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掌編「たびのはなし」


バスはゆっくりと走り出す——夜行バスの中で考えた旅のこと、時のこと

「たびのはなし」


 バスはゆっくりと走り出す。
 夜露に濡れた道を。
 どこかの国の兵士たちの号砲がエンジンに火をつけ、パイプの中を水泡の鼓笛隊が行進する。床の下から伝わる微かな振動が水族館の厚いガラスを揺らす。その向こうで舞い泳ぐ魚影。

 凛は窓辺にいる。
 消灯後の真っ暗な車内では携帯電話も触れない。本も読めない。ヘッドライトの先にある闇夜の道程と同じだけの薄暗い時間がそこにはあった。指先でカーテンをほんの少しだけ開く。そこには数刻前と代わり映えない、光疎らな高速道路の断片が垣間見えるだけだ。
「時間について考えることなんてどれくらいぶりだろう?」
 ふと、そんな考えが頭を過ぎった。マイペースな凛だが、こんな風に心を散らす暇もない程度には忙しない日々に身を預けていた。とはいえ、彼女の人生は特別なことなど何もない、酷くありふれたものであった。そして、そのありふれ方に彼女は満足していた。とても。
 前にもきっと時間について考えたことがあった。それはつい最近だったかもしれないし、随分昔のことだったかもしれない。生活はいつだって、そんなことをあっという間に忘れさせてくれる。それは海に行くことと似ていると凛は思った。海を去る前、きっと誰しもが「また来よう」と思う。そして玄関で靴を脱いだ時、誰しもがその感触を忘れてしまう。これは小さな発見だと思った。些細だけれど素晴らしい発見だと。と同時に凛の中にある考えが浮かんだ。それは、以前にも同じ発見をしていたのではないか?  ということ。いずれにせよ、それは悪くない兆候に思えた。だから、凛はそのまま思い出す遊びをしていた。訪れたことのある土地の名前や高校の時のクラスメイトの名前、昔見た映画のタイトルなんかを。それは記憶だった。この目で見て、この手で確かに触れた、いつかの現実。だが、それは物語のようにも思えた。脳みそや神経や血管や細胞……そこに流れる信号が生み出した、そこにしかない物語。

●●

 凛には双子の姉がいた。名は蘭と言った。
 蘭は凛と同じ日に生まれた。当たり前だ。そして同じ食卓につき、同じ学校に通い、同じように愛された。違ったのはただひとつ。
 彼女は死んだ。
 二十八のある夏の朝に。
 そして、それは自死だった。
 突然、なんの前触れもなく彼女は死んだ。母親も父親も蘭の夫も友人も、誰も彼女の死を予測することはできなかった。もちろん凛にも。棺桶の中の蘭は天使のような顔をしていた。凛はそれを直視できなかった。彼女はその晩、三度吐き、胃に取り込んだすべてのものをトイレに流した。
 凛と蘭はよく似ていた。容姿も声色も仕草も、身につけているブラジャーのサイズさえも。ふたりは示し合わせたかのように同じ日に風邪をひき、同じ日に生理になった。恋人にさえ、彼女たちふたりを見分けることは難しかった。だから、凛と蘭は修学旅行先の港町で買った飴色のピアスを目印につけた。凛は左耳に、蘭は右耳に。そうすることで、家族や恋人やクラスメイトは彼女たちを区別した。
 時々、ふたりはピアスを入れ替えて遊んだ。凛が蘭になり、蘭が凛になる。そうやって、それぞれに生まれ変わってみたのだ。はじめのうちはそれも楽しかった。入れ替わって恋人と会ってみたり、誰かを驚かせてみたり。だけど、それもすぐに飽きた。入れ替わろうが、入れ替わるまいが世界は大きく変わらないことがわかったからだ。
 棺桶の蘭の表情、それは自分にはない表情だった。凛は何度か蘭の夫に会った。蘭がこの世を去ってまだ間もない頃のことだ。蘭の夫は会うたびに驚いた表情を浮かべた。それはいつもほんの一瞬だったが、しかし、それ故に確かなものだった。待ち合わせ場所に着いた時、凛は彼の瞳の奥の深い所にそれを見つけ、少しだけ心を痛めた。彼は真っ当な人間だった。蘭の死を受け入れ、彼なりに新しい人生を歩もうとしていた。彼が自分と会うのは、そのための通過儀礼のようなものなのかもしれないと凛は考えた。
「人が死ぬのは、とても当たり前のことなんだ」
 僕が君に言うのもおかしな話だけどと前置きして蘭の夫は言った。その時、彼の瞳には亡き妻によく似た女が映った。

