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小説(またはテツガク的なポエム)『地球がくるりとスピンして』前編(67枚)

 11:12AM

 よし。
 と思った。眠りの底から浮上しながらそう思った。強く思った。無意識の海から見上げる誰かの意識は明るくて、揺らぎの向こうに見える世界はハッとするほど新しかった。
 よし。
 とボクは目を覚ました。
 カーテンの隙間から今日が差し込んでいる。地球はまたちゃんと一回転したのだ。
 ごくろうさま、と思った。
 昨夜は雨だった。雨音はタオルケットみたいにやさしくて、そのやわらかな響きにくるまれてボクはぐっすりと眠ったようだ。体の隅にも心の隅にも疲れは一切残っていない。
 カーテンを開けると快晴の空。
 サッシを開けてトランクス一枚のままバルコニーに出る。いい香り。雨あがりの匂い。オゾンとクロロフィルのさわやかなハーモニーを呼吸する。
 ラジオ体操の音楽が聞こえてこないか耳を澄ませた。でも聞こえてくるはずもない。もう昼近いのだ。昨夜もどこかでしこたま飲んで、浮かれに浮かれていたようだ。
 とはいえともかく、新しい今日が息づいている。チリやホコリにまみれたこの街も綺麗さっぱり洗われた。初夏の太陽は介在するベールもなしにストレートに、力強く、そのメッセージを届けてくれている。ボクらはみんな生きている。
 嬉しくなった。バルコニーを出て部屋に戻り、洗面所に行って冷たい水で顔を洗った。トロピカルブルーのバスタオルに顔をうずめた。かすかな塩素の匂いにプールを連想したあと鏡に向かってニッと笑ってみせた。
 歯を磨きながらベッドルームに戻る。枕もとの携帯電話を手にとる。YouTubeでロックンロールを再生した。リズムに合わせて揺れながらキッチンに向かう。ケトルにカップ一杯分の水を注いでコンロに据えた。それから洗面所に戻って歯ブラシを洗う。うがいをする。
 キッチンに、やはり音楽を聴きながら移動して、冷蔵庫からカスタードクリームを取り出した。ケトルが鳴るまでの間、音楽に合わせて口笛を吹きながらコーヒー豆を挽いた。
 キッチンラックの引き出しからクラッカーを出す。カスタードクリームを塗って立ったまま口に運ぶ。ケトルをフィルターに傾けてドリップを待つ間に三枚かじった。
 二曲目に耳を澄ませながらゆっくりとコーヒーを味わう。そして思った。さがしに行こう。
 今日こそさがし出そう、とボクは思った。

 11:55AM

 シャワーを浴びながら考える。彼女はどこにいるだろう?
 耳の後ろを念入りに洗う。
 彼女のいそうな場所を頭の中にリストアップする。
 図書館、とまず思った。初夏の休日、太陽はまだ天頂を目指して上昇中。そんな空の下にある本の館。よくなくなくない?
 あるいは、と思う。博物館はどうだろう?
 銀座線に乗って上野に向かう。科学博物館を訪ねる。恐竜の骨格の足もとあたりをさがしてみようか。デボン紀の頭足類みたいにひっそりと彼女は隠れているかもしれない。それとも宇宙館で百五十億年前の爆発あたりまで遡ってみようか。炭素や窒素にまじって彼女は虚空を漂っているかもしれない。
 っていうか、とシャワーを止めて考える。プールはどうかな?
 区民プール。ゴーグルとキャップで顔を隠した彼女が素知らぬふりして泳いでいるかも。タオルの匂いにプールを連想したのはその暗示だったりして。
 ロックンロールを頭の中でリピート再生する。軽快なリズムがボクを応援してくれる。

 12:12PM

 決断の小箱にフタをして、無意識の海にトプンと沈めてからシャワールームをあとにした。
 無意識がフル稼働している気配を感じながらサックスブルーのTシャツをかぶり、ビンテージジーンズを穿き、ヒップポケットにヘッセの文庫本を突っ込んでから車のキーを掴んだ。
 出掛けよう。
 エレベーターで降りながら携帯電話で日本橋にあるデパートの電話番号を調べる。エレベーターから出たところで電話を掛ける。ちょっとした買い物を口頭だけで済ませて、品物への刻字を依頼してみた。陽の沈む前に仕上がるとのこと。満足して通話を終えた。
 駐車パネルを操作してマンションの地下からヨーロピアンカーを呼び出す。百八十秒ののちエーゲブルーのカブリオレが現れる。
 さあ行こう、と無言で車に語り掛けドライバーズシートに沈む。FMラジオの音楽に耳を傾けながら初夏の一日へと走り出す。

 12:22PM

 五分走って車を停めた。北の丸公園の駐車場で陽光の中に降り立つ。
 夏らしい夏だ、と嬉しく思った。盛夏よりも初夏は、はるかに断然夏なのだ。世界はまだ苛烈な白さに呑み込まれていない。青くて緑だ。やがて白くなる。哀しくもそんな予感に満ちた、けれどもだからこそのよりいっそうの鮮やかさの中に万物は大人しく佇んでいる。
 目を閉じながら思った。ボクもそうだ。白さに呑み込まれる一歩手前でなんとか両目を見開いている……、ってことにしている。知らないふりをしている。闇を見ないようにしている。ホントはとっくに白いのだけど。まったく白いのだけど。そう思うと芯まで凍える。あの男が見える。雪原に彼はいる。膝を立て、大樹の根もとに背中を預けている。
 男の瞳が見えてしまう前にしっかりと目を開ける。
 空を見上げる。月は見えない。
 逃げるみたいに歩き出す。鳥の声に耳を澄ませたりしてみる。
 一歩行くごとに初夏の公園に近づく。そうだ、ここは地球で日本で千代田区で、今は夏なのだ。雪原は遠ざかり、大樹の根もとの男はボクを忘れてボクは彼を忘れる。

