子育て全般の中で、セオリー化しているものとそうでないもの

小1と3歳をワンオペフルタイムで育てる私には、最近常々感じることがあります。それは標題のとおり、セオリー化の有無を意識することの大事さです。自分なりの見極めが、自分も子供もハッピーにするような気がします。

今から6年前、上の子の一ヶ月検診に行ったときのことです。

それまでの一ヶ月間、私は妊娠時に産院から配布された資料一式を穴が開くほど読み込み、なんだったら赤線まで引いて、人生初の育児と格闘していました。

なんとか無事に一ヶ月を乗り切って、想定通り産院からは「順調です」のお墨付きをいただき達成感を味わったのも束の間に、私は人生の中でも最大級の衝撃と動揺で魂を揺さぶられました。

なぜなら、二ヶ月目以降、当座の子育てをどう乗り切ればいいのかについて産院からなんらのインストラクションもなかったからです。あの時の私は、一ヶ月検診の終わりには、二ヶ月目以降の子育てマニュアル本が支給されると信じて疑わなかったのです。でも、何ももらえなかった。お金だけ払って、一ヶ月児と共に大海原に放り出された。これから一体何を指針にして生きていけばいいのか。。。

2児をワンオペで育てる今となっては、当時の私がいかに子育て素人だったかを物語る単なるネタと化していますが、6年前のあの日の私は、子育てという人の生き死にを預かる営みにマニュアルが存在しないことに、本当にびっくりしたんです。

また、こんなエピソードもあります。これは最近ふと気がついたことでもあるのですが、子供の教育に関する自分のスタンスが、知らぬ間に180度転換してることについてです。

3年前、私は、3歳になった上の子を公文に入れました。それから3年弱の間、なけなしの隙間時間を捻出して、上の子にほぼ毎朝公文式のプリントをさせ、週2で公文教室に通わせました。

でもその後、小学校進学直前に公文をやめさせ、しばらく後に過去3年間で身についた朝の学習習慣も手放しました。手放したというよりも、子供に声掛けしないことにしたら自然とそうなりました。まぁ当然の結果という感じですが。。

一ヶ月検診のあの時、私は子育ては一切合切がセオリーそのものだと思っていました。明日の朝は何をして、その昼はどうすべきか、全部決まっているものと。
3歳過ぎから小1まで上の子を育てる中で、当初は当たり前のように先取り教育というレールに乗っかりましたが、いまはむしろ、少なくとも自分の子供は学校の宿題以外はやらなくていいや派になりました。試してみたもののうちのいくつかをセオリーではないと整理したということかなと思います。


つくづく思うのですが、インターネットにも巷の会話にも、セオリー前提の押し付けって多いですよね。特に子育て。

もちろん、実際に育ててみないことには分からないことは、まずは他人のやり方を真似してみるのはいいんだと思うのですが、ある程度経ったら、「そういうもんだ」と思っていたものを疑ったり、仕分けしたりしてみるのも大事な気がします。

もちろん、人によってどこからどこまでをセオリーとするかは違うと思うんです。でも、自分がどこまでをセオリーに位置付けるかを意識して暮らすと、案外小さいストレスやら、ちょっとしたやりくりの負担が軽減する気がします。


自分のセオリーを見極めよう。

以上、私の短い子育て経験から得た教訓でした。


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