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田中愛治監修『政治経済学の規範理論』:各章メモ


第3章:宇佐美誠「グローバルな正義と歴史上の不正義」

宇佐美さんのグローバルな正義論かつ世代間正義論についての論考。

先進国が途上国に対して負うとされる歴史的な賠償義務について、それが非同一性問題を免れないということを指摘する。

非同一性問題というと将来世代との関係で取り糺されることが多いように感じたが、逆に過去世代との関係でも問題になってくるというのは盲点だった。

第4章:田中将人「分配的正義の制度的ベースライン」

運の平等主義の難点を指摘した上で関係的平等主義の一形態を素描する論考。

やっぱり運の平等主義は色々と問題がありそうだなあ。仮に責任の同定及びその帰結についての原理的問題を回避できたとしても(井上は回避できるとしているし)、それを実現するには人々の能力、環境、信念などなどあらゆるデータを収集する必要があって、それは望ましくないだろう。

そういう点でもやはりロールズが正義をあくまでも社会の基本構造の問題としたのは慧眼だと思うし、関係的平等主義はそこを正統に受け継いでいる感じがするから個人的には結構期待している。

「適切な社会制度が整備されてはじめて、個人の選択に対して責任を問うことは可能となる。」


↓ここら辺もいつか読みたい。

  • 森悠一郎『関係の対等性と平等』

  • 瀧川裕英『責任の意味と制度』

あとは井上彰の『正義・平等・責任』も責任論のところ飛ばし読みしちゃったからいずれちゃんと読み返そう。

第5章:吉原直毅「ジョン・ローマーにおける『政治経済学』の研究」

分析的マルクス主義者とも呼ばれるジョン・ローマーの政治経済学における業績をまとめた論考。

数式が多く難しめだけど、同じく分析的マルクス主義者と称されるコーエンの本を読んだばかりだし、頑張って読んだ。


まず第2節で検討されるマルクスの搾取理論について、最終的にローマーは(そしてコーエンも)批判的であるというか現代的価値に乏しいとしているけれど、筆者の吉原によればまだ活路はあるっぽい。

一般化して言えば、最初の資源分布が不平等であるなら、完全競争下において全ての個人が最適な行動を取ったとしても、最終的に階級分化とそれに伴う搾取-被搾取関係が生じてしまう、ということでこれはコーエンも言うように初期資源の平等分配を主張する左派リバタリアニズムを正当化する論拠となり得る。ただその一般化可能性にはやや疑義がある。まあそもそも私は権利論的リバタリアニズム全般にあまり説得力を感じなくなってしまったが。


次に第3節について、ローマーが提示する「機会の平等」論の社会厚生関数は、私の目には平等主義ではなく格差原理あるいは優先主義を表しているようにしか見えないのだが、どうなんだろう。

いずれにせよ社会的厚生関数についてはもう少し勉強してみたい。


第4節もなかなか面白い。これぐらいならギリギリ理解できるけれど、それでもやはり分配的正義論の遂行性という問題になると経済学の知識は必須となるようだ。

ローマーの理論によれば、各家計の親が自分の子どもの教育投資にしか関心を払わない「利己的」選好の社会である限り、民主主義的政治的競争システムが機会の平等(遠い子孫の人的資本の分布が初代の人的資本分布に依存しない事態)を実現できるのは、人的資本の初期分布がそれほど不平等ではない上で、かつ極めて限定的な状況が成立し続けた場合であるのみだそうだ。

一方で、各家計の親が社会のすべての子どもたちへの教育投資にも十分に強い関心を払うような「連帯的」選好を持つようになれば、人的資本分布は長期的には平等化するらしい。

この議論の妥当性を判断することは私の手には追えない領域のことだが、いずれにせよ政治経済学や公共経済学という学問は正義論についても示唆的で学ぶ価値があるように感じる。

第7章:金慧「自立と所有:自己尊重の社会的基盤をめぐって」

アーレントの私的領域/公的領域論は示唆的だなあ。これは朱喜哲さんがローティを援用してバザール/クラブの区別を重視しているのと相通ずるところがあるように思う。

「『自己尊重(self-respect)』が可能となるためには、社会が提供する価値評価の基準を相対化しうるこうした空間が不可欠である。(中略)公的領域において自分自身を晒すためには、自らの言動が他者の評価にさらされない相対的に『安全な場所』を必要とする。」

ロールズが、事後的な再分配に終始する福祉国家資本主義を批判し、それに対抗して財産所有のデモクラシーを構想するにあたって「自尊」という基本財を重視していた点は現代でも大事になってくる点に思える。ロールズの議論はまだまだ検討する価値がある。

「平等の目的は、個人に対する『不運』とされるものの影響を除去することにあるのではなく、社会の基本構造における自由で平等な市民という地位をいかにして保障するかという点にあり、それがロールズの主張であった」

ここでもやはり関係的平等主義(民主的平等論)か。分配的正義論的な考え方が何かを見失っているんじゃないかというのは確かにそうかもしれない。

第8章:鈴木朋哉「熟議の不可避性:熟議デモクラシー論としてのアマルティア・セン『集合的選択と社会的厚生』」

センについてはあまり詳しくないからよくわからないけれど、社会的選択理論一般に対する紹介としても読めるのがありがたい。

社会的選好を社会的順序によって表明する集合的選択ルールを特に社会的厚生関数と呼ぶ。これに対してセンは社会的選好を順序として構成するという条件を緩和して、最良の帰結を特定することのみを求める集合的選択ルールを社会的決定関数とした。そして前者に対してはよく知られているようにアローの不可能性定理が、後者に対してはセンが示したようにリベラル・パラドクスが導かれてしまう。

しかしこれは社会的選択理論が各人の選好を所与のものとして無差別に扱っているからで、特定の受け入れ難い選好を無視したり、そもそも選好そのものの変容を考えればまた変わってくる。後者の解決策として集合的決定を熟議による各人の選好の変容過程としてデザインするといういわゆる熟議デモクラシーを支持する余地が出てくることになる。