ええと…いつかの話の続きを…☆自然とか植物からも伝わる、「何かある」存在(中~後半のグダグダ)

先日紹介した本の感想の続きなどを、書いていく。

その本は

そして同じテーマで書いている日記の、これが最初の部分で、

2番目と、

続きとして今書いているこれは一応、最終部分というつもりである。一応だけど。


朝、ただならぬ声で鳴いている鳥がいて、高めの声でちょっとシャウト気味に鋭く繰り返すのは、ビーだかピーだかギーだかの間の音で、何をそんな騒いでいるんだろ。その時私は珍しく穏やかな気持ちで、実にホンワカとしていたので、その鳥に合わせて同じように鳴いてみた。まねできない鳴き声だ、と思いつつも。

私がマネするのに合わせ、答えるように向こうもまたピーとギャーの間くらいをとった音で鳴いていて、さらに一応、その鋭い鳴き方の繰り返しにも、節回しみたいなのがあるので、こちらはこちらでちょっと違った音階の組み合わせで鳴き返したところ、向こうもおんなじ節を返してきたのである!

いや私の勘違いでも妄想でもない。明らかに、こちらがマネしているのに気付いて、鳥の方もマネし返してくれたというていだったw

しかも、最初は本当にうっさ、という焦り狂った訴え感半端ない叫びのような鳴き声だったのが、だいぶ落ち着いて、これはややご機嫌なのではないか?といった調子にまで声音も変化してきたので、なんと思いがけず交流してしまったと思った。

それにしても、どこにとまっているんだかもはっきりわからない、なんの鳥かもわからないまま、おそらくは、その鳥は同類に呼びかけていたんだろうから、私が答えたところで、鳥にとってのなんの目的を達したとも思われないが、それでもちょっとほっとした様子だったのが可笑しかった。

せっかくなら何を言っていたのかわかったら良かったが、残念ながら鳥に詳しくないしわからない。何年か前だと、そうやって鳥がキイキイ騒いでいると、これも天変地異の前触れか?!と思ってたいへん怖かったりしたのだが、今回は別にそんな風には思わなかったし、鳥もただ聴いてほしいということがあるのかなあはいはい聞こえていますよ~、と答えてもらいたかっただけなのだろうか…。そんなふうに感じた。

鳥ではないが、「地球人のための超植物入門」を書いた植物学者さんは植物とかなり話せるようである。いや、はっきり話している。まるで深い森のなかの、堂々たる天然大木からお手紙をもらったかのような、相当長いメッセージを受け取っている。天然大木だけでなくいろんな植物に宿る魂と、いつも会話しているという話のコレクションになっている内容だ。

著者本人もこういう話を本にして出していいのか迷った、と書かれている。

というのは、植物や自然霊の思いを理解できるということ自体が、世の中一般には受け入れ難いだろうと考えたから

と。

しかし、私は普段から、当たり前のように植物たちと交流している。

この本の内容を、非科学的な妄想だなどと批判するような向きはどこにでもいると思われるが、私にはリアルな実感として植物と話している様子が伝わってきた。

どの章も引用したいところがいっぱいある、けどありすぎてちょっとどこを引用していいかわからないくらい。とにかく、実のところ植物は結構人間と話したいみたいなのである。彼らの話を聴こうとするひとには、という条件はあるかと思うが。

通常、植物は言葉を発さない、静かなところがいい、と本当に思っているのだが、実際は訴えたいことがいろいろあったり、なにかごくふつーに話したりしている。(私も木が話したと何度か感じたことがある。)訴えたい、というのは、それも仕方ないほど環境のバランスが崩れ、自然が破壊されていること。かといって決してそういう話ばかりではない。植物もいろんなことを言っていて、なにも環境破壊について警告しているだけではないんだけど、メインのメッセージとなる、なぜこの本が書かれたかという肝の部分は、「深い自然」の重要さを改めて喚起し、人が自然を理解するよう努め、その回復を手伝うことを地球が求めているということなんだろう。

植物も、自分たちのためにそう言いたいというより、そうしないと人間が結局困る、と言っているのだ。

本からところどころ抜き出しておく。太字にしたのは自分で、読んでいて、自然をその深さの段階をディープ、ミドル、ライトで分けていてなるほど~と読んだ。

自然とは一様なものではなくて、どこもすべて違う。(略)ディープネイチャーという言い方をすることもあるが、自然の深さも大事な要素であり、人工的な植生や、植林された樹木に比べると、天然の樹木には次元の違う力と迫力がある。
都会化されたライトネイチャーは、自然の癒しという意味では力が弱い。これは、現代人が生活の利便性を追求するあまり、自然の持つ命の側面を軽視してきた結果、自然が形骸化しているところからきている。
…(略)里山と言われるような都市近郊の山は、薪を切り出したり、山菜を採ったり、落ち葉を拾ったり、多かれ少なかれ生活のために人が入っている。それはそれで、自然の力とそこに住む人たちとの間で、長い間にバランスが取れているということである。
こういうレベルと、都会の手入れされた庭園とでは様子が違う。ディープネイチャー、ミドルネイチャー、ライトネイチャーと言ってもいいかもしれない。自然にもいろいろな段階があるということだ。(略)森林セラピーとなると、ミドルネイチャーくらいの領域を狙うことになるのであろう。


自然や植物のもつ癒しの力について書かれたところはいろいろあるが、

…深い森の中に入っていくと、普通、誰でも、無意識に影響を受ける。それは、無意識でエネルギーに触れているということだ。(略)
体や心の具合が悪いのは、何処かのレベルでバランスが崩れているということなので、このバランスを取り戻せばいい。(略)自分を癒す力は、私たちの中にもともと備わっているので、その力が働くようにすればいいだけなのだ。植物の持つエネルギーに触れることが、そのための刺激になるということである。
言い換えると、植物の持つエネルギーには、人間の壊れたエネルギーを修復する作用がある。考えてみると、今、地球が、いろいろな意味で汚れて苦しんでいるときに、それを一生けん命に修復しようと頑張っている植物たちなのである。
植物は、地球と言う惑星のエネルギーを受けて生きているので、植物のエネルギーにタッチするということは、地球のエネルギーに触れるということでもあるのだ。

もっと特定された場所の個々の植物について言及してほほえましかったり興味深いところなどいくらもあるんだけど、この本全部引用することになりそうで問題なので、とにかくおすすめですということで終わります☆


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