昨日の日記を速く終わらせたいんで、ま、なんとか続けています…(中盤のグダグダ)
昨日の日記↓が中途半端なので、続きが気になったのだけども~…
続きはまたに、と言ってなかなか書かないパターンじゃなく、昨日の日記、わかりにくくしかかけていない「かも」だけど、一通り書きたいことを書こうと思いました。
「書きたい。」というとちょっと違ってて、書いておこう、とか書いておいたらいいんじゃないか?ということだからです。逆に心から「書きたい。」ということがあったとして、それって、私はネットに、SNSに、書くのか?
「それ、ワタシ、noteに書きますか。」 ←自問
どうだろう、わからない。
ただ、言えるのは、あー、なんだろう。きっと、その書きたいことを、心地よく書けない感じがする。noteだと、ぶっつけで、今ぶっつけで書いてるけど、こんなふうに書くとして、気分よく書けない感じが、とりあえずあります。最近?ずっとか。まあ、しばらくそうだろうと、思います。
noteをやりだして1年ばかりたったのだけど、そこでつくづくわかったことがあるんだけど、心地よく、気分よくということが、いかに大事かということ。で、心地悪く、気分悪く、モヤモヤ、どよどよ、おどろどろどろ…wって感じるような、いわゆる「生きづらさ」が出てくることに対しては、”なるはや”で手当てしましょう、ということをとにかく、心に刻みたいのだと。そのくらい気分の良さが大事と分かった。当たり前、でもないんだワこれ。だって、気分の良さを保つことは、たやすくは、ないので。
*さていますごい大事なことは、お茶を飲んでいますね。
*ミルクティ飲んでいますね。
これが大事だ。自分にとって。
この頃自分は水分不足なんだなと思って、お湯も飲んでいるんだけど。
(こういった、ながら感が自分としては大事だなと思う。noteやってるときは。)
早くも制限時間がとっくに過ぎてもうこれ以上延長できません!!おおっと。迫ってきたなあ時間。
昨日のはしょった話を、本の引用から始めます。
…宮澤賢治が考えていたのは、人間の社会が進んで、だんだんに自分たちで環境をつくり、その中で安閑と暮らすようになり、技術的な意味で近代化の波が東北にまで浸透してきている。人間は自然から離れて、距離が出来てしまった。それに由来する不安にどう耐えていけばいいのかをずいぶん考えたと思うんです。
宮澤賢治が死んでから七十年近く経ったいま、自然から離れて、技術によって自分で環境をつくって生きるという人間の方法がいよいよ進んできた。それが余りにもはなはだしいので、本当にこれで大丈夫なんだろうかという不安感がある。そういう時になって、この問題をあらかじめ考えていた宮澤賢治の仕事が意味を持ってきた。自然が遠のいた分だけ、われわれは自然について考えざるを得なくなった。その結果、この問題について、過去の日本人の文学者の中で最も精密に、かつ深く考えてきたのは宮澤賢治であるとようやく気がついたんです。
(言葉の流星群 池澤夏樹より)
それで私は2~3日前にシビレるなあって本に出会ったんですよ。いちおうリンクを以下に貼ります!
いやでもサンプル部分しかまだ読んでいないんだけどさ。読んだうえで、これは、買いたいな!と思うくらいの内容でした。まだ買っていないけど…
で、ここまでですね!今日はね。
(読んでくださった方ありがとうございました)
*画像はPixabayから見つけてきました
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