光芒

「なんなのよ急に」
そう言って僕の顔を睨みつける彼女を前に、何も言葉が出なかった。

日曜日、昼下がりの午後、穏やかなクラシック音楽が流れるカフェ店内で、僕と彼女は向き合っている。窓の外は、少し寒くなってきたこの頃に合わせて、ストールを巻いてみたり分厚めのコートを着てみたり、冬支度を始めた人々がわらわらと行き交っている。

みんな楽しそうだな、と目の前の彼女から目を逸らしながら思う。

「どういうことなの、仕事辞めるって」

彼女は僕が数分前に発した言葉から受けた衝撃が隠せないようで、未だ興奮したままだ。

「どういうことって、そういうことだよ。言葉のままだ。僕は仕事を辞める。」

「そんな唐突に辞めるって何なのよ。先のこと考えてるの?」

「いや〜〜まあ…それは追い追いね…」

僕の曖昧すぎる返事に、彼女の興奮とも怒りとも取れるボルテージがまた一段階上がったのが見えた。

「わたしとはどうするのよ」

そうだ、彼女の興奮そして怒りの原因はそこにある。付き合って3年、順調に行けば結婚も見えてくる歳の2人。それが今になって、彼氏の僕が急に仕事を辞めるとなれば、彼女の将来への不安は急上昇、僕への当たりもバシバシに強くなるはずだ。

「僕が決められることじゃないよ」

「別れてもいいってこと?」

「僕にはそれを決める権利がないってこと」

「わたしに全ての決定権を譲るってこと?」

「まあ、そうだね」

彼女ははあ、と深いため息をつきながら腕を組んで椅子に背中を預けた。このままだときっと長くなるだろう。ただ、3年間彼女を見てきた僕にはもう分かっている。悩みに悩んだ末、彼女はきっと別れるという決断を下す。サッパリした性格の彼女は、自分の人生や将来の妨げになるものは全て取っ払いながら生きてきた。そしてその生き方はこれからも変わることはない。

「あなたの人生はあなたのものだから、わたしが口出しすることはできないけど、」

「うん」

「そのあなたの人生の中に、わたしの居場所は用意されてないってことになる?」

君の居場所…そう声に出そうとして留まった。
用意していなかったわけでない。もちろん結婚も考えていたし、これから先も隣にいてほしいと思う相手だ。でも僕に今更それを伝える権利はない。僕の勝手に彼女を付き合わせることはできない。

「君にはきっともっといい居場所があるよ」

「ふーん、そういうこと言うんだ」

彼女は相変わらず腕を組んだまま、僕をまっすぐ見つめている。

「あなたがわたしをあなたの人生から追い出したいってことはよく分かりました、つまりは別れてもいいとあなたが思っていることも、よく分かりました」

僕は黙って俯く。

「でもわたしは思ってません」

ん?どういうことだろうと尋ねようと顔を上げる前に、彼女が続けた。

「あなたがどれだけ勝手な罪悪感を感じて、わたしを追い出そうとしても、わたしはあなたの人生から出て行ってやるつもりはないわ」

強く言い切った彼女の瞳が、真っ直ぐに僕に向いている。思いもかけない言葉に、頭の処理が追いつかない。

「あなた言ったわね、全ての決定権はわたしに譲るって」

「あ、ああ、たしかに言ったけど」

「じゃあ別れる別れないはわたしの自由にしていいってことよね、その結果選んだの、わたしはあなたと別れたりしない」

「ちょ、ちょっと待って」

一体どうしたのだろう。彼女らしくない。僕の知る彼女は、自分の理想をしっかりと持っていて、それに近づいていく為の努力を惜しまない。そして少しでも障害になるものは、有無を言わさず捨ててきた。

僕もきっと切り捨てられる。無職になるかもしれない恋人なんて、彼女の思い描く未来に必要ない。

そう思っていたのに、なぜ?
彼女はこれから先も僕のことを必要としている?一体何のために?

