見出し画像

一方的日記

結論から言うのが親切というものだ。結論から言う。自分を癒すことが問題だ。その方法はいくつもあっても、もっとも自分にとって意味のある、濃い方法というものがあって、それと出会うことがまず大事だ。さらには、それを認めることが大事だ。そして、誰が何と言おうと、最も自分を癒す効果ある手法にこだわれ。(お前の心はお前だけが知っているのだから。もし、とやかく言われたら平和的に受け流すことである。議論というものはだいたい徒労で無駄だからである)

それは例えばユトリロにとっては油絵であり、山頭火にとっては言葉だった(旅もそうかもしれない)んだろう。

山頭火ってたくさん日記を書いていて、時には執着を捨てようと、焚き火にくべたりもしたらしいんだけど、かなりの量を俳句仲間の友人に送っていたという。旅をするとき持って歩けないということもあったらしいけど、読んでくれる人に送りたかったのだろう。その友人は後年山頭火の研究した人に日記を貸したそうだが、手元にないと「淋しくてやりきれぬ」と言って一旦返してもらったらしい。でもそのあと、死期が近くなりまた研究者のもとに返したらしいが、そのときは始めには渡していなかった新たな一冊があったとか。全部無くなると寂しいので、これだけはということで身辺に置いていたそうだ。なんだそれ、凄い。そんなにも大事にされてというのか、執着されているというのか、そういう人に持っていてもらって良かったのだなと思う。

なんだかこういう話って、イマドキと真逆で私は好きだよ、シェアする情報や言葉が多すぎて、なにがなんだか分かんなくなったり、3日もするともう何のことだったかざーっと忘れていってしまうようなことよりも、よっぽど大事なものがあるっていう感じがするじゃないか。

交換日記って子どもの頃あったけど。一方的に送りつけている日記だけど、一方通行ではない。シアワセだよね。山頭火っていうと不幸そうなイメージあるけど、全然、シアワセなんじゃないか。

とにかく、自分を癒すということだな、ととりあえず思う。というのは、それ以外にフォーカスしたとたん、全部がただ急速に悪化するからだ。余計なことに意識を使ったとたん、全部は望まない物語となって腐ったり、目もあてられない、どちゃどちゃになったりするのである。特に、言葉に頼るとだめだ、と思う。言葉なんて、どうとでも言えるじゃないか。わかってなかったことだって、ほら見ろ俺はわかっていた、みたいにいくらだって言えるのだ。自分を薄めてしまう余計な言葉に、寄り道している余裕があると思っているのか。何度走りすぎるサイレンの音をやりすごしたんだろう。

これをやっていると無条件に安らいだり、全く違う時間に入れる。ということを追い求めそれをするのは、なんら勝手ではない。むしろ、他人軸で誰それのリクエスト等にこたえるためきゅうきゅうとしているより、長い目で見ていい。

鳥が勝手に鳴き、植物は一晩で驚くほど伸びたり増えたりし、猫が仕事を邪魔し、風が時々適度な強さで吹く。そのようなことが無意識を癒すが、どれも自分の時間をわかっており、無駄な時間を持つこともなく動いている。人は、あんまりそのように振舞えない。大概、脳が邪魔するのだろう。まれにそういう振る舞いの人がいて、そこにぶつかるように会うことはある。そういうとき人は無意識に癒されるのだろうと、思う。癒されるか救われるかなにかしているが、要は無意識的なところの話である。山頭火はきっと勝手に旅に出て、ユトリロは酒を飲むか、しきりとパリの街を描くかしていたんだろう。そういえば山頭火も酒飲みで有名だった。酔うことでしか解放できない何かがあったのだろうか?無意識過剰になるためには酔うしかないのだろうか。(そんなわけはないとおもうんだけど)

…決してそう見えなかったとしても、私は十分、貴重なものを誰かしらに与えている。そしてそんなことはしたくないと思った。意識してとか望んでとかではなかったが、十分すぎるくらい利他的だった。こう書いてもわかる人はいないだろう。それもいい。とにかく私はバランスをとりたい。そういうことだ。










もしも何事かお役に立てましたら、ぜひサポートをお願いします☆