 12:28PM

 公園の芝生にはフリスビーが転がり、ミニチュアダックスが転がり、絵に描いたような平穏が転がっていた。
 芝生のありさまを、気持ちよく眺められそうな角度のベンチに座る。
 首筋に汗を感じる。ホンモノの汗だ。ニセモノじゃない。さすがは夏だ、と思った。
 ヒップポケットからヘッセを取り出す。窓を開くような気持ちで頁を開く。吹き込む風みたいな文章を読みたかった。
 三頁も進まないうちに公園に引き戻される。すぐ足もとで鳴き声がしたからだ。見るとすずめが砂浴びをしていた。すりばちみたいな穴の底で身を震わせて茶色い羽根をいっそう茶色く染めている。どうしてそんなことをするのかわからないけど、実に気持ちよさそうに見える。初夏の地面はあたたかいのだろう。温泉気分なのかもしれない。あるいは、と思う。おしゃれなのではないか? すずめ世界の基準だと、茶色ければ茶色いほどセクシーだったりするのかもしれない。
 ボクはボクの擦り切れたジーンズと、まるで子供っぽく見えないこともないTシャツとに目を落として、それからまた足もとのすずめを見た。彼に学ばなくてはいけない。カッコよく装わなくてはいけない。一緒に砂浴びをするべきか。幼い頃に作った泥団子の仕上げにそうしたみたいにサラサラの砂をまぶせるのだ、ボク自身に。いくらか男前になるだろうか。
 だなんてくだらないことを考えているのがバレたのか、天然の茶色い宝石はチチチと鳴いて首を横に振るとボクの足もとから飛び去ってしまった。
 あるいはすずめは時を告げたのかもしれない。主たる人物の登場を告げたのかもしれない。
 彼女は道の向こうからやって来た。

 1:07PM

 ひとりだ。犬も男も連れてはいない。手足をのびやかに振っている。マーチが聞こえてきそうだ。ここから見えるその背丈はわずかにマッチ棒に等しかったけれどボクにはしっかりとわかった。あれは彼女だ。
 きっとそうだ。
 と思って心の中で砂を浴びた。

 1:08PM

 屈託なく歩む彼女は自由に見える。キミも自由なのかい? と思う。ボクも自由なんだ、と教えてやらなくてはいけない。
 髪は短かく手足は長い。だんだん近づいてきてそれがわかった。
 親切な風が励ましてくれる、彼女こそはホンモノだよって。
 さらに近づく。
 真っ直ぐな鼻がちょうどよく長い。
 風はいっそうリアルに薫る。彼女はすぐそこだ。
 シャンパンゴールドにやけた肌に、当たり前だけど服をまとっている。テラコッタな色合いのTシャツとブルージーンズ、そして茶色いサンダルが彼女に属している。
 すずめに似てるかも、と思う。もしかしたらさっきのすずめも彼女の一部だったのかもしれない。だったらいいな。
 とか思っているうちにのびやかな手足がボクを通過してしまいそうになったので慌てて呼び止めた。「こんにちは」
 彼女は足を止めた。そしてボクを見た。
 わずかな戸惑いが見てとれる。
 それでも挨拶を返してくれた。「こんにちは」
 こんにちは、のあとに小さなクエスチョンマークが感じられなくもない。その抑揚は告げていた。こんにちは、と私を呼び止めたあなたの対象はこの私で間違いないの?
 だから「間違いないよ」と応じた。
 彼女は眉を寄せた。テレパシストを見るような目つきでボクを見る。
 用事を捏造することにした。時空を越えてカルプの町に飛び、ヘッセに協力を求めた。
「この漢字だけど……」と手にした文庫本の頁の一カ所を示して尋ねた。「何て読むのかな?」
 軽く眉を寄せたまま彼女はベンチに引き寄せられる。
「どれ?」と呟きながら彼女は本を覗き込む。
「これ」と言いながらボクは漢字の海から比較的険しい起伏の島を見い出してそこに指をすべらせた。
 虫眼鏡を覗くような目で漢字を見て彼女は言った。「これはねえ……」
 さがし当てた漢字は、韜晦。なかなかに悪くない島だ。ナイスジョブだぜ、と翻訳家に感謝する。
「とうかい、って読むのよ」
 罪の意識を蹴り飛ばしながらさらに尋ねた。「どんな意味?」
 彼女の目が至近距離からボクの目を見る。「ホントは知ってるくせに、知らないふりしてるだけだったりして?」ちょっと怖いくらいに鋭い瞳。
 イノセントを演じてボクは首を横にブンブンと振ってみた。
「韜晦する、ってのはね、自分の立場や能力なんかを隠してそらっとぼけちゃうことよ、今あんたがやってるみたいに」
 なんと、と思った。さすがは彼女、すべてお見通しってわけだ。お陰でボクの気持ちは軽くなった。
「何の本?」と尋ねられて、ティファニーブルーの表紙を見せる。
「ヘッセね」と言って彼女は頷く。
 ボクも頷く。
「不思議ね」と彼女は独り言みたいに言う。でもその瞳はボクの目をしっかりと掴んでいる。「ベンチでヘッセとか読む人には、あなた、ちょっと見えないわよ?」
「少年ジャンプとか読んでればよかったのかな?」とそらっとぼける。韜晦。
 応えずに彼女は訊ねた。「用件は?」
 そんなふうに訊くだなんて意地悪だと感じた。
「こんにちは、を言うためにヘッセを読んでたわけじゃないんでしょう?」
「知ってるくせに」と言ってみる。
 一球見逃すみたいな用心深さで彼女は黙った。
「キミを待ってたんだよ、ヘッセと一緒に待ってたんだ」
「いつから?」
「かれこれずっと」
「……待ち伏せしてたの?」
「じゃなくて」と応える。「さがしてたんだよ、ずっとずうっと」
 彼女の額が言葉の意味をさぐっている。
「あたしが誰だか知ってるの?」
「知ってるよ、たぶん」
 斜め三十度の角度からたっぷり三秒、ボクに向かってアイビームを照射する瞳、やっぱり鋭い。
「あたしの名前は?」
 まるで訊問だな、とボクは思う。「それは知らない」と宿題を忘れた生徒のように力なく応える。名前なんて知ってるわけがない。
 ま、いっか、みたいな呼吸をひとつして彼女は「あたしの名前はね……」と教えてくれる。「アオヤマ、アキ」
「アオヤマ」と復唱する。「アキ」
「そうよ、あなたは?」
 アキの右手には好奇心という名の剣が燦然と輝いている。
「ボクは……」と応え掛けてから黙る。一瞬、思い出せなかったのだ、自分の名前を。彼女と会うのに名前が必要だなんてこれまで考えたこともなかったから。
「いいわよ」とアキは寛大な調子で言った。「ニックネームでも」
 ニックネーム、と考えて、悪くないな、と思った。彼女との物語をニックネームで生きるだなんて素敵じゃないか。
 するとアキが言った。「あたしが名付けてあげる」
 風に頬をなでられた。
「あんたはヒロよ、それでいい?」
「……ヒロって誰さ?」
「むかし飼ってた猫よ」
 なんてこった。要するにどうでもいいってことだ。ボクの名前に興味がないのだ。ボクも自分の名前に興味がなかった。なのでありがたくもなんともないけど受け入れることにした。「ヒロでいいです」
 アキは笑った。初めて笑った。痛いほどに白い歯だな、とヒロは思う。「牙みたいだ」と気持ちが声に出てしまう。
 ヒロの頬っぺたをつねる真似をしてアキはまた白い歯を見せて笑った。
 ヒロとアキの頭上の白い雲をボクは見た。

