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【千代田区】市ヶ谷と飯田橋の間、新見附橋近辺

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新見附橋
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現在の地図

外堀公園沿いにある新見附橋

ここはその名前の通り新しい橋です。見附というのが枡形門を持っているということを考えると、ここは見附ではないです。

明治9-19年の地図には橋はありません。

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明治9~19年

江戸時代末期の地図のよると、

明治初期にみえる陸軍省用地

陸奥福島藩 板倉内膳正勝顕

子供の板倉勝巳は新政府に恭順し、会津討伐の準備を進めるも、奥羽越列同盟で佐幕派に転じ新政府と対峙、明治元年に降伏。大変だなぁ。

明治5年(1872年)本殿創建の靖国神社は江戸時代には武士の住宅が寄り集まっている場所で

寄合 藪益次郎

御書院番 中島三左衛門 

御小姓組 三井善三郎 

寄合 榊原主計頭 

御徒頭 吉川一学 

御小姓組 牧助右衛門 等々

福島の板倉家は戊辰戦争時の幕府方大名、藪益次郎は幕府陸軍の将校、幕臣が集まっていた場所に、陸軍省の用地と戊辰戦争の官軍側の慰霊の為の靖国神社を建てたという感じです。


明治後期 1908~09年 明治41~42年 

新見附橋ができあがります。明治28年頃にできたようです。1895年。

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1908~09年 明治41~42年

靖国神社の裏にあたるので靖国神社の為に作られたのではないかなと考えましたが

「旧麹町区と旧牛込区の住民の行き来の便宜が図られました。」

住民の交通の便の為につくられたとの千代田区のホームページに記載されていました。

明治28年 1895年頃にできたということなのでそのあたりを探ってみたいと思います。

よくみると外堀の外側、若宮町、田町には明治維新の勝ち組の屋敷が点在していますね。

南側からいくと

加藤邸 加藤姓の華族はおおくて不明ですが、この場所は大正時代には岩崎邸となっているところから、(加藤高明 1860ー1926年)だと思います。第24代総理大臣。加藤高明の妻は岩崎弥太郎の長女。政敵からは三菱の番頭などと言われていたようです。

加藤高明

明治27年には外務省政務局長でした。

1900年 明治33年 第四次伊藤内閣外相

谷邸 (谷 干城 たに たてき 1837~1911年)土佐藩士、陸軍中将。

谷干城

明治18~20年 農務大臣
1890年 明治23年 貴族院議員

鍋島邸 肥前藩の大名、鍋島家関係、薩長土肥の肥にあたる藩で分家も多いので都内に鍋島邸はたくさんあります。(鍋島直虎 1856~1925年)だとすると関係がありそうな。でも屋敷はたくさんあるからここに住んでいたかは微妙な感じがします。

鍋島直虎

1890年 明治23年 貴族院議員

穂積邸 (穂積 陳重 ほづみ のぶしげ 1855~1926年)法学者。東京帝国大学法学部長。枢密院議長。

穂積陳重

1890年 明治23年 貴族院議員に勅選

木村邸 木村姓の華族はいないんですよね。(木村長七 1852~1922年) 古川財閥、古川市兵衛の片腕

遠田邸 遠田の華族もいません。この時代は遠田注という牛込逢坂の病院の医院長のようです。

土井邸 (土井利与 どいとしとも 1851~1929年) 古賀藩主 新政府に恭順 新政府に軍資金10500両を献上)

土井利与

1888年 主猟官 

というこの時代の有力者が浮かび上がってきました。

当時の貴族院議員の為に作られたと考えることもできると思います。

ただ

それにはわざわざ靖国神社の裏を通るかな。

貴族院は現在の虎ノ門あたりにあるので、橋をわたらなくても外堀通り沿いを南下すれば虎ノ門につくのですが、ではこの橋を渡る意味とは??

不思議なのは国会図書館デジタルにも新見附橋を検索してもあまり出てこないんですよね。

大正時代に牛込新見附のトンネル大崩壊というのもあったらしいですが。 


結局はいろいろと不明なので住民の為(華族もふくめ)ということが妥当という結論になりました。







これらの勝ち組の交通の便の為に作られたのだと考えます。

現在の橋は昭和4年(1929)7月6日の架橋で、長さ20.65m、幅11.27mの鋼橋です。



鬼滅の刃で富岡義勇に竈門炭次郎が禰津子の助命を乞うところのマネだそうです。

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