「わたしの将来設計はね、大好きな人と結婚して子供も産んで、幸せに死んでいくことなの」

これは彼女らしい、とてもシンプルな夢だ。

「この将来のためには、大好きな人ってのが一番重要なの」

ここまで言って、彼女は僕から目線を外した。
伏せられた瞳に、何が映っているのか僕からは見えない。

「そんなこと、分かってくれてると思ってた」

彼女の声が少し湿って聞こえる。

「わたしのことが嫌いになったならそう言って。そうじゃないなら、もうこの話は終わりよ。」

「嫌いになんてなっていないよ、だけど僕は君との将来を考えた上で、君にとっての障害になるくらいならって」

「余計なお世話」

彼女から吐き捨てられた言葉に、一瞬ムッとする。余計なお世話って、なんでそんなこと言うんだ。僕は君のことを考えて、君のために別れることを選択させてあげようとしているのに。

「君のために、なんてよく言えたもんだわ。本当にそう思っているなら、わたしがどうしたいのかをちゃんと知ってよ」

いつのまにか、彼女の目線は僕に戻っていた。
3年前から変わらない、揺らぐことのない強い瞳だ。

「わたしはね、あなたの将来がどうなろうと知ったこっちゃないわ。仕事を辞めるって、さっきは急だから驚いたわよ。でもそれが何?わたしはあなたの仕事に惚れてるわけじゃない。あなたという1人の人間を、この3年間見てきたの。その上で、将来のことを考えてきたの。これから先も一緒にいたいのは、あなた自身よ。」

「でも僕が無職だといろいろ不安になると思うし、そんな相手と一緒にいるのは君にとっても良くないから」

「あなた、わたしのこと養っていくつもりだったの?」

ええ、今それを聞くのか。結婚するということは、相手を養っていくことじゃないのか。

「言っとくけどわたしは、あなたが無職になるくらいでは何も変わらないわよ。なんのために働いてると思ってるの?あなたがいなくても一人で生きていくためよ」

一人で生きていく?どういうことだ、彼女の意図が全く分からない。結局、僕とは別れるということだろうか。

いまいち理解していない顔をしている僕を見て、彼女がはあ、と深く溜息をついた。

「あなたがいなくてもね、わたしは一人で生きていけるの。」

強い瞳が刺さる。もう視線はそらせない。

「一人で生きていけるけど、誰かと一緒に生きたいの。そしてそれは、あなたがいいの。」

目の前できらきらと小さな光が反射する。
そうか、彼女は、ずっとそうだったのか。

「わたしはずっと、自分の将来に猪突猛進で、要らないものを容赦なく切り捨ててきたけど、最終的にあなたとの未来が残るようにしてきたつもりよ」

何も言葉が出てこない。目の前の光がただひたすらに眩しい。3年間彼女を見てきて、彼女の性格も考え方も理解してきたつもりでいたが、完全に自惚れていたようだ。

「もちろんあなたをヒモ男にするつもりも毛頭ないわよ。ちゃーんと働いて、お互いがいなくても生きていけるようにはなっておかないと。でもそれは、今すぐにじゃない。あなたが今何かに悩んで仕事を辞めるなら、納得できるまで考えて、考え尽くしてからまた新しいことを始めればいい。」

そうでしょ?最後にそう言って少し微笑む彼女を見て、僕は自分の未熟さを恥じた。彼女を支える、養っていく、彼女の人生は僕が背負っていく、それが結婚だと思っていた。そしてそれが、僕たちがこれから先も一緒にいる理由だと思っていた。

でも彼女はそんなこと全く望んでいなかった。僕が頼りないからとか、そういう理由でもなく、ただ1人の大人として、人間として、それぞれが自立した上で、並んで歩いていく。

「君にはいつも敵わないよ」

僕の言葉を聞いて、にやりと笑った彼女の後ろに、これから始まる新しい未来が見えた。

#小説 #ありふれた恋の話 #短編小説



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