 1:34PM

「いいもの見せてあげようか」とヒロが言う。
 アキは首をかしげる。
 ヒロは地面を指差す。
 そこにはすりばち。
「静かに待とう」とヒロは小さな声で言う。
 やがて招かれたかのようにすずめが降りてくる。すりばちの一メートルくらい手前でホッピングしながらあたりの様子をうかがう。チチチ? とすずめは尋ねる。お邪魔かしら?
 邪魔じゃあないよ、キミを待っていたんだよ、とボクは思う。
 チチチと鳴きながらすずめはすりばちに近づく。右にチチチと揺らいで、左にチチチと揺らいで、それから意を決したかのように中に飛び込んだ。
 アキの肩が、おお、と驚いたような仕草を見せたのでボクは嬉しくなる。
 しゃがんで穴を覗き込みながら「真っ茶色ぉ」と歌うみたいにアキは言う。
 すずめが顔を上げてアキを見る。その様子をヒロが見る。そんなありさまをボクが眺めた。
「砂浴びっていうんだよ。すずめは砂浴びが大好きで、ボクはそれを見るのが大好きなのさ」
「いいもの見せてもらったわ」と言って振り向いたアキの髪から土の香りがした。お日様の匂いもした。
「あのさあ」と芝生でピョンピョンしている土曜日の少年たちを眩しげに見つめながらヒロが尋ねる。「アキはどこに行こうとしてたの?」
「あたし?」と応えなが立ち上がったアキの輪郭を太陽がしっかりとふち取る。
「あたしはね、美術館に行くとこだったのよ」
 北の丸公園の南の果てには美術館がある。
「今日は無料観覧日なの。知ってた?」
 首を横に振ってから尋ねる。「アートとか好きなの?」
「どうかしら」と首をかしげてからアキは「でも今日はもう行かないの」と応えた。
 ヒロもアキの真似をして首をかしげる。
 ヒロはアキに似ている、とボクは気づいた。
「だって絵なんかよりもずっと面白いもん見つけちゃったから」とアキもなんだかちょっとヒロに似た調子で続けた。
 眉を上げてヒロはボクの鼻の頭を指す。
 アキはアゴを上げるようにしてから鷹揚に頷く。
「そりゃ嬉しいね」と言ってからボクはヒロに言わせた。「興味を持ってくれたお礼に秘密の滝にご招待しちゃいます」
 公園の北の端、うっそうとした林の奥には都内なのになんとも信じられないことだけど小さな滝があるのだった。いつだったか公園を散歩していてその滝に出くわした。滝があります、と表示されているわけでもないから、知らない人はまず間違いなく見逃してしまう。道なき道に分け入ってのちやっと辿り着くことのできるその場所を、ボクはこれまでずっと大事にしてきたのだった。
「おバカさんね」と、なのにアキは言った。「あたしだってこんなカッコでプラプラしてんだから、地もとの民に決まってんじゃないの。したら北の丸公園のことだってそりゃ自分の庭みたいに知り尽くしてるわよ」
 なんたることか、とボクは思った。
「滝も知ってた?」と小さな声でヒロが尋ねる。
 アキはアゴを上げてまた鷹揚に頷く。
 ショックだった。誰かが知っている滝ならばもう秘密の滝ではなかった。秘密でなければそれはただの滝だった。
「ねえ……」と肩を落としたヒロに今度はアキが尋ねた。「あなたはどこに行こうとしてたの?」
「ボク?」とヒロはアキに、そして半ばボクに尋ねた。
 ヒロに代わってボクが応えた。「ボクはね、彼女の待つとこに行こうとしてたんだ」
 太陽がアキの半分をシルエットに変えている。
「彼女?」といぶかしげにアキ。「その彼女ってのは誰で、で、どこにいるの?」
 アキが混乱するのも無理はなかった。彼女について考えるとボクだってときには迷子になってしまう。
「わからないよ」と正直に応えた。「彼女が誰なのか、どこにいるのか、それはわからない」
 アキはドングリの太いやつみたいな目でヒロをマジマジと見た。そして、つくづく感心したかのように言った。「おっもしろいわねえ」
 それは肯定的な響きでボクとヒロの耳に届いた。
「いいわ、あたしも一緒にさがしてあげる」と力強い声が響いた。
 頼もしい味方だな、とボクは思った。なのでアキを仲間にすることにした。だから告げた。「じゃあ今日は三人で仲良く力を合わせよう」
「三人?」と言いながらアキは片方の眉を上げた。そして自分とヒロとを交互に二往復半くらい指差した。
「アキとヒロと……」と数えてやる。「それからボク」とアキの瞳を覗き込むようにして解答を示した。「ほらね、三人だよ」
 ヒロの瞳の中にボクを見つけたのだろう、マジかっ! という聞こえない声がアキの頭上に見えた。
 瞳が怯えている。ボクの正気を疑っているのかもしれない。
 震えてんじゃねえよ、と目で語った。見えたんだろう、ボクの姿が。だったら開きゃいいんだよ、心を開いて一緒に踊れ。
 アキは逃げられない。狼が羊を食らうのはきっとこんな感じなのだろう。
 十分だ、とボクは思う。あとをヒロに託す。
「世の中にはね、怖いバケモンと怖くないバケモンがいるんだよ、でね、オイラったらかわいいバケモン、いじめないからいじめないでね?」
 どうなったか?
 ヒロの猫なで声はアキの笑いを引きずり出すことに成功、アキとヒロとは互いを鏡にしばらく笑った。
 一丁上がりだ。
「ヒロってのは……」と補足する。「キミが作ったボクだ」
「あたしが名付けたあなたでしょ?」
「名前とともにヒロは生まれた。キミによく似ている。つまりヒロはボクではなくてキミに属するボクなわけだ」
 黙ってアキはボクの顔を見て、そのまま五秒ほどフリーズしていた。それから首を振りながらため息をこぼすみたいに笑った。
「あなたのことはなんて呼べばいいの?」
「ヒロでいいよ、もちろん」とボクは応えた。「キミはキミのヒロを相手に踊ってくれ。そして可能であるなら……」
「可能であるなら?」
「恋に落ちてくれ」
「恋?」と確認するアキ。言ってから唇を尖らせている。
「そうだよ」とボクは真理のひとつを示す。「恋とは鍵なり。彼女に到達するための、ね?」
 と言ったらヒロが照れたみたいだ。ヒロはペロリと舌を出す。

