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根源的一者とは何か~私は誰か【思索の縦軸】

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私 Yoshiaki Naoe の「私」を深める思索のあれこれ。画像:hiro0724さん[AC]
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(6-2)参考資料~真の解放のために②【 45歳の自叙伝 2016 ※最終 】

如実知自心  影響を受けた書籍で「瞑想の心理学(大乗起信論の理論と実践)可藤豊文」がある。手にした当時、帯封に「生と死の本質」とあり、大乗起信論にも興味を持ち始めたときにあって、ある期間、むさぼるように読み耽っていた。  「ラマナ・マハリシの教え」を読んだ時期とも重なり、頭の理解は比較的容易に進んだ。如実知自心(にょじつちじしん)は真我の探求とほぼ同じ意味である。その生死を超えた、存在の不思議を解き明かす智慧に私は釘付けになった。 ◇ ◇ ◇  ◇  ◇ あとが

(5-6)参考資料~真の解放のために①【 45歳の自叙伝 2016 】

武士道の淵源(仏教についての記述)  新渡戸稲造の「武士道」に、仏教と瞑想の記述がある。文末、新しき天と新しき地とに覚醒する…と、さらりと述べられているが、この風景こそが、我々個々の現象世界に対する智慧である。 ◇  ◇  ◇ ラマナ・マハリシの教え  真我の探求にあたって「ラマナ・マハリシの教え(めるくまーる社)」は外すことの出来ない書籍と思われる。この訳文は山尾三省氏によるものだが、訳文にある「自己」について、母は「真我」と訳されるべきだと言っていた。確かに、そ

(5-5)佐藤さんの宿題【 45歳の自叙伝 2016 】

心が救われるために  ヒーリングに対して、揺らいだ気持ちを抱きながらでも、声を掛けてもらえる会場や個人の方がいると、やはり通すことを止めることは出来なかった。そうしなければ自分たちが干上がってしまうからだった。東北へ行くときは低価格の高速バスを利用したが、その道中は有意義な勉強時間となっていた。佐藤さんが亡くなってからと言うもの、その「心」が救われるために必要なものを求める思索のなかで、あらためて、仏教の唯識思想関連の書物を読み返していった。理由は「心」を紐解くことだった。

P35. 解脱とは何でしょうか?束縛されている自我の本性に尋ね入り、その真実の本性を悟ることが解脱である…とマハリシ。光源とフィルムとスクリーン。自我はスクリーンに映る流浪の映像。映像を離れ、フィルムを捨て去り、光源とひとつに還る。一者の智慧で自我を手放す恐怖が至福となるように…

P34. 無欲と智慧の関係は?無欲と智慧それは同じもの。無欲とは真我のみを求めること、智慧とは真我を決して離れないこと…とマハリシは言う。ただ在りてある一者、その分光たる心、彷徨う心は対象物(影)を創る。そして一者を光源と見做すのは心。だが哀しいかな光源と影に直接の繋がりは無い…

P34. 洞察力とは何でしょうか?静寂にあることが洞察力である。静寂とは心が真我に溶けていること。過去や現在、未来を知るテレパシーのようなものは洞察力ではない…とマハリシ。物理現象おろか、直感や共時性、辿られる過去世も粗大な対象物…と観る働きに還る。非ず非ずの洞察、消え逝く主客…

P33. 幸福とは真我の本性そのもの。私たちは無知のゆえに対象物から幸福を得るものと錯覚する。心が外に向かえば悲惨を味わう。世界と想いが消え去れば、心は幸福を経験する…とマハリシ。想いとその対象物(二元)を滅し、清浄なる沈黙(一元)にあり続ける智慧、心と一者の邂逅、如実知自心…

P32. 解脱を願う者にとって本を読むことは・・・本を読むあいだ解脱は成されない。何故「私は誰か」と問うか。想いと対象がある限り一者は隠され続ける。想いの源流を辿るとき、為すべきは心を静寂に保つこと。手放す恐怖が智慧で癒され、輪廻に縛られた心もろとも「沈黙」に溶け込み滅するまで…

P31. 解脱(真我)を願う者にとって、現象世界の構成要素や性質の探求は全く不要であり、すべきことは真我を覆い隠すもの総ての拭い去りである…とマハリシ。そして、現象世界は夢のようなものと見做されるべき…と加える。そろそろ真我を(観る働き以前の)根源的一者に置き換えたくなってきた…

P30. 神および師(グル)は解脱への道を示すのみ。弟子は示された道を自らの努力で追求し解脱を得なければならない…とマハリシ。言わば禅語の冷暖自知だがこれは自明。論点は冷暖自知をも囚われと峻別する道程(ディヤーナ)、並びに明け渡し(サマーディ)にあるかどうか。観る働きも露と消え…

P29. どのような帰依者が最上か?― 総てを真我に委ねきった者、真我の他に想いが起こらず無心に真我に留まる者が最勝の帰依者とマハリシは言う。これは現実逃避なる想いではなく、一者としての智慧の顕現その自覚があって…と思うのだが。何もかも真我に明け渡せば幸福に仕舞うと言うのだろう…

P29. №17 少し読み辛い。意志を持たず、ただ存在するという美徳の「太陽・神・エーテル」は真我の比喩だろう。自然現象や個我のカルマが、真我とは全くの別物という影であり、如何に無力であるかを ラマナ・マハリシは説いているように思う。自意識過剰が招く観自在の欠如と誤った寄る辺と…

P28. 真我の本性とは何か?存在するのは真我のみ。真我は「私」という想いが絶対にないところのもの、それは沈黙と呼ばれる…とラマナ・マハリシ。喩えれば、対象物たる心のざわつきを滅し、あたかも水面の月光が静寂しきった月とただ一つに還るように。釈尊の拈華微笑は沈黙の響きなのだろうか…

P28. 探求はどのくらい続けるのか?ラマナ・マハリシは、心に対象物とその印象が残る限り「私は誰か」と尋ねなければならない…と言う。結局、心は自らの想いに縛られる。心と想いの主客に気づいたら、想いのみならず主(あるじ)たる心の消滅が叶うまで探求は続く。私の心を存在させた私は誰か。