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「座り込み」という市民劇

前編 沖縄・辺野古を訪れる
後編 「座り込み」という市民劇

Ⅴ.

「そろそろ行きましょうか」といった具合にそれは始まる。平和市民連絡会の方だろうか、座り込みを主導する人がいて、彼は土砂搬入のタイミングを把握しているようだった。建設会社に内通者(?)でもいるのか、それともセメント会社の前で待機している仲間と連絡を取り合っているのか。単に搬入は毎日決まった時間に行われているのかもしれない。いずれにせよ座り込みは、それまでの時間と地続きに軽やかに始まる。

搬入用ゲートを塞ぐようにして並ぶ警備員の前に、小ぶりな折り畳み椅子がずらりと並べられ、参加者らが座ってゆく。

警備員らと同じく、ちょうどゲートの幅に一列を作って、座り込みは始まった。ゲートの向かい側、写真手前側にスピーカーを置いてマイクを通し、主導者が演説を始めた。また「何か言っておきたいことがある人はいますか?」と尋ね、数名が思いの丈を語る。歌を歌う者もいた。

やがてして道の彼方から、生コンクリートと土砂を積んだトラックがやってくる。

数え切れないほどのトラックが道いっぱいに渋滞を作った。ゲート前は熱気を帯び始める。

主導者は「一般車両まで巻き込んで、何をやってるんですか建設会社のみなさん!」と煽り立てる。トラックの間に数台、一般の方の車両が挟まっているらしい。「何の対策もせずに渋滞を引き起こして、何やってるんですか沖縄県警のみなさんは! 一般の方が抜けられるように道を開けてあげればいいものを、工事を優先して、大迷惑ですよ!」

トラックが渋滞を作り始めると、どこからとなく機動隊が現れ、メガホンで座り込みを行う人々に警告を発する。市民側のマイク音量の方が大きいのでよく聞こえなかったが、おそらく強制排除を行う前に、立ち退くように通告を出していたのだと思う。それでもなお座り込みを続ける市民に対し、機動隊による強制排除が始まる。

立ち退きを拒む市民は機動隊員3人がかりで両手両足を捕まれ、ひとり、またひとりと連れて行かれる。その先には鉄柵と機動隊員で簡易に囲われた檻が作られ、トラックが通れるようになるまで市民らは檻に囚われる。

人々はある程度の抵抗はするものの、暴れるなどして本気で抗う者はいない。シュプレヒコールを叫びながらも市民は運ばれて行く、まるでモノのように。怒号の飛び交う中で、その作業は粛々と、淡々と行われた。

強制排除が終わると、トラックが中に入って行く。その頃には囚われていた市民も解放されて、ゲートの両脇で、その手にプラカードを掲げ、シュプレヒコールを叫ぶ。

「美ら海、守れー!」
「美ら海、守れー!」
「生コンは、海を潰すなー!」
「生コンは、海を潰すなー!」
「沖縄の海を、壊すなー!」
「沖縄の海を、壊すなー!」
「わっしょい!」「わっしょい!」
「わっしょい!」「わっしょい!」

土砂や生コンを積んだトラックがそろそろ全て基地内に入ろうとし、またその頃には搬入し終えたトラックが入れ違いで出てこようとする。市民らは今度は「通行の時間」を要求し、「通行人」のていでゲート前を何度もなんども行き来し、搬入し終えたトラックの行く手を阻もうとする。

だが、5分にも満たずに「通行の時間」は終わり、強制的に道が開けられトラックが出て行く。トラックの搬出入の時間は「通行の時間」よりもはるかに長い。市民らはまた両脇から反対の声を挙げるしかなくなる。

「もう8分も経ってますよー! 歩行者優先の原則はどうなってるんですかねー!」

トラックがあらかた出て行ったあたりでと主導者の声がかかる。「そろそろ一旦休憩にしようと思います! みなさんお疲れ様でした!」それで座り込みによる土砂搬入への抗議行動は終了となる。

Ⅵ.