 2:08PM

 世界の濃度が増した。掴めるほどに鮮やかな風が吹き始めた。すずめの声も直接脳に響いてくるかのようだ。
 世界は今や完全にボクにリンクしたのだ。
「さあ」とヒロは言った。「まずはどうしよう?」
 空は青く、太陽はその頂点にいる。
 アキは、内緒話のボリュームで囁いた。「まずは船を出しましょう」
「船?」
「漕ぎ出すのよ」
「どこへ?」
「ここではないどこかへ」

 2:32PM

 エーゲブルーのヨーロピアンカーはわずかにもう五分ばかり北上した。パーキングメーターに車を待たせてウォーターカフェに入場した。お濠に面したオープンエアの店。パラソルの下でビールを飲むこともできるし、気が向いたらボートに乗ってお濠を遊覧することもできる。桜の季節には花見のボートでたいそう賑わうらしい。
 白いパラソルの下、ウッドテーブルを挟んで向かい合った。
「あたしはコロナを飲むけど」と嬉しそうに笑ってアキは言った。「車だからヒロはジュースね?」
 ヒロは悲しそうに頷いて、ムーンスカッシュなる飲み物を注文した。
 夏の風がメニューの冊子をめくる。「何か食べる?」
「昼御飯食べてきたからいらない、ヒロは?」
「朝御飯遅かったからいらない」
 すぐ脇のお濠は、茶と緑を混ぜたような色の水面に灰色のパラソルを映し出していた。
 それでも空は綺麗な水色。

 2:50PM

 コロナビールをラッパ飲みしてからアキが尋ねる。「月の味ってどんな味?」
「単なるグレープフルーツジュースの味だよ」とアキの黄金色の瓶を睨みながらヒロは応える。「飲んでみる?」
「遠慮しとく」とアキが手を振る、まるで蝿を追い払うみたいに。「コロナがまずくなるから」

 2:58PM

 アキがコロナを飲み干した。
 テーブルに置かれた瓶のコトリとした音が合図となった。
 グレープフルーツジュースを半分以上も残したままヒロは席を立つ。「じゃ、出航しようか」

 3:12PM

 前夜の雨が残っていないか慎重に調べて、小さな羽虫のカーテンを払いつつ対面式の手漕ぎボートに乗り込む。
 頭の上には初夏の太陽。日差しを遮るものはない。
「また黒くなる」とアキは空を睨む。
「ボクらは真っ黒羊どうしだ」と言ってみる。
 向かいでアキが首をかしげる。
 オールを握って漕ぎ出しながら、ヒロを休ませボクが語る、真っ黒羊の物語。

 206:15CM

――牧場は真っ白羊でいっぱいでした――
「いっぱいってどのくらい?」とアキが尋ねる。
「小学校のひとクラスぶんくらいかな」とボクは応える。
――そんな白羊たちの群れに、どこから迷い込んだのか、一頭の黒羊が混ざっておりました。白羊たちは手を繋ぎ、「朝日に感謝だ、ほほほいほい!」だなんてやっています――
「ほほほいほい?」とアキ。
 オールを置いてヒロは両手を高く突き上げ、「こんな感じ」と言って足をバタバタさせた。
 ボートがガタガタと揺れた。
 アキは小さく拍手をするような仕草をして笑った。
「生きる喜びを表現してるんだ。真っ白羊は素直で罪がないんだ」
 アキは頷いた。
「でね、真っ黒羊も一緒になって、ほほい! とかやりたいんだけど」
「だけど?」
「だけどできなくて尻尾が、ぷい、ってなっちゃう」
「どうしてできないの?」
「なんでだろうね、とにかくできないんだ」と言いながらボクは頭上の水色を見上げる。「だからね、丘にのぼったんだよ。でもってみんなを遠くから見てる。声を揃えて歌ったり、仲よく牧草を分け合ったりしてる白羊たちをひとりで静かに眺めてる」
「かわいそう」とアキは鼻にしわを作るみたいにして言った。「仲間外れにされてるのね」
「そうじゃない。白羊たちはみんないいヤツなんだ、仲間外れにするつもりなんて全然ない。一緒になって、ほほい! ってやれたらいいのになってそう思ってるんだ。でも真っ黒羊は……」
「できないのね」
「できないんだ」
「黒いから?」
「そうかもしれない、とにかく生まれつきできないんだよ」
「みんなと違うのね」
「違うみたいだ」
 オールの作り出す小さな波がやさしげに揺れる。じっと観察しているとそのやさしさはどこかあきらめみたいに見えてきた。
「さて、そのうち秋になる、当たり前だよね、夏が過ぎたら物語世界にだって秋は来る。そしたら……」
「そしたら?」
「牧草ぜんぶ枯れちゃった」
「困るわね」
「そう、 群れは困ってしまった。牧草なくなり、とほほいほい」
――真っ黒羊は言いました。「向こうに木の実があるんだぷい」――
「木の実?」とアキは疑わしげに言った。「羊って木の実を食べるかしら」
「お腹が減ったら何でも食べるさ、物語の中の羊なんだから」
「わかった」と言ってアキは譲歩する。「木の実を食べる羊ってことにしましょう」
「ありがとう」と礼を言って話を続ける。「白羊たちはね、真っ黒羊のあとを追ってゾロゾロと森に向かうんだ。木の実だ木の実だ、ほほほいほい! とか歌いながらね」
――お腹いっぱい木の実を食べて真っ白羊は踊ります。「夕日に感謝だ、ほほほいほい!」――
「真っ黒羊のお陰ね」
「丘の上から森が見えたんだ」
「やっと仲間になれたのね」
「ところが、そうでもないんだ」と言って眉を開いてみせた。「夕日に感謝だ、ほほほいほい! ってやろうとしても、やっぱり尻尾は、ぷい、ってなっちゃう……」
「あらら」
「そう、あららなんだ。彼はやっぱり丘の上、ひとりで見上げるお月さま」
「哀しいわね」
「そうかもね」と同意してから続ける。「秋は去り、そして冬が来る。冬が来たなら森も凍える。木の実だってなくなっちゃう」
「またピンチね」
「うん。木の実なくなり、とほほいほい」
「そこで真っ黒羊ね?」
「そのとおり」
――真っ黒羊は言いました。「向こうに民家があるんだぷい」――
「民家?」
「そう、民家。でもってまた白羊たちは真っ黒羊についてくわけ。で、おにぎりをもらう」
「おにぎりを?」とアキは声を尖らせる。「さすがに食べないでしょ、おにぎりは」
「かもしれない。でもね、この物語ではそうでもなくて、バクバク食べるんだ、ヤツらはおにぎりを」
――白羊たちは輪になって、まあるくなって踊ります。「朝日に感謝だ、ほほほいほい!」――
「なのに真っ黒羊は?」
「ぷい」
「ぷいなんだ」
「うん。彼はひとりで丘の上、風と語らう今日もまた」
「で、どうなるの?」
 と言いながらアキが日差しの中で光った。
 日差しの中?