●●●

「泣いていましたよ」
 海鳴りのような声が胸の奥の方を愛撫した。目覚めると、隣の席に見知らぬ青年が座っていた。彼はシャツの胸ポケットから紺色のハンカチーフを差し出した。
 凛とした顔立ちの青年だった。力強く、しなやかな眼差し、櫛でしっかりと整えられた漆色の髪。西洋白磁のような美しい造形の肌。彼の容姿は、ヴィスコンティの「山猫」に出てくるアラン・ドロンを思わせた。
「ありがとう。でも、大丈夫」そう言って、凛は人差指の先で小さく涙を拭った。消炭色のマニキュアが淀む。だが、悲しみが思いのほか重く、深かったせいか、かえって自然と明るく振る舞うことができた。
「どうして悲しいことばかり思い出すのかしらね?」
「それはきっと、あなたが悲しみを愛しているからですよ」その美しさのあまねきためか、青年の言葉は誰かの台詞のように響いた。
「呼んでいるということ?」
「そうですね」
 青年の囁き声にはどうにも凛を惹きつけるものがあった。それは惑星間の引力のように不思議な力だった。
「こんな話を知っています」そう言って、青年は話を聞かせた。その間、彼の本質は目まぐるしく変化していった。天使のような悪魔、あるいは悪魔のような天使といった風に激しく表裏を行き来した。「昔ね、恋人を氷漬けにされてしまった男がいたんです。迷いの森で悪魔の息吹に吹かれたんですね。既のところで彼は恋人をなんとかこちらの世界に引きずり出したんですが、その身体はすっかり冷たくなってしまっていた。男は氷の恋人を家まで運び、毛布で暖めました。でも、まるで歯が立ちません。どれだけ衣を纏わせようと、その冷気は一向に緩む気配がありませんでした。次に男は暖炉に火を焚べました。炎で氷を溶かそうとしたんですね。でも駄目でした。薪が足りなかったんです。
 それでね、男は覚悟を決めて山へ入るんです。恋人を部屋に残して山に篭り、数え切れないほどの木を切る。霞を食べ飢えをしのぎ、熊に襲われそうになりながら、気がつくと季節が一回り、二回りしていました。腕も足もボロボロになって、それでも男は木を切り続けたんです。そして、きっかり三年がたった日に氷漬けの恋人のいる家に戻りました。そして、暖炉に薪を放り込み、マッチを擦りました」

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 バスは孤独な宇宙船のように走り続けていた。
 凛は喉がひどく渇いていることに気が付いた。何故だかとても緊張していた。それは青年の引力のせいなのだろうか? 彼女は彼の声を聴き漏らさぬよう、十分注意しながらペットボトルの水を一口だけ飲んだ。
「男は次々に薪を焚べました。毎朝、山からは自分が切った木が運ばれてきて、男はそれを庭で割り薪にしました。気付けば薪の山は家よりもずっと大きくなっていた。しかし、恋人の姿は一向に変わる気配がありあません。身体も表情も彫刻のように時の流れから外れて静止しています。それとは対照的に男の姿は変わっていきました。もちろんその中身だって。この世にいる限り、諸行無常ってわけです。
 幾日も幾日も男は薪を焚べ続けました。しかし、悪魔の氷はまるで溶けそうにありません。男はだんだんとそれが憎らしくなってきました。どれだけの想いで火を焚こうと、目の前に佇む氷の恋人は微動だにしません。でも、彼は必死にその感情を押し込んで薪を燃やし続けました。そこに恋人がいる限り、彼は薪を燃やし続けるつもりでいたんです。
 やがて、あの山のような薪も尽きてしまいました。男は困り果てました。彼にはもう、険しい山へ出て行く気力も体力もありませんでした。それでも、男は火を絶やすことができなかった。いつしか、それは男のすべてになっていた。だから、彼は家を少しずつ壊して、薪の代わりに焚べていったんです」
 青年の瞳には、めらめらと燃える男の炎がはっきりと映り込んでいた。その熱や煙たさは、隣にいる凛へと今にも迫らん勢いだった。
「まずは空いている納屋を。それから風呂場を、台所を……って具合に、男は家を燃やしていきました。もう引き返すことはできなかったんですね。近所の人々は気が狂ったんだと思って男を止めました。でも駄目でした。男からしてみれば、それは狂わないでいるための唯一の方法だったんです。家はあっという間に火に飲まれていきました。そうやって少しずつ彼の領域は消えていって、とうとう男は死んでしまったんです。肺炎でね。呆気ない最後でした。長いこと火の近くにい過ぎたんですね。彼は文字通り燃え尽きた。それはちょうど家がすっかり無くなるのと同じタイミングでした。そして、彼の火が消えるとともに氷も消えた」
 バスは間も無く、夜を追い越そうとしていた。

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「彼はいつ自由になれたと思いますか?」
 青年は凛に尋ねた。
 しかし、凛は答えなかった。眠りたかったのだ。そんなことよりも夢を見たい。水をまた一口飲み、ブランケットを掛け直す。眼鏡を外す。ひび割れていく視界のそのスピードよりも先にぎゅっと目を閉じる。「夢はある。そこに夜がある限り」そんな言葉を思い出した。
「ねえ?」
「なんです?」
「ひとつだけ聞いてもいいかしら?」
「なんなりと」
 彼女は真っ暗な車内にいた。僅かな光の明滅以外ほとんど動きがない、固定化された空間に。記憶と物語の境界。それを確かめる術は最早ない。審判を下せる者はいない。
「その人は信じていたの? 氷が溶けると」
「さあ」
 彼は声を消し、表情だけで笑った。あの天使と悪魔の様相で。それは完璧な美しさだった。まるで、死んだ人間のように。

 凛は目を開く。
 東雲の路上の雨粒がヘッドライトの光と混ざり、燦々と弾ける。
 そしてまた、彼女はひとりになる。


君は友の、澄み切った空気であり、孤独であり、パンであり、薬であるか。みずからを縛る鎖を解くことができなくても、友を解き放つことができる者は少なくない