一連の抗議行動を見ていて、僕はたびたび驚いた。この抗議が極めて形式的に行われているからだ。

それは搬入開始のタイミングを事前に知っていることもそうだが、「座り込みによる搬入妨害 → 強制排除 → ゲート両脇からのシュプレヒコール → 通行による帰路の妨害 → 強制排除 → ゲート両脇からのシュプレヒコール」という構成がはっきりしていること、その構成を主導者が明確に理解して指揮していることから感じられた。

また市民らの中に搬入妨害のために本気で身を投げ出す者がいたわけでもなく、警備隊や機動隊も、彼らの抗議行動を最初から叩き潰そうとはしていなかった。互いの存在、互いのしなければならないことを理解した上で、それぞれの一線を踏み越えないように関わり合っているように見えた。そうしたことも「形式」を感じさせる一因だった。

僕は感じた。「ああ、この人たちは本当に毎日これをやっているんだ」それは参加人数の少なさとも合わさってそう思う。彼らの抗議行動はお祭りのような一時の大騒ぎではなく、むしろあくまで日常の中で、毎日毎日継続するものとして抗議を行っているのだ。形式が生まれていることには、そうした時間的な積み重なりが背景に感じられるのだった。

もちろん毎日といっても、本当に同じ人が毎日ずっと来ているわけではないだろう。参加者は毎回変わるだろうし、主導する人ですら時には変わるだろう中で、表現がこの辺野古のゲート前に蓄積されていき、形式が保たれているのではないか。

僕はここに演劇を感じた。職業柄、色んなものを演劇の比喩で見てしまうのだが、これは他のどんなものとも違う。これは「演劇的」などというものではない、「演劇そのもの」ではないかと感じた。目の前で起こる出来事と、それと同時に、しかし別物である形式が存在していることの二重性。また時間配分も構成も完璧に出来上がっている。これが演劇でなくてなんなのか。

ここで行われているのは「演劇の上演」だ。そう考えると、いろんなことが腑に落ちるのだった。

なぜ彼らはこうした形で抗議を行うのか? 僕はあまり理解できていなかった。それを行ったところで基地建設を中止に追いやることができるわけでもないだろうし、アピールだとしても、こんな辺境の地では、街中でやるデモに影響力でははるかに及ばないだろうに……。

けれどこれを演劇と考えるなら腑に落ちる。なぜ僕らが演劇において、毎日稽古をして、何度も上演して、金にもならないのに、なぜそんなことをずっと繰り返しているのか? それと同じことなのだ。

つまり自らの存在に疑問を持つこと。そして態度を示すことだ。なぜ「私」はこの世界に生まれたのか。なぜこの社会に生まれ、この身体を生きているのか。この身体は、社会は、世界はどう在るべきか。そして「私」はどう生きたいか。そうしたことのパフォーマティブな表現が演技であり演劇である。辺野古の座り込みという抗議行動もまたこれと同じなのだ。

彼らは基地建設をどうこうできると思って行動しているのではないのではないか。それよりももっと実存の部分でこれを行っているのではないか。なぜ自分たち沖縄県民の意見は抑圧されなければならないのか。なぜ「私」は虐げられなくてはならないのか? そのことに疑問を持ち、ゲート前に座り込むことによって「否」の態度を示す。その先で排除され、モノのように運ばれることによって彼らは圧倒的な現実の洗礼を受ける。しかしそれでもなお「否」の態度を示し続ける。ここには「生の不条理」に立ち向かうドラマがある。

Ⅶ.

抗議行動は12時ごろと、15時ごろにもう一度あった。結局僕は最後まで見届けて、16時のシャトルバスに乗せてもらって帰ることになった。

バスの中で、僕の感じたことを沖縄の方々に伝えたら、興味深く聞いてもらえた。だがその上で参加者の一人から「これが日常になっていることの異常さを感じてもらいたい」と言われた。それは本当にその通りだった。目に見えるものだけが全てではない。その背後にあるものまでつぶさに見なくてはならないだろう。

辺野古の舞台には、座り込みを行う市民らの他にも出演者がいる。それは基地を守る警備隊と、沖縄県警の機動隊だ。上演において、これらの複雑な関係を見て取ることができる。

まず市民と機動隊は、必ずしも敵対的な関係を取ってはいない。機動隊は強制排除を行うが、それはあくまで役を演じているに過ぎない。市民への接し方ひとつ取っても丁重に扱っているように見えたし、抗議が終わると「おつかれさん」と市民に声をかける隊員もいた。そこには役割を違えただけの、同じ沖縄県民としての連帯が微かに見えるのだ。