 3:55PM

 そうだ、ここは日本の、東京都の千代田区なのだ。ボクはボクを定位し直す。
 皇居のお濠にアキとヒロはいた。
 水の匂いがする。のどかに引き伸ばされた時の上にふたりは向かいあって浮かんでいた。
「ちょっとぉ」とアキが文句を言う。「ちっとも進んでないじゃない」
 確かにそうだ。話すことに夢中になって、ボートはいくらも進んでいない。
「日暮れまで漕いだって、これじゃあどこにも辿り着けないわよ」と言ってアキは手を伸ばす。「あたしが漕ぐから、こっちに来なさい」
 オールを手放し席を替わった。でもそれでもアキはヒロの向かいにいた。ふたりは向かい合っていた。北が南に変わったところで船の軸がぶれることはない。
 ボクらの角度は変わらない。
「で、羊たちはどうなるの?」と漕ぎながらアキが尋ねる。
「どうしよう?」
「考えてないの?」とアキは唇を尖らせて声も尖らせた。「あたしってばギラギラの太陽で真っ黒化しちゃってんのに、そんなのってあんた無責任過ぎるでしょ」
 ヒロは肩をすくめた。
「いいわ、続きはあたしが考えてあげる」

 206:55CM

「やがて、そうね、雪が降るのよ」
 想像する、牧場に降る雪。
「真っ白羊はさあ大変。さむさむぶるぶるくちゃんくちゃん。身を寄せ合って押しくら饅頭みたいになるの。皇帝ペンギンの越冬みたいな感じ」
「おっきな綿菓子みたい」と言いながらヒロは目を細める。
「雪はズンズン降り積もっちゃうの。牧地にも森にも、もちろん民家の屋根にも」
「丘の上には?」
「丘の上にもよ」
「真っ黒羊は?」
「真っ黒羊の背中にも、雪は積もって、積もりに積もって……」
「真っ黒羊、死んじゃうよ」
「そのときよ」と声を潜めるみたいにしてアキは言う。「群れが歌うの」
「なんて?」
「こっちにおいでよ真っ黒羊、ひとりじゃ寒いよ冷たいよ、って」
「おお」
「風は凍って山は震えた、月も砕けて星は流れた、今はもう」
「なるほど」
「こっちにおいでよ、真っ黒羊……」
 ヒロは黙って続きを待った。
――真っ黒羊は小さなくしゃみをひとつして、丘をくだってやってきました。真っ白羊の輪の中に、しっぽを震わせ近づきます――
 ボクは話を凝視する。
――真っ白羊の群れの中、真っ黒羊は歌います。みんなと一緒に歌います。「まんまるくマル、まんまるくマル」――
 白い荒野で男の膝がピクリと動くのを感じた。
――牧地も森も真っ白け、民家も丘も真っ白け。真っ白羊の背中にも、真っ黒羊の背中にも、雪は積もって真っ白け。みんながみんな真っ白け――

 4:32PM

「白羊も黒羊も区別なんてないのよ、もう」とアキは言った。「でね……」と続けてアキは笑った。「冬来たりなば春遠からじ。やがてお日様がね、ほっこり笑って言うわけよ、もうすぐ春だよ、ってね」
「ほほほい」とヒロが応える。
「ほほほい」とアキも重ねる。
「そりゃいい話だね」と、でもボクは斜めからのビームを放った。「だけどだよ」
「だけど何よ?」
「だけど春が来て雪が解けたら、そしたら魔法が解けるみたいにして、そうだよ、真っ黒羊はまたまた真っ黒じゃないか。尻尾がぷいとなるじゃないか」
 漕ぐ手が止まった。「じゃ、どうすんのよ?」
 ヒロは悲観的に沈黙するがボクは楽観的に沈黙する。そして応える。「ボクがもし真っ黒羊だったら……」
「だったら?」
「仲間をさがす」
「仲間?」
「そう、仲間」と繰り返す。「丘を棄てて、影ではない実体をさがし求める」
「実体?」
「そうだよ」と言ってアキの目を覗き込む。「例えばボクは今キミの中に……」
「あたしの中に?」
「その実体をさがしている」
 水面を風が揺らした。アキの鏡像が乱れる。
「この船が目指すのは……」と宣言する。「牧地の外のどこかだ」

 206:99CM

――真っ黒羊は丘を棄て、そして荒野を目指しました――

 4:55PM

 そしてボクらは、出航した場所にとてもよく似ているけれど、でもどこかが決定的に違う岸辺に辿り着いた。
 コロナビールと、ムーンスカッシュの代金を支払ってカフェを出る。
 灼熱のボンネットを持つ船に乗り替えてボクらはまたボクらの旅を続ける。ここではないどこかへ。彼女を求めて。

 5:00PM

「あなたの部屋に行くの?」と助手席のアキが尋ねた。
 真っ黒羊の丘をボクは思った。
「行かないよ」とヒロが応えた。ヒロには帰る部屋なんてないのだからこれは当然だった。
 ボクとしても丘に戻る気なんてさらさらなかった。「前進あるのみ」と、だからボクは言った。
 クーラーを消して屋根を開けた。シートは露天になった。
 アキの短い髪はオープンカーに適している。
「どこに行くの?」とまたアキが尋ねた。
「日本橋のデパート」とボクは応えた。

