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お茶に招待するまでは。

アウトプットじゃらじゃら言うけれどもアウトプットは単なるおうむ返しではないかと自分にツッコミを入れてしまうことが少なくない

工夫はしたとしてもいかんせん受け売りであり、表現の仕方によっては乗っ取りであり、なんだか仁義を切っていないという気が、してしまって厭世的になるのである

受け売り以上のアウトプットをするというのはそこそこ大変なことである それはとことん自分に誠実になろうとすることだからで、それには体力がいるし抵抗力がないとすぐ詐欺にあったり、無自覚な操り人形にもなってしまい、気づくのはだいたい起きてからだ 

それにしてもとことん自分に誠実であろうとするとき、言葉というのはまだるっこしくなる 足をとられる沼のような 底なし沼のような 

アウトプットがおおむね時間の無駄になるとき インプットもじゃあいらなくね という話となる そんなのは野蛮人のいうこと とされてしまうのかもしれない (しかし野蛮人からすると インプット アウトプット なんだ美味くもなさそう いっこうに楽しくなさそうと 感じられるかもしれない)

しかし、まあ わたし(たち)は時間の無駄を好む そして時間の無駄をかなしむ ということの繰り返しなのである ようするに切れ目なく無駄話やバカ話をしていたい 聞いていたい といった欲望が一方にあるのであろう 私はそれを断ち切りたいと思ったのだが そのひとつの回答なんだか、仮説なんだか、その実際なんだか、になりそうなのが、きっとたどたどしい、任意の本のページの抜書きと言うやつなんだろう それはそれで 疑問を感じないわけでもない つまり 解にいたる道筋とかはいくつもあり なんなら解もいくつもあるのだろうし だからまあ これでなくていい感もあるので

言葉というものはどうしても武器に例えられてしまう一面があり そうなると言葉を発することは戦いに巻き込まれてしまうリスクがあり しかし戦いなどだるい、だるさの極みなのである

だるい そんなことはだるい 戦い好きな人にとってはなによりイキイキしてしまうことなのだろうが、だるくてだるくてだるくて いっそウツになる感じ これがいらない。

というわけで、だるくなってしまったのでここでいったんやめる。もともとは、多分、何かを言葉にしている場合ではないのだという実感を書きたかったのだと思う。誰かとの関係、によって成り立つ「我」だけに振り回されて生きていくと、おそらく、消耗しかないのだろうと思われる それが言葉がありすぎる状態であるかもしれない 

一方で会話が成り立つことは喜びである しかし会話はなかなか成り立たないこともあり 成り立たないことが非常に多い 成り立たない会話というのはおそらく 上下のベクトルばかりが気にされてしまっており ようするに戦いであり苦痛だ だるい 会話は議論でも論破することでもない…(続く かもしれない)







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