一方、基地を守る警備隊についてはこの限りではない。写真の中でも確認できるが、彼らは「テイケイ株式会社」の警備員である。基地周辺の警備は、防衛局の発注により「綜合警備保障(ALSOK)」「セントラル警備保障」などの東京に本社を置くような大手警備会社に委任されている。テイケイもまた東京・新宿に本社を置く警備会社であり、かつ沖縄に支社を持たない。つまり警備員らは本土から派遣されているのだろうと推測できる。

その違いは上演の中にも感じられる。排除を行うにしても、あくまでコミュニケーションを取りながらに市民らと接している機動隊員らとは異なり、頑として黙し、目線を合わすことなく突っ立つ警備員らはとても異様で、不気味な存在に感じられる。バスの中でも「機動隊員は人の目をしてるが、警備隊の連中は虚ろな目だ。ロボットみたいに血が通っていない」という声があった。

もちろん実際のところ、彼らがどのような気持ちでそこに立っているのかは定かではない。同情的な者もいるのかもしれない。だが少なくとも警備隊が、市民らや機動隊員ら沖縄県民とは利害関係を異にした存在であるのは間違いない。

そしてなによりも、こうした人々の背後にある目に見えない、より大きな力の存在について考えなくてはならないだろう。沖縄と本土との間にある力の格差、それが生じた歴史的な背景や、アメリカとの関係、金の流れ、そして現代日本人の思想について。

Ⅷ.

実のところ、「基地建設」に限って言えば、僕はそこに明確なスタンスを示すことができない。ハッキリと意見を言えた方がいいのかもしれないが、他国との関係や国防だなんだ、あるいは環境のことやお金のことやと考え始めると、問題が複雑すぎて手に余る。判断を下すための知識が足りていないのではないかと感じてしまうし、あるいは知識の足りない中で無理矢理決断を下すためのモチベーションにも欠ける。ああ僕は無関係に甘えてのほほんと生きている東京都在住の香川県民なのだ。

だが、辺野古の座り込みを「演劇」とすることで、この問題を異なる視点で見ることができる。なぜならここには「不条理への抵抗」という人間の普遍的なテーマがあり、「上演」はそれを強く感じさせるものだったのだから。そうしたことならば僕と無関係ではありえない。

最初に書いた通り、沖縄には構造的差別が働いている。日本において地方はあまりにも力を持たず、その最たる存在である沖縄は、地理的にも歴史的にも立場が低くならざるをえない。その格差の結果が米軍基地の偏りを生み出している。

そうした格差構造に目を向けずに「沖縄は自ら基地建設を望んでいる」などと言うのは、「相手女性の合意があった」などと言い逃れる性犯罪者の主張となんら変わりない。つまりこれは「ハラスメント問題」と同じ構造を持っている。

何が問題か。それは「合意」の有無ではない。「合意」が(あるいは「拒絶」すらも)本来的な意味で機能せず、誰かの別な恣意的な解釈がその場で有力となってしまう非対等な関係の生じていること、そしてその無自覚な悪用こそが問題なのだ。

東京でも身近である「ハラスメント問題」との接続を経て、ようやく沖縄の問題は自分ごとに変わる。基地建設の是非については相変わらず結論を出せないまでも、彼ら沖縄県民の声が歪められてしまう「格差の構造」については、このままあって良いわけがない。基地問題は重大で複雑であればこそ、対等な関係の上で考えられなければならない。

基地問題は「沖縄の問題」ではなく「我々の問題」なのだ。上演にはそのような形で見るものを引き込む力があった。

Ⅸ.

辺野古の基地建設反対運動である「座り込み抗議行動」は、市民の実存に基づいた行為から自然発生的に生まれた市民劇であり、示唆に富んだ優れた演劇と見なせる。しかしほぼ毎日行われている上演に対し、立ち会う観客が数える程しかいないのは本当にもったいないことだ。多くの人に見てもらいたいと思う。先に述べた通り今はLCCが出ていて那覇まで安いし、辺野古へも無料のシャトルバスが往復で出ている。興味のある方は現地に行って、ぜひその目で上演を見てみてほしい。

また別な展開として、「座り込み」をちゃんとした「作品」として「劇場で上演する」ということも充分可能だと感じた。それができれば観客も増え、問題を広く届けることができるだろう。彼ら沖縄の人々に働きかけても良いし、勝手にどこか別の場所で演劇にして上演してもいいかもしれない。それは僕がやっても良いし、誰がやってもいい。なんだっていいから、そこに生まれた表現を、表現に向かう力を、決して絶やすべきではない。そう感じさせる強度が、この「演劇」にはあった。