘れてほしくない気持ちがあったのだと思います。」

「…そんなの、私には分からないわ…。」

彼女はもう一度、手元のマフラーに視線を落とした。

きっと彼女はこれまでも、こんな思いをするたびに、心の中を切り替えて、思い出ごと捨ててきたのだろう。そうすることで、一人の生活に慣れてきたのだろう。こんな思いを抱えたところで、この先一生、誰とも生きては行けないと、自分に言い聞かせながら歩んできたのだろう。

「一緒にはいられないのよ、何をしたって。それならば、もう、思い出ごと捨てるのが一番楽だったの。」

彼女のそんな言葉が聞こえてきそうだった。

「先輩は、去年ここに来る道の途中、寒いはずなのになぜかずっと楽しそうでした。先輩がここを訪れていた5年間、あなたとどんな会話をしていたかは分かりませんが、私に何も言わずそっとこの手紙を紛れ込ませたのも、きっと何か伝えたい思いがあったからなのでしょう。」

すると彼女はすたすたと窓辺に向かい、机の上に無造作に置かれたままだった先輩からの手紙を手に取った。

「これ、読んでください。」

そう言いながら差し出された手紙を前に、私は一瞬戸惑った。依頼者の手紙を読むなんて、御法度だ。私が手紙を受け取れずにいると、彼女は自ら声に出して読み始めた。

「5年間、ありがとう。楽しかったです。ここに通うのは、毎年の楽しみにしていました。僕は転勤となりますが、後輩は必ず毎年あなたの元へきちんと手紙を届けます。だからどうかこれからも、手紙を楽しみに待つあなたでいてください。僕たち郵便屋にとって、その姿ほど、見ていて幸せになるものはありません。本当に…ありがとう…。どうか、お元気で…。」

ぽたりぽたりと、彼女の目から再び冷気に満ちた雫がこぼれた。

「この手紙ひとつで、私を慰めたつもりなの…?」

「分かりません。でも、私には、先輩にとってあなたは特別な存在だったということがはっきりと分かります。」

「…今までのお別れとは、何かが違うわ。こんなに悲しくなるなんて…。」

「でしたら、その思いごと、どうか捨てずに仕舞っておいていただけませんか。ここに残った先輩の思いは、きっと捨てる方が難しくて、捨てようとするあなたを、ずっと苦しめる気がしてなりません。」

「仕舞っておくなんて、一体どこに?私はこれからこの先ずっと、その思いを抱えて生きていくって言うの?」

縋るような目で見つめられ、私は胸の奥が痛くなった。

「…抱えて生きる必要は、ないと思います。ただ時々、あんなこともあったなと、思い出して懐かしく思うだけで、あなたも先輩も、今よりは少し幸せになれるのではないでしょうか。」

「…幸せ…。」

ぽたぽたと、雫が落ちる音だけが、しばらく部屋の中に響いた。無責任なことを言っている自覚はあったが、心まで冷え切った彼女にどうか伝わればいいと、願いを込めた。

「これから、私が、毎年ここに伺います。私は先輩にはなれませんが、楽しみに待ってくれているあなたの元へ、必ず手紙を届けます。」

はっと顔を上げた彼女の瞳は、冷たい水で満たされていた。止まることなく流れていたが、初めに泣いたあの時よりも、少しばかりのぬくもりが含まれているように見えた。

「…もう、あの人には会えないんですね。」

「…先輩の転勤先は、詳しくは申し上げられませんが、ここより遥か南の土地です。」

「…そうですか。」

「…マフラーはお届けできませんが、お手紙ならいくらでもお届けしますよ。」

私がそう言うと、彼女はくすりと微笑んだ。

「…随分勝手な郵便屋さんだわ。」

「…すみません。」

自分でも薄々感じていた思いを口にされ、気まずくなった私が謝ると、彼女はまた、微笑んだ。

「…少し待っていただけますか?手紙、書きなおします。」

「もちろんです。」

彼女は再び机に向かって手紙を書き始めた。ほんの数分で書き終えると、彼女は私にそれを差し出した。

「あなたにも読んでほしいので、今ここで読んでください。」

「え、でも…。」

「あなたと、彼宛て、ってことで。」

「…拝見します。」

私は、差し出された手紙を受け取って、ゆっくりと開いた。

こちらこそ、5年間ありがとう。あなたとの思い出は、マフラーと一緒にここに置いておきます。あなたの後任さんは、少しおせっかいだけれど、とてもいい人ですね。私はまた、手紙を楽しみに過ごせそうです。本当にありがとう。それでは、どうかお体にお気を付けて。

手紙を読み終えて顔を上げると、少し気恥ずかしそうな彼女がこちらを見ていた。

「それで、大丈夫でしょうか?」

「はい、もちろんです。手紙には、何を書いても自由ですから。」

私がそう微笑むと、彼女もつられて微笑んだ。この部屋の気温は低いままで、私は結局マフラーを外せなかったが、少しだけ体温が上がった気がした。

「では、こちらの手紙、責任を持ってお届けいたします。」

「宜しくお願いします。」

玄関先まで見送ってくれた彼女に、今一度約束をする。

部屋の片隅に戻されたマフラーに目をやって、私は気を引き締めた。

「来年も、また来ます。」

「はい、楽しみに待っています。」

がちゃりと扉を開けて外に出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。

「ありがとうございました。」

最後にそう言い、深くお辞儀をした彼女に、私も深々と頭を下げた。

私の姿が見えなくなるまで見送ってくれるのであろう彼女の姿を予想しながら、私はひとり、白い光の粒子の中を歩き出した。

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