 5:22PM

 機械式の駐車場に車を託して百貨店の扉をくぐる。一階中ほどにあるショップまで歩く。
「刻字できてますか?」と確認した。
 できています、と店員は応えてアキに向かって「試着してみますか?」と尋ねた。
 眉を寄せてアキは無言でボクを見て、それから店員に向かってアキらしくもなく曖昧に頷いた。
 アキの左手首に巻かれたのはホワイトゴールドのブレスレット。この商品は付属のドライバーを使わなければ着脱できない建前になっている。つまり首輪みたいな腕輪だ。穏やかなタトゥだ。
「とてもよくお似合いです」と店員が言う。似合わない、だなんて言うわけないけど実際よく似合っている。見ようによってはいかつく見えなくもないこのデザインを、こんなにしっかりと受け止められる腕はそうそうないと思う。
 アキの顔を見た。あまり嬉しそうには見えなかった。
 まあそうだろう、と思う。首輪は自由に馴染まない。
「もう刻んじゃったんだからしょうがない」とアキをなだめて財布からクレジットカードを取り出す。
 ブレスレットをつけたままアキは、テーブルに出されたチョコをつまんで、にこりともしないで天井を見ていた。

 5:38PM

「どういうことなの?」と訊きながらアキは左腕をパンチのごとく突き出した。
「内側に書いてある」とハンドルに向かったまま応えた。
 小箱から取り出したドライバーでアキは、車の揺れを巧みにやり過ごしながらネジを外した。そして傾き尽くしつつある太陽の光を当てて内側の刻字を読みあげた。「Yes, we are crazy」と流暢に発音したあと「クレイジー?」と呆れた調子で確認した。
「イエス、ウイアー」とボクが肯定した。

 5:58PM

 首都高速に上がった。
「ねえ」とアキが言う。「あたしたち、どこまで行くのかしら?」
「輝かしき明日まで」
 ヒュー、とアキは口笛で返した。「公園でナンパされて、高価なプレゼントとか手錠みたいにはめられて、でもって連行されてるってわけね、輝かしき明日とやらまで」

 6:05PM

 FMラジオが懐かしい音楽を流している。アニバーサリーの年を迎えたロックアーティストの曲だ。
「ヒロってさ、何の仕事してる人?」
 仕事? とボクは思う。「なんだっけ」とヒロが呟く。さっき生まれたばかりのヒロに仕事なんてあるわけがない。
「いいわ」とアキは質問を回収して自分について語る。「あたしはね、雑誌の編集をしてるの」
「雑誌の編集?」
「そう、ヤクザな仕事」
「ヤクザな?」
「毒にも薬にもならないような記事を好き勝手に書いたり、毒にも薬にもなりそうなアルコールを好き勝手に飲んだり」
「自由なんだね?」
「まあね」
「ボクも自由なんだ」

 6:28PM

 中央自動車道に入る。タコメーターの針が落ち着く。
「でもね」とアキ。「あんたはちょっとぶっとび過ぎ」
「よろしくないかな」
「どう……」と言いながらアキは伸びをした。「かしらねえ」
「どうなの?」
「まあ興味深いわね」
「そりゃよかった」とボクは笑った。
「いつから?」とアキ。
「いつから?」とヒロ。
「いつから彼女をさがしてるわけ?」
「かれこれ」とヒロに代わってボクが応えた。「ずっとかな」
「何ダースくらいの女の子が生贄になったの?」
「生贄はひどいな」とまた笑ってみせる。「ボクをなんだと思ってるんだ?」
「善良なバケモノ」
「否定はできない」とまずは応じてから質問に答える。「ワンカートンくらいかな」
「で、彼女とやらはひとりも見つからなかったの?」
「……逃げ水なんだよ」
「逃げ水?」
「消えちゃうんだ、近づくと。ミラージュ」
 彼女の影を見つける、あとを追う、今度こそ彼女だと思う、いつも思う。でも角を曲がると消えている。そこにはもう影も形もないのだった。そしてまたひとりぼっちの自分に目覚めることになる。雪原で膝を抱える。
「のっぴきならないんだ」とボクは呟く。
 アキは黙っている。
「だからね」とボクは言う。「だから中に入れてください」

 6:48PM

 夜のとばりが訪れたころ、ETCのレーンを抜ける。
 すでに天井は閉じている。アキの短い髪はもうなびいていない。
 八王子を過ぎた。大垂水峠との表示が見えた。
 ボクらはどこまで行くんだろう?
「彼女が見つかったら、あなた、どうするの?」
 どうするのかな?
「あたしの推理を言ってもいいかしら?」
「もちろん」
 わかるなら是非教えてもらいたいものだ。彼女を見つけてボクはいったいどうするつもりなんだろう?
「死ぬんでしょ」
 峠の闇をヘッドライトの光が切り裂く。
「何だって?」
「死ぬつもりなんでしょ? 彼女と一緒に」
 死ぬ? と驚く。そんなこと考えたこともなかったな。
「殺すつもりなのよ、あなたは。逃げ水みたいに彼女が消えちゃうその前に」
「殺す?」
「彼女とあなたを」
 彼女とボクをボクが殺す?
 カーブを抜けながらウィンドウを下ろす。窓の外が叫ぶ。ジェットコースターみたいだ。
「怖いだろ」と確かめる。「そう思うなら」
「怖くない」と助手席の側のウィンドウを下ろしながらアキが応える。「だってあたしは彼女じゃないもん」
 ボリュームアップする夏の叫び。
「死ぬのは彼女で、あたしじゃないもん」

 7:00PM

 前方に炎が見える。加速してそこに向かう、誘われた昆虫のように。かがり火はそこが駐車場であることを示していた。
 減速して車を乗り入れる。
 大助、という看板が出ていた。囲炉裏料理の店らしい。
 便利なもんだ、と思った。夕飯の時間になればちゃんと食事処が出現する。この世界はそんなふうにできている。
 車を降りて駐車場を横断して門をくぐった。
 不思議な店だった。店というより村だった。峠の闇に存在を潜めるようにしてその敷地はあった。地方の廃村をそのまま丸ごと移植したのだ、と受付の女性が教えてくれた。
 二名で食事、と申し出ると、十二番と書かれた木札が貰えた。地図も貰えた。村の地図だった。村にはお地蔵さんがあり、郵便局があり、池があった。池にはアヒルが泳いでいた。闇の中のアヒル。ガアガアと鳴くのでアヒルだとわかった。深い闇に、村全体がすっぽりと覆われていた。
 点々と続くかがり火が行く手を照らしている。地図を頼りに小道を行く。
 広大な敷地にいくつもの離れが散在していた。ボクらが目指すのは十二番の小屋だった。

 7:18PM

 十二番という表札がかがり火に照らされていた。
 小さくて古風で、温かくて懐かしい小屋だった。すずめのお宿みたいだな、と思った。昼間のすずめの隠れ家だったりして。
 引き戸を開けて覗くと、中央に囲炉裏が見えた。立派な構えだった。真っ黒に煤けていた。
 囲炉裏を抱えているのは玄関口より一段高い四畳半くらいの一室で、窓がふたつあり、それが小屋のすべてだった。
 すでに炭が焼かれていた。パチパチと音がする。
「おっもしろいわねえ」とアキが感心したように言った。日中ボクの目を覗きこんで言った台詞とそのまま同じ台詞だった。
 確かにユニークだ、とボクも思った。この店も、アキも、そして今夜も。
「旅はいつだって……」と、だから言ってみた。「小さな驚きの連続さ」
「新しいことの繰り返し」とアキが言い換えた。
 部屋に上がり、囲炉裏を前に向かい合って座る。
 夜はまだ始まったばかりだ。

 7:28PM

「なあにを飲もっかなっ」とアキが言うのにかぶせてヒロが言う。「オイラ、ビール!」
 訪れた短い静寂の中パチリと炭がはぜる。
「ダメでしょう?」とちょっと嬉しそうにアキは言う。「オイラくんは運転手でしょう?」と続けながらお品書きらしき紙を開く。
「アキさんは運転できないのでありますか?」
「できますよお。ただね……」と胡座に組んだジーンズの膝を心持ち立てながらアキは応える「運転よりはどちらかというとお酒を好むタチです」
「同じです。オイラもお酒を好むタチです」
「ざっつとぅばっ」とぜんぜん気の毒でなさそうにアキは言い、お品書きを読んでいた目をヒロに向けて「同情するわ」と眉で八の字を描く。
 良い兆候だ、とボクは思う。性的な対面においては極性こそが重要、アキがS極に座るならヒロはM極に座るので正解。
「オイラ、アルコールが入っても結構しゃんとしてるなりよ?」
「反社会的な発言ねえ」と言ってからアキは、ふと考えるように沈黙してのち言い直した。「反・社会的ではないわね、あんたの場合は」
 より厳しいレッテルに備えてヒロは少し身構える。
「社会のことなんてちっとも眼中にないんだから反抗するも何もないわよね。非・社会的というのが正しいみたい」
「人でなしって言われたみたい」と小さな声で抗議しながらヒロは隅っこの電話に向かう。そしてアキに告げる。「どうぞ、なんなりとご注文を」
 ヒロに言わせておいてボクは、電話のそばにある窓の木枠を引いて外を見る。闇を睨む。さがし出してやる、と奥歯を噛み締めるように思う。深い闇の中に、チロチロと燃える灯を。そして見つけたら飛び込むのだ、勇ましき夏の虫のように。
「まずはウーロン茶かな」とアキが命じる。「これはヒロのね」
「はい」と力なくヒロは応える。
「で、あたしはね……、あ、何かしらこれ」
「何でございましょう?」
「竹酒だって!」とアキの声が弾む。「日本酒なのね。竹の筒に入ってるんだ。あたしこれにするわ、いきなりだけど」
「かしこまり」と短縮形で応えてからヒロは電話で厨房を呼び出して告げる。「あ、こちら十二番の小部屋ですけど、どうもども、はい注文です、いいですか、 はい、輝かしき竹酒と、はい、屈辱のウーロン茶、はい、いえ普通のウーロン茶でいいんです」
「それとね!」と大きな声でアキは言う。「おまつりコースをふたつ」
「あ、もしもし、聞こえました?」と受話器に向かってヒロ。「そうです、おまつりってやつをふたつ」
「あとから追加ってできるのよね?」
「あのう、コースに追加で単品とか頼めるんですか、ってお姫様が……。はい、あ、プリンセス・アキです。え? いえ芸能関係ではなくて……。はい? あ、サインですか、サインはどうなんだろ、え? おまけがつくんですか、したら頼んでみますね。はい、まあそうです、オイラなんてマネージャーみたいなもんです、はい、お願いします」
 電話を終えてヒロは言う。「アラカルトの追加オーケー、アキのサインでデザートがおまけされます」
「ご苦労さま」とアキは楽しそうに笑う。「色紙にはあたしが、伝票にはヒロがサインすることにいたしましょう」
「はいはい」と頷きながらヒロも囲炉裏の前に戻る。
 静かだ。テレビもない。ふたりきり。部屋は狭い。会話が途切れると互いの鏡になってしまうアキとヒロ。そんな様子をいくらか冷ややかに眺めるこのボク。

 7:44PM

 コトリと小さな音がしたかと思うと玄関の戸が叩かれた。
 ヒロが立ち、玄関まで歩んで戸を開けると、そこにはいくらか頬の赤い若い女が立っていた。和装の純朴そうな娘。
 料理を運んできたのだろう、傍らに手押し車があった。
「ようこそ、すずめのお宿へ」と言ってみる。
 軽口をたたかれて娘は、竹のつづらに伸ばしていた両手を小さなマエナラエみたいな形で止めた。でも頭のよい娘なのだろう、機転を利かせて少しぎこちないながらもこんなふうに返してくれた。「大きなつづらと小さなつづらのどちらがよろしいですか?」
 だなんて言ってしまってから恥ずかしくなったのか、娘はいっそう赤く頬を染めた。
 すずめみたいだ、とボクは嬉しく思った。今夜はそういう夜なのだ。いたるところに彼女の片鱗が舞っている。
「小さなつづらと、それから……」とボクは内緒話をした。「小さな秘密をひとつくださいな」
 言ってしまってから後悔した。よからぬ台詞に驚いてすずめは飛び去ってしまうかもしれない。でも少女の顔に警戒の色は表れず、その頬がさらなる赤みを帯びただけだった。唇を富士山のような形に結んで瞳を張っている。地の果てで鈴が鳴った。
 やっぱりそんな夜なのだった。世界はボクに完全にリンクしていた。
 おまつりコースの入ったつづらをふたつと、アキの竹筒、そして悲しげなウーロン茶を受け取った。
「やり方はわかりますか?」とピンクの頬っぺたが尋ねる。
「皆目わかりません」
「失礼します」と言ってすずめはお宿に上がり、囲炉裏の前でつづらを開いた。
 中から現れたのは、串に刺されたエビ、アユなどの魚介と、おそらくは鳥であろう肉、それからウズラの卵やネギ、地コンニャクの皿や山菜の皿などであった。今朝ボクは本当に都内で目覚めたのであったか?
「こうして囲炉裏に……」と言いながら少女は折り紙を折るみたいなやさしい手つきで串を立てた。
 立てられてアユはたいそう美しく見えた。パチリと炭がはぜて川の匂いがした。
「コンニャクはこちらのお味噌につけてお召し上がりください」と述べて少女は説明を終えた。
 パーフェクトだ、とボクは思った。
「それでは何かございましたらお電話でお申し付けください」と言って娘は立ち上がり、クルリと半回転して玄関に向かった。振る舞いのひとつひとつに、水たまりを覗き込む猫みたいなひたむきさがある。夜の高速道路を照らしていたあのオレンジ色の光に通じるような切なさもある。すべてがのっぴきならない。
 ジーンズのヒップポケットからヘッセの文庫本を引っ張り出す。「あのコレ、嫌じゃなかったら……」と少女の背中に言う。
 振り向いた少女のきょとんとした表情をひどく好ましく思う。
 少女はどうしたか?
 ヘッセを受け取った。そして呟くように言った。「ありがとう」
 嬉しかった。ありがとうって言ってくれた、ありがとうございますではなくて。給仕係という属性ではなく少女のままの素性で応えてくれたのだ。
「あ……」と、戸を閉めようとした手を止めて少女は思い出したように言った。「ウズラの卵は串の先で穴をあけてから焼いてくださいね」
「穴を?」
「そうです」と少女は笑って教えてくれた。「そのまま火にくべるとバーンって爆発しちゃうから」
 フレンドリーな響きが嬉しくて、「オーケー」とボクもボクの本性で応えた。「いつの日か魔術劇場で会おう」
 なんのことだかわからなかったのだろう、当然だ。少女は曖昧に笑った。それから、小さなお辞儀をひとつ残すと小路の奥へと消えた。
 彼女のかけらが舞う夜を呼吸してから囲炉裏の前に戻る。
 と、ダムが決壊していた。
「やあね、やあね」とアキが歌うように言った。「秘密をひとつくださいな、とか言っちゃって」
 やだね、確かに、と内心で同意した。
「あんたって、親愛なるナルシスト」
「親愛なる?」
「そう」
「オイラが親愛ナルならアキは尊大ナルかな」
「いいわねえ、親愛ナルと尊大ナルのナルシストチームで世界征服でもしちゃう?」
 そのさえずりは美しく響いた。
「いつかはね。でも今夜は……」と親愛ナルは言う。「キミを征服しちゃう」
「ほんっっっと」と十分にためてからアキは「ダッサダサにナルよねえ」と言って笑った。

 8:15PM

 下唇の酒をチロリと舐めてアキは言う。「彼女について語って」
 湖のような瞳を眺めながらボクは、「キミについて語ろう」と返す。
「そう?」
「彼女はキミの向こうにいる、だからキミを追い掛けてればボクらは辿り着くはずなんだ、彼女に」
「そう?」とアキがまたクエスチョンマークで続きを促す。
 ししとうの串をクルリと回しながら言ってみる。「串刺しにされた」
「ししとう?」
「ではなくてボクが」
「そうなの?」
「そう。最初に会ったときからキミの角度は深く刺さった」
 瞳を少し揺らしながらアキは「ねえ」と言って笑う。「最初に会ったときって何よ、あたしたち昼間に出会ったばかりなのよ?」
「そうだっけ? ずいぶんとむかしに出会ったような気がする」
 アキが皿を差し出してくれる。剥かれたエビ。香ばしい匂いがする。
「剥いてくれたの?」とヒロ。
「そうよ、親切でしょ。だからお願い、翻訳して話して、できれば日本語に」
「意味不明かな?」
「全てが不明よ。理解不能。でもね……」と言いながらアキは酒と勇気をボクに注ぎ足す。「でも大丈夫。感じることはできるから」
「そりゃよかった」と言って竹の杯を干してボクは芯を尖らせる。「遠慮なく奥までお邪魔いたします」
 アキの影が泳いだ。楽しそうに笑ったらしい。

 8:41PM

「キミは自由をまとって歩いていた」と影に向かって言葉を紡ぐ。
「気持ちのよい響きだわ」
「時間の外にはみ出していた」
「そうかしら?」
 アキを見る。と、アキはボクを見ていた、ヒロではなくて。懐かしそうな目で見ていた。懐かしそう?
「やっぱりどこかで会ったよね」と思いがそのまま言葉になる。「今日ではないいつか、今日のではない太陽の下で」
「初対面よ、記憶によればね。でもあなたのポエムを聞いてると感じるわ、確かにあたしは知ってたんだって、あなたのことをこれまでもずっと」
 目を瞑りサーチする。彼女の番地を算出する。そうだ、ここだ、ここにいる、いた、ずっといた。ここは彼女の椅子だ。彼女の椅子にアキが座っている。
「染みついた影みたいにキミはいた、また見つけた」
「お久しぶりです」と彼女の声がした。
 目を開けるとアキがいた。切ない痛みをどこかに感じた。反対側がオレンジ色に照明された地球のてっぺんで影と影とが向かい合っていた。非常にはみ出していた。ボクらはのっぴきならなくはみ出していた。
「キミは日々を自由に泳いでいる。どこにも繋留されていない」
「迷子だったの」
「ボクもだよ、生まれてこのかたずっと迷子だった」
「鉢合わせたのね、 迷子と迷子が」
「うん。今回は日の出ずる国の真ん中で」
「初夏の風吹く公園でした」
「ねえ」と言うボクの声は掠れている。「もうボクには区別がつかないよ」
「区別?」
「そう、どこまでがボクでどこからがキミなのか」とアキにではなく彼女に告げた。
「嬉しいわ、あなたは彼女を」と地の底から響いてくるような声が言った。「今ではキミと呼んでいる」

 55:17:141GPM

 すべてが静止した。張り詰めた、湖面の静寂。回復されたバランス。かけらは丸く復元された。完全性。ここはどこでもない場所。時間は凍っている。移ろうものは何もない。
「意味なんてないのね」と水面に落ちた言葉が告げた。「あなたは演奏してるのね、言葉を、音楽みたいに」
「嫌いかな?」
「嫌いじゃない」と、すべらかに泳ぎ出した言葉が告げた。「あなたが誰だかわかったわ」
「ボクは誰かな?」

 9:12PM

「教えて……」と妙に短く息継ぎをして声は泳いだ。「……あげません。でもあなたの属性なら教えてあげましょう」
「それは何ですか?」
「魔法使い。それもかなり強力な、ね?」
 ボクらの影はクロールみたいに笑った。
「知ってるかい?」と尋ねてみる。「強力な魔法使いの弱点を」
 アキは首をかしげる。
「自分も魔法に掛かっちゃうんだ」
 ふたつの影はまたクロールで